24年9月8日

 で、昨日は安室ちゃんのMVを見ながらあれこれ書いていたわけですが。今日は遙か昔の「音楽空間アンモナイト」という歌番組の歌の部分だけを集めた個人編集のDVDを見てるわけです。てっぺいちゃんがMCだったテレ東の番組やね。

 で、犀龍と泉小太郎が「八坂刀売(大宜都比売)と彦神別神(御歳神)」の民間伝承化させられた姿であるならば、泉小太郎の父親とは誰か? と問われる気がするわけで。それは「須坂の黒龍」だったとうろ覚えで思うわけで。では、その黒龍が須佐之男のこと、と思う。それで? 須坂?? と思うと微妙にため息が出るわけですが。

 昔、馬刺しを食べ損ねたとき、あたくしは元彼に黙って名古屋に米米の「OPERA BLUE」を見に行っていました。その時に始めててっぺいちゃんを生で見て、しかも2mにも満たない至近距離であったわけで。しかも目まで合っちゃったりして。そして、それが一人で名古屋へ行った初であって。その後中京方面は何度も足を運んで、ライブもせっせと見に行ったし、しまいには真清田、大縣、熱田、猿投、謁播と尾張物部氏のそうそうたる神社を回ったわけですが。元彼とはとっくに、というか当然別れてしまったわけですが、結局てっぺいちゃんとの縁はまだ続いてるよー、とアンモナイトを見ながら思ったあたくしでした-;。

 それから、昔「僕の地球を守って」という少女漫画があって。その中に木蓮というヒロインがいて、紫苑というダメ男にレイプされてしまったわけですが、木蓮の方はそんなダメ男が、結婚したいほど好きだった、という話である-;。(我ながらすごい要約な気がするけれども、間違ってないよね???-;)これについて、

「今ならどう思うか」

と聞かれる気がするわけでー;。さあ、私は木蓮じゃないからねえ。としか言いようがない-;。むしろ、人を植物に例えること、登場人物が植物の名前である設定が

「お前も植物のように黙っておけ(余計な口をきくな)」

という脅しのようにも感じられる、と今なら言いますが。でも、恋愛っていくら「純愛」といってもパワーゲームみたいなところがあるじゃないですか。だから、木蓮がいくらもてたとしても、紫苑よりも彼女の心をつかまえられる男がいなかったら、それは仕方がないんじゃないですか? レイプされていようが、どんなに精神的に傷つけられていようが

木蓮にだって男を選ぶ権利はあるんだし。いくら見る目がなくても-;。

としか言えない(苦笑)。紫苑に勝てるだけの魅力を持ってなかった他の男性にも責任がございます。みんながみんなてっぺいちゃんみたいに魅力ある男だったらさあ? 木蓮だって紫苑に見向きもしなかったかも?? と思う-;。っていうと、誰か他の殿方の古傷をえぐることになるのかもしれませんが-;。

 ともかく、恋愛とは二人の問題なのだから、木蓮と紫苑が彼らのことを彼らだけで解決できているのなら、他人があれこれ言う権利は誰にもないと思う。

 でも、もし、木蓮と紫苑の間に子供がいて、その子供が母親を焼き殺して、しかも紫苑がそれをそそのかすような男であったとしたら? それはそうなった場合には子供も紫苑を木蓮を殺したことについて、社会的に責任を取らなければいけない、と思う。なぜなら、社会そのものがそれを認めるような社会であってはいけないからである。

 父系の文化の歪みは、一族の指導者的立場にあった女性を殺して、身内の男(おそらく息子)がその地位を奪ったことに始まる。その事件を正当化するための父系でもあって、子孫は正当化するために、泉小太郎だの羿だのの神話を作り続けていた。でも、専制君主制のもたらす狂気と貧困と差別を解消するためには、一番最初に戻って

母殺しの息子の罪を断罪しないといけない、母たる嫦娥の権威を回復させないといけない

でないと、差別されて食い物にされる女性達の悲劇は、馬鹿な息子の起こした「母殺し」を正当化するために

「女なんて殺してもいいんだ」

という理論を押し通そうとする息子の子孫の都合のためだけに、差別され殺され続けることになる。

と強い確信を持ったイエス・キリストの登場によって、どうなってるんですかね? なんか、米が流通しなくなったんですけど?? と思うあたくしである。私の得意分野は

「あんまり怖くないオカルト」

でもあるわけで、返目神社よりは、社子神社であれこれあって、要はぶっちゃけ、そこで

「オタマジャクシの形をした幽霊」

を1匹拾ってきたわけですが。こっちの方が理論的ではない? 変な体験だったわけですが-;。ともかく、てっぺいちゃんを見ると、どうしても可哀想な嫦娥娘娘のことに触れねば、と思う。蚕馬の伝承の歴史は古く、台湾の神話にすら「織り姫殺し」の話が出てくるのですが、何故かそれよりも新しい新羅の伝承に、輝かしい母女神である龍女の娑蘇婦人は登場する。女性の権威が地に落ちているはずの時代に何故? と思う。

 私は、この伝承の存在こそが、極東アジアにおけるイエス・キリストの思想の現れだと思っています。イエスの思想に共感した嫦娥娘娘の子孫達が、彼女の権威を回復させるために、「こうであってこそ正しい王家の神話である」というものを創造したのが、新羅の王家の始祖神話であると思う。偉大な母女神の神話は、あるはずだった姿、あるべき姿に戻して、父系文化のもたらす弊害を元から解消していかねばならない、世界のために、ということで。新羅の王家はイエスの思想に賛同し、尾張物部氏も可能な限り理想をかなえようとした。でも、その上の腐ったのはさあ??? 明治になってもさあ??? と思うあたくしである-;。可哀想な嫦娥娘娘、可哀想な母。でも、世の中は彼女に責任のない、彼女のささやかな欠点を世界の終わりのように言い立てて、殺戮するようなそんな世界であってはならないのです。だいたい欠点の全然ない人間なんていないのだから。