疲れましたので、GLAYのライブビデオ他を見せて頂いたので、その感想だけ。
2004年のGLAY EXPOの「BELOVED」と「HOWEVER」を見せて頂いたわけで、なんというか、演奏している人たちと、歌の送り手がまさに一体化しているようなすごいライブだな、と思ったわけです。TERU君の目の中にあるものは、正直にあるものは渇望と激情であると思う。それは、一度ボロボロにしてしまって失った結果、自分をもズタボロにしてしまって、もう一度取り返したくて、激情にさいなまれている人の目だと思う。そうできるか否かなど、真の意味では考えずに、それしかできないからそうしているだけなのだと思う。
だから、今、その目を前にして何を思うかといえば、結局私たちは、同族は3人が3人とも歪んでいるのだと思う。一人は優しすぎて戦う力が乏しい。一人は、もちろん戦略の上では細やかな配慮も計算もできない人ではないけれども、彼の本質はあの「激情」であって、今日現在まで、彼が私自身のことを理解できていなかったことは否定できない。そして、私自身はといえば、強い目の力は持っているのかもしれないけれども、目が「見えて」いなくて、自分ではその力を使う能力は乏しい。誰もが本当の意味で、その持てる力をバランス良く使うことができないでいる。
何故、私たちはこんなにも歪んで弱体化してしまったのだろうか、と思う。それはきっと、清浄さを大切にし、穢れに触れないことを大切にし、閉じ込めるようにして守り育てていることしかしなかった内にそうなってしまったんだと思う。「神」というものにとって、「清浄さ」を保つのは大切なことなのかもしれない。
でも、私たちは結局は「神」じゃなくて、「人」だ。「人」にとって大切なのは、どんなに穢れた場所であっても咲ける強さであって、「清浄さ」が無ければ生き残れない「人」は、もう「人」として歪んでいて、「神」としても呼ぶべき存在では、もうあり得ないのではないか、と私はそう思う。
KAT-TUNの「In Fact」のPVも見せて貰ったけれども、彼らはすごいと思った。彼らの歌は兄さんのお歌でもあるけれども、彼ら自身が私に戦う力を与えたいと強く願っていてくれるのが分かる。かつて私が小さな諏訪神社で軍神に願ったものは、紛れもなくそれであって、そうして生き抜く力こそを私は望んでいたので、結局は彼らが、彼らだけが私が真に欲しいものを私のために願ってくれてたのだと思う。
私は2番目の子と再会すれば、彼を受け入れられるであろうし、昔と同じ気持ちを彼に対して取り戻せるであろうとも思う。(毒蛇兄さんがあんまり邪魔しなければねーー;)
でも、結局私が今、一番大切だと思うことは、私たちが「歪んだ神」ではなくて、どんな場所でもたくましくバランスとって生き抜いていける「人」になるべきだし、そういう努力を怠って清浄さしか追求してこなかったからこそ、私たちはこんなにも歪んでしまっているんだと思うのです。
そして、そうなるには戦う力が必要だし、それは3人だけでは足りない。KAT-TUNのみんなは兄さんの背中を指して、「彼を取れ。彼なら間違えないから。そして、あなたの目の力で一族を巻き込んでいけ。」と言う。彼らがそう言えるようになるまでに、脱退してしまった赤西君も含めて彼らがどんな犠牲を払ってきてくれてたのかも分かる。
それでも、私は彼らの言うことを全て鵜呑みにするつもりはないけれども、誰かを守るための力を得るためには、戦いというものが必定である以上、私の冷酷さと兄さんの力は必要で有る、とそう思うだけだ。冷静に客観的に判断して、彼のことは愛せると思うけれども、彼では駄目なのだとそう言うしかないのです。一族の人は、私の蛇の性質を非難するかもしれないが、しかしそうでなければ私は今まで生き残ってこれなかったし、一族にバランスを取って私を守る力はもはや無いのに、何を言うのか? それが分かってるからこその、兄さんとの政略結婚を画策したのはいったいどこの誰だ? ってそういうしか無いのだ。それだけのことだ。