本日は外作業のみ。私が土の清掃、姉が土の清掃、石片付けでした。
見る連続ドラマがとりあえず尽きたので、CDTVの録画を見ました。サザンが出ていて「ジャンヌ・ダルクによろしく」という歌を歌ってました。ジャンヌ・ダルクも人身御供みたいなもんじゃん? フランス国王に陥れられた、と思うわけです。でもって、パリ・オリンピックの開会式だかの映像が流れて
夜、セーヌ川で馬が女性騎士を乗せて走る
という演出があったらしい。だから、桑田君にはそれがジャンヌ・ダルクに見えたらしい。それとも、そういう解説があったのか?? と思ったわけですが、ともかくそれを見て
「げっ」
と思う。だって、いくらジャンヌでも、馬に乗って水の上を走ったりしないでしょ、と思う。ガリアで水妖である馬に乗って走るって言ったら
エポナ
でしょ、と思う@@。西洋では神話とか民間伝承で、馬はともかく水と関連があって、「水妖」扱いである。ケルピーとか。ポセイドーンとか。なんで「水妖?」と言われても困るわけですが、ともかく
東洋では水神の一種である龍は、馬と猪と蛇の合成獣だから
西欧では馬だけが何故か分離していても水神扱いされるのである。東アジアでは馬単独で水神扱いはないよね? 須佐之男はやや微妙だけど、と思う。てことで、中国の蚕馬を
マツケンサンサンバ1
と仮定すると、エポナというのは
マツケンサンサンバ2
に相当するみたいな、類話群なのである。謎な話ですが、ともかく、エポナは馬と一体化して豊穣をもたらす女神であって、西欧には蚕はいないから「蚕馬」にはならないんだけれども、麦の女神であったり、野菜の母女神であったりするところは
オオゲツヒメ
と同じなわけ。広く、植物などの豊穣の女神としては、東のハイヌウェレ、西のエポナってそんな感じである。しかも、三星堆遺跡では獣面神人像が「象牙」を持ってたんじゃないか、と推察されてましたが、これは西欧の
コルヌコピア(豊穣の角)
を意識しているのだと思う。で、コルヌコピアといったら、「月」あるいは「月のもたらす豊穣」で、女性の月経がもたらす豊穣と組み合わせて用いられるアイテムである。「ローセルの女神像」のように。馬には角がないけど、牛にはあるよ、ということで、ギリシャ神話には馬頭娘の変形である
デーメーテールとポセイドーンの神話(この神話のデーメーテルは文字通り馬頭の女神として現される-;)
だけでなくて、その牛版の
エウローペーとゼウスの神話
もある。西欧の人々には、「豊穣の父である獣」といったら、馬よりも牛の方が妥当だと考えられていたのかもしれないと思う。で、更にキリスト教に適当にかぶれてる日本の神話では
須佐之男が牛にも馬にもなる
ということで-;。ともかく、デーメーテール女神は、種をまく時期、収穫をする時期と、時間軸までもを含めて支配する豊穣の女神であるので、起源が太陰暦にまで遡る古い女神であれば、「月の女神」の要素の内包している。それに人間以外の動物はだいたい発情の時期も出産の時期も決まっているから。「月の女神」がそういう「時間」を取り仕切ると考えられたのも当然である。というとこで
「時間の流れと共に豊穣をもたらす女神」
である「原初月女神」ともいうべき存在は、西欧では「豊穣の女神」で、特に植物の成熟と収穫に関連するので、植物生育の基盤となる「大地の女神」としての性質が強くなって「地母神」としての方が有名になってしまうわけですが、土だけあっても季節がなければ植物は育たないので、月女神としての性質も持っていて当然なのである。でも、太陽暦が盛んになると、太陰暦の時間(月)の女神としての性質は重要ではなくなってしまうから大抵は消えてしまう。でもって、文明が進むにつれて、彼女のもたらす豊穣は「王権」にまで拡大されるわけで、その究極の形が
ネミの森の、馬神と金枝、である。
金の枝とは、月女神のディアーヌ女神のことで、馬は文字通り彼女を切り落として食らうが、そのおかげで王権の豊穣が生まれる。
まさに、女を食い物にしてローマ皇帝の永遠を手に入れよう
ということで。これが西欧の馬頭娘の究極の形といえると思いますが。「時間を司る月の女神」が殺された、といっても殺されたままでは困るので、
「月の神は男だった」と、時間の神を男に変えてしまった人たちもいるし
「殺された女神は月の女神とは別の神(娘神)だった」と、デーメーテールとプロセルピナ、サテネとハイヌウェレを分けてしまった人もいるし、
日本海沿岸の人々のように、月の女神は死んだけれども、娘の狭姫は生きていて母親の後を継いだ、とした人達もいたし
エポナのように、現世と冥界を行ったり来たりする女神、になって生きてるのか死んでるのか曖昧になった女神にしてしまった人達もいた
ということで。だから、三星堆遺跡で、獣面紋神が「コルヌコピア」といえる象牙を持っていたならば、この獣面紋神は月神としての性質も持っていて、月がもたらす豊穣を支配していた可能性もある。日本でいうところの「月夜見」である。
だから、
植物を殺して、それを収穫して、また次の時期に種をまいて増やす
という「月の神」の役割は、本来は女神のものだったと思われるわけです。デーメーテールやエポナ、それから旦那を収穫してしまうメソポタミアのニンフルサグの神話にその名残がみられます。一方、ひげが木である須佐之男、木の番人である中東のフンババ、死して植物に変化した后稷、ネミの森の「王」である馬神の姿の中にすら
かつては男が植物であった片鱗
がみられます。でも男が月神に変更されると、男神が「植物(女神)を殺す神」になってしまって、獣神として現されるようになるので、
「あれ? 須佐之男は植物である木の神なの? それとも牛とか馬なの?」
という整合性のない混沌としたことになってしまいました。これは全て「月の女神」をむりやり「月の男神」に書き換えてしまったから起きたことなのだと思うわけです。
ということで、最近は動物愛護の精神が盛んで、「動物にも権利を!」みたいな時代じゃん? 人間に馬や牛を食べる権利があるなら、馬とか牛にも人間を食べる権利があって当然、というのが最近の西欧デモクラシーの思想かもしれない。となると
明治の馬頭娘は時代にそぐわないあるまじき思想
であって。セーヌ川を爆走する水妖とエポナは
馬に人間を食べる権利があって、馬の方が人間よりも偉いと思うほど人間は謙虚になって馬に食われなければならない
という最新の西欧式権利意識に基づく、半周回って超シュールな「民主主義」ならぬ「馬主主義」だ、馬券が一番大事、ってそういう妥当性のある演出だったのかもカモ?
と思ってしまったあたくしでした。ギャンブルが盛んになると馬主ももうかるし?? 馬券と馬権が人権よりも大事、と。最近のオリンピックってそんなもんかもなー、と逆に意味不明に納得してしまったあたくしでした-;;。(というか、オリンピックとかトトカルチョをやる人だけが楽しい、とかそういう祭りなんじゃないの? と思う偏見の強いあたくしでした-;。)