本日は外作業は買い物と雨のためお休み。まあ、晴れ間に買い物ができて良かったのかな、と思います。
昨夜は「笑うマトリョーシカ」、今日の昼はなにわ男子の番組の録画を見ました。「笑うマトリョーシカ」の方は、まず「マトリョーシカ」というと、「入れ子理論」とかいう謎理論を主張していた大学時代の教授を思い出します。この人の理論を理解できる人はたぶんいなかったと思われますし、病気ではないか、ともっぱらの噂でしたが、まあ凶暴性がなくてそこそこ普通に生活されていた方かな、と。ともかく、単位が欲しいので、教授が言ったことをそのまま解答用紙に書いて単位を貰った人しかいなかったんだろうなあ、と思いますが。昔の国立の医学部の適当さが分かる話ですが-;。
で、ともかく実直だけどあやつり人形の「清家君」とは、諏訪神のことだと思う。復讐のために彼の秘書をやっている鈴木君は物部守屋あるいは守屋の神であると思う。怪しい元カノとかその同類項の女性陣は、八坂刀売とかコノハナサクヤヒメとか馬頭娘とか種類は色々あるけど、要は尾張出身の金刺、略して「終わり」であると思う-;。だいたい、同じ「諏訪神」であるのに、常に常に上社と下社に分かれて思想的に交わることのない2つが「後ろ」にいるのが「諏訪神」である。
というわけで、あたくしは中世における諏訪伝承の「創造」を示す「諏訪信仰の変奏」という本を読んでいるところです。で、中世における諏訪縁起の「甲賀三郎譚」は東信の滋野氏系の領地を舞台にしており、浅間信仰や荒船山信仰と関連している、ということを知ったわけですが。本には新海三社のことは書いてあるけれども、荒船山に関する神社は、信濃側では諏訪神を祀っているけれども、上野側ではアジスキタカヒコネを祀っていて、賀茂系の神社であることが書かれておらず、全部飛ばして貫前神社に話を持っていってるところが示唆的である。ただし、諏訪に甲賀三郎関連の神社がないことの説明にはなる。ただ、諏訪には「甲賀三郎」ではなくて、「浦野太郎」という浦島太郎のなれの果てみたいな名前の人物を祀る神社がいくつかあって、「浦野」というのは東信の大豪族・滋野氏の氏族の一つの名前で上野の長野原辺りにいた豪族であり、このあたりは嬬恋とあわせて「日本武尊」の伝承が濃い地域でもあるので、滋野一族が関わっているのは甲賀三郎の創造だけではないでしょ、と思うわけですが、「浦野太郎」とは何者? となる。浦野太郎とは暗に甲賀三郎の諏訪名であるのであれば、甲賀三郎とは、室町初期に上社諏訪氏の権威が低下して壊滅的な打撃を受けた際に、諏訪氏を廃して滋野氏の家系、あるいは浦野氏の家系から新たに「大祝」を立てるための陰謀があってその正当化ために「甲賀三郎譚」は作られのたのではないのか、とすら思う。まさに諏訪神の歴史は清家君のように、思想も家系もコロコロ変わるような感じである。しかも、歴史的には結局滋野氏は衰退し、海野氏は滅び、甲賀三郎や日本武尊の伝承に関わった家系はどんどん消滅して、東信と上野沼田をつなぐ地域と修験道の支配を最終的に手に入れたのは一応滋野・海野の同族を名乗る真田である。大塔合戦の頃から歴史の表舞台に出てくる真田は東信の豪族でありながら、北信の西山地区との縁故が古くからあったようで、修験道とか忍者関連の縁故も多かったと思われる。要は清家君や道上氏の周囲の人物達と同じで、邪魔そうだったり、用がなくなった氏族は武田とかにどんどん片付けさせてるでしょ、性悪なシナリオライターの差し金で? と思うあたくしである。
ということで、「諏訪信仰の変奏」には東信の豪族のことが詳しく書かれていて勉強にはなりました。でも、東信の豪族達に諏訪大社の縁起を根底から書き換えさせるだけのシナリオライターが何者であったのか、甲賀発の物語を創造し流布するには修験道の力が必要と思われるけれども、後に四阿山、皆神山、戸隠と展開する信濃・上野の修験道を仕切るのに少なからず関わったはずの北信の金刺氏一派とそれに関わる寺社のことは本ではノータッチである。これが柳田の書いたものだったら、もうちょっと示唆的な面白いことを一言二言は書いたであろうに、と思う。そして、かくいうあたくしは自らを何と名乗るべきなのか、と思う。この状況だと
荻野維縵
とでも名乗るのが相応しいのかも、と思う。諏訪系の祭祀には「荻」がよく関わっているようですが、もう「荻」が関わっている祭祀自体が「諏訪神の変奏」の始まりではないのか、とすら思う。そして、甲賀三郎譚が中世の物語であるのであれば、海外の宗教に詳しい人々はJunoのこと、Jupiterのことくらい知っていたであろうと思うので。あたくしが自らの出自を名乗るのに「荻野」といっても文句は出るまいと思う。高尾張は行ったことなくても荻野は行ったことあるからである-;。
で、母親の新盆をどうするのか、と聞かれる気がするわけで。家が工事中なのにそんなことやってる暇がある? と思うあたくしである。姉はそういうことは気がつかないであろうし、父親は娘達が決めたことに口さしはさまないだろうし、母親の実家といえば仏教と違う宗教にはまっているので、盆行事の世話を焼いたりはするはずないし。だいたい母方のいとこ達は北信の農村的控えめな人達が多いから、内心では呆れていても我が家のことに口を出す人達ではないし。軽く盆菓子でも買ってお供えすれば充分と思います。母親はいつも私達と共に家にいてくれると思う。
ということで「諏訪信仰の変奏」の感想。うまく賀茂と善光寺を排除して纏めたなあ、と。まあ、でもこのあたりは普通に書けないし、書かせてもらえないでしょうけれども。古い諏訪縁起も読めてとても勉強になりました。
昨夜久々に夢を見て。てっぺいちゃんのライブに行こうとして、道が分からなくて、色々な人に助けてもらう、という夢でした。可能であれば、てっぺいちゃんにまた会いたいと思う。でもライブが見たいと思うかは微妙かも-;。