24年9月7日

 昨日は姉の病院と外作業。私は土の清掃、埋め戻し、姉は土の清掃、石片付けでした。本日は外作業のみ。私は土の清掃、姉は土の清掃、石片付け。残暑が厳しくて夜になっても暑い一日でした。

 一昨日の前の日、社子神社、飯縄天合祀神社、返目神社を参拝しました。返目神社はさほど有名ではない? 神社ですが、立派なケヤキの木があって、吉田神社とか美和神社にも同じくらいの太さのケヤキがあるとのこと。美和神社や吉田神社は延喜式にも出てくる古い神社なので、返目神社も起源はかなり古くてケヤキは平安末期か鎌倉初期にまで遡るものなのか、と思いました。

 が、それどころではなくて、境内に「蚕神」が祀ってあって、「蚕と馬の一体神」というのが祀ってあって、しかもこの辺りに特有の「2頭の馬」が台座にありましたとさ。こういう「蚕神」を見たのは、3例目、というか、これは「蚕馬神」ですか?? と思うわけで@@。思わず取り乱して

「頭にマツケンがついてて欲しい」

とか意味不明なことを思ってしまうわけですが-;。蚕馬(さんば)って言ったら、露骨に馬頭娘じゃん、オシラサマでもないんですか? タコって地名まであるのに?? と思う。(東北ではオシラサマの本名はタコという娘なのである・・・・-;)しかも、「蚕の母」扱いですから、この辺りでは当然「オオゲツヒメ」のことである。「父なる馬」は当然、須佐之男のことになる。でも善光寺周辺には諏訪系の神社が大量にあって、八坂刀売も松本方面では「蚕の母」扱いされるので、

オオゲツヒメと八坂刀売は習合してる

ということは芋づる式に

須佐之男と諏訪神は習合してる。善光寺ではとどめに

須佐之男の子神・御歳神と諏訪神の子神・彦神別神は習合してる

となるわけで。蚕馬っていったら、中国では誰になるかはともかくとして、日本の水内郡ではオオゲツヒメか八坂刀売のことで、しかも、馬との間に

子神

までいるのである。そんなこと古事記にも書いてないよ?? と思う-;。蚕馬を祀るようになったのは、明治以後だとしても、こういう神様を考え出した人は

日本の古典にも中国の古典にも精通した知識人

ではあるのである。だって「馬頭娘」を知らなかったら、馬から蚕が発生したなんて考えつかないはず。そして古事記を知らなければ、須佐之男とオオゲツヒメの妻問いから蚕が発生したなんて知らないはず。で、100歩譲っても、明治期に古典の故事から

古典にはない話を作って蚕神を作り上げる

なんてことは新しく始めるはずがない。古典に精通していて古典を愛しているのであれば、元ネタの通りに祀ることにむしろこだわるはず。というか、

須佐之男と諏訪神を習合させる

というのは、諏訪大社の縁起からみて、室町時代には公然のこととされているわけで。オオゲツヒメと八坂刀売の習合もその一環と思われる。でなきゃなんで権威の高い善光寺が、母であるオオゲツヒメと子神である彦神別神(あるいは御歳神)を一緒に祀っているのか。「母神と子神」を同じところで祀る(父神は一緒ではない)という構図は母系の文化の流れを組む構図で、私は他には尾張・真清田神社ぐらいでしか見たことないんだけど??? と思う。そして、真清田も「母である織り姫」と息子神の神社である。

 でもさあ、真清田は尾張氏の公式の祖神を祀る神社であって、例えば明治期になって氏子が

「真清田の母神は馬頭娘(オオゲツヒメ)と同じである」

って突然言い出したりしないだろうと思う。母神がみじめに殺されたなんていったら、日本武尊を誇る栄光ある一族の恥なんじゃん? そういう当たり前の感覚を持ってる

尾張物部氏

と、明治時代になっても

「女なんて蚕も同然の食い物」って言って恥とも思わない

信濃尾張氏 であるところの 金刺群

ってのがいるわけですな。明治時代になって言うようなことかよ?? とやっぱりセンスを疑うあたくしでした-;。(ちなみに蚕のさなぎは食べられます。食べる地方もあるんじゃないのかな??)

 あと、「馬が兄弟」っていいながら馬刺しを食べるなんて、本当に「我が子を食らうサートゥルヌス」なんじゃん? って突っ込みが来る気がします@@。・・・私だけ仲間はずれにして、馬刺しを自分だけ食べたのがいたねー、そういえば。むしろ、「食べ物の恨み」は私は忘れない。私だって執念深い一族の一人なんだからーーー、と思い出した私でした-;;。

 そして、尾張真清田では、織り姫が殺されないかわりに、「殺される龍」の伝承があるわけで。おそらく、この「殺される龍神」は元々母の織り姫のことを指していたものを分離したものと考えています。

母女神が龍女である・母女神が織り姫である

というのは、中国というよりは極東アジアに強い思想で、新羅の王家の始祖神話がこうなのです。朝鮮の人は母女神を大切にして

殺したりとか蚕にして食べてしまえ

とか言わないわけですが、日本ではまず尾張で母女神と龍女を分離して龍女を殺してしまい、善光寺平では更に進んで母女神を蚕にして食べちゃってるわけ。龍女の方は犀川を開拓させられて殺されたり、九頭竜で戸隠に封印して殺してしまったり、もう殺戮の限りです(呆)。

 面白いことに、中国では、蚕馬は普通の娘で、せいぜいが「いいとこのお嬢さん」くらいの扱いなのですが、極東では蚕馬あるいは織り姫はれっきとして「国母」であり、「女神」であるわけです。古代中国でも養蚕に関する祭祀は皇室の女性達の重要な仕事ですから、本来は中国でも

蚕馬は高貴な(母神といえるような)女性

だったのだと考えます。でも、養蚕を庶民が広く行うようになると、「高貴な人の技」という思想が薄れて、蚕馬は普通の娘になってしまったのかもしれません。古代中国でだって皇后とか皇女の身分の人が誰かに惨殺されたら、それはやっぱり一家の権威を損なうものなんじゃんねえ?? ということで、「殺される女神」は庶民化されてしまったのかも。

 で、面白いことに、新羅では王家の母女神で龍女である娑蘇婦人は中国から来た、と言っている。

 でもって、日本では賀茂の祖神のことを「八咫烏」というわけですが、新羅には「烏の夫婦が日本に渡っていって日本の王になった」という伝承がある。

 で、日本には須佐之男と五十猛は新羅から日本に来た

って言われている。賀茂の一派の金刺は須佐之男と変形五十猛(あるいは御歳神)を祖神と言っている。

ということは、うちの先祖は新羅から来て、新羅には中国から来たんじゃん? 織り姫である龍女を母女神に持つのは、我ら「多氏(王氏)」のステイタスじゃん?

となります。しまいには蚕にして食べちゃったんだけどね。多氏とは、かつては「王氏」と名乗っていたのだと思います。タコっていうのは、しまいには口寄せを行う巫女みたいになっちゃってますが、母女神の代理の斎宮的皇族のことを指す言葉だったんじゃないの? と思います。その女性が詰めていた土地に地名として「タコ」という言葉が残っているのでは? と思います。