ヘバト女神の別の姿であるハンナハンナの項を増やしたわけですが、前回の更新から2週間以上経ってしまいました。ヒッタイトの神話は、エジプトやメソポタミアの古い神話から、ギリシア神話へと神話が変遷する過程で、中間的な位置にいるのですが、書いている内に、古いものとの比較、ギリシア神話との比較をしている内に、書く量が膨大になってしまったわけです。
書いていて、一番悩んでいた部分は、ハンナハンナの神話と、キュベレー・アッティス神話の違いでした。キュベレーがヘバトと同系統の名前を持つ、同系統の女神であることは分かるわけです。ヒッタイトの時代、ヘバトとテシュブの息子神はシャッルマといって、軍神であり、テシュブと一緒に悪竜と戦う神話なんかがあったわけです。でも、ギリシア神話の時代に入ると「アッティス」という息子神が登場して、しかもこの神は軍神でもなく、女神を怒らせて、自ら去勢して死ぬ、という神なのです。そして、アッティスは穀物神に見立てられていて、死んだ後、数日経って生き返る、というような祭祀が実際にあったらしいです。このアッティスに「軍神」らしい要素はあまり見られず、どうもシャッルマが起源とは思えないわけです。ギリシア神話時代のキュベレー信仰は、トラキア系の神サバジオスとキュベレーが習合した後の神話に基づいていますから、サバジオス信仰と関連性が深く、ヒッタイトの時代にみられなかった要素については、「トラキア側から入ってきたもの」とみるしかないと思うのです。そうすると、「キュベレーの荒ぶり怒り狂う姿」もサバジオス的姿であるとも言えるのではないでしょうか。(本来のキュベレーは穏やかな豊穣の太陽女神であったと思われます)キュベレーはアッティスの死に大きく関わっており、彼女がアッティスを「とり殺した」みたいになっています。アッティスが人工的に「作られた」神であるとすると、まるでアッティスは、「女神に殺される」ということを前提として作られたように思うのです。そこで、
「植物だって、実をつけて枯れるものに、枯れないものがある」
のに、なぜアッティスは再生の前提として死なねばならないのか、しかもなぜオシリス的に「去勢」しなければならないのか、どうもその辺りが自分でも良く分からなかったわけです。でも、神話における「親子」とは、単に出自の異なる神々を一つに纏める際に、力関係の強い方を親、弱い方を子にしただけのもの、とすれば、弱い方の神(と、それを信仰する人々)を犠牲として、社会的に上位にいるものが肥え太る、という思想が根底にあって、「親子」というのは、どちらが「喰う神」で、どちらが「喰われる神」なのかを明かにするための「暗喩」に過ぎない、と気が付いてはっ、としたわけです。「子神が親神と同じもの」というのは、子神が親の餌であって、食べられて親神に同化する存在であるからに過ぎない、となれば、死するアッティスは「餌のアッティス」であって、再生するアッティスはアッティスという名の「キュベレー・サバジオス」で、そもそも「別の物」と考える方が正しいのだと思うわけです。そうすると、毎年豊穣のために、「喰う神」にアッティスを捧げる「犠牲の祭祀」が行われる必要性が出てくるわけです。アッティスを神として祀るのは、「喰われる側」の人々をも納得させるためだけの方便のようにも思えます。
こう考えていくと、西欧の神学を論じる際に、「父と子」が「同じもの」なのか「違うもの」なのかということが、非常に重要な問題であることが分かるわけです。「同じもの」であれば、子孫を残さずに犠牲となる神と、それを喰らって繁栄する神とをどうやって「同じもの」として論理的に纏めることが可能であるのか、「違うもの」であれば、親が子を喰うような神々の親子関係をどうやって論理的に正統性のあるものとできるのか、という問題が生じてくるからです。こういう矛盾を解消するために、
表向きは息子は独身で子孫を残していない
けど、
裏では、実はやることやってて、肥え太っていて、子孫もいた親神であった
みたいな流言と、建前を使い分けるような奇妙なことを始める人たちも出てくるのではないかな、と、そう思うようになったわけです。「イエス・キリストに子孫がいた」という伝承とか流言はあちこちにあるわけですが、大切なことは「それが事実なのか否か」ということではないと思うのです。表向き、彼は人々のために犠牲となった「犠牲神」であり、「子神」とされています。でも、裏ではやることやって、肥え太っていて、子孫もいた「親神」であった、と噂することで、「父と子は一体のものである」という矛盾した論理を何とかまとめてようとして、もがいた結果がそうなっているに過ぎず、「流言」の方からは、
イエスこそが犠牲を喰らう「親神」である
という暗喩が浮かび上がってくるわけです。この場合の「親神」とはもれなく「死神」ですので、言い換えれば
イエスこそが死神である
と言っているも同然なわけです。全くもって、剣呑なことと言えましょう。