24年6月23日

 梅雨です。朝から雨が降っているので外作業はお休みです。そして買い出しに行ってきました。久しぶりにのんびりしています。

 カメラ修行を始めたので、レンズのファームウェアのバージョンアップをしました。lumix gf2は使い方を覚えれば、便利機能もあって楽しく使えそうです。でも、マニュアルで露出とか絞りとか、用語だけで目が回っている感じです;。印刷したときに普通に綺麗な絵が撮れるのはgf2です。ただ、「一眼は一眼」なので。どんな仕様のカメラであっても、はっきりしっかり写る気がします。

 少し諏訪信仰の勉強をしようと思って、「諏訪信仰の変遷」という本を買ってみました。が、普段は忙しくてあまり読む暇がありません-;。まださわりを読んだだけで、「諏訪大明神絵詞」は円忠のバイアスが入っている。それ以前の諏訪信仰は云々というあたりです。

 諏訪信仰というよりも、長野県周辺の「なんちゃって信仰」を見るときに、「名前がちょっと違うものは、違うものなのか、それとも同じものなのか。」という問題に必ずぶち当たります。有名な一例として、山岳修験道で

「修行僧は修行を積めば死後天狗になれる。」

という説があります。人が死んだら仏になるのが仏教であるならば、天狗になっちゃダメじゃん、お釈迦サマが天狗なんて知っていたはずがない!!! はずなのに、何故かこれが仏教扱いになっていて、

「なんちゃって仏教」

としか思えない様相だったりします。天狗と仏では言葉的にはだいぶ違いますが、イメージとしてはどちらも天上界の存在であったり、色々と人間を越えた優位な性質や地位を持っていたりする点は共通点です。だから、いつから「仏法の神々」の中に「天狗」が混じり込んで、同じモノみたいな顔をし出したのかは明らかではありませんが、でも正式なお釈迦様の仏教から見たら、どうみても「天狗」なんて仏様を真似ただけの

「なんちゃって仏教」

としか言えないでしょ。孫悟空ですら仏教の神というには危ういのにーーー、と思う。天狗は仏と同じなの? それとも違うの? 孫悟空もそうだけれどもさあ?? と思うわけです。

 で、室町前の正規に近いと思われる諏訪信仰を見ると

「諏訪の神とは天竺の王で、守屋に謀反を起こされ、他国に逃げて悪竜退治をした。」

とあるわけです。そもそもインドに「守屋」なんて日本風の名前の人がいたの? となるわけで、そもそも円忠のバイアスもあるけれども、鎌倉時代の「縁起」もいろんな意味で「露骨」であると思う。

「守屋」というものが謀反を起こした、というと「物部守屋と聖徳太子・蘇我氏との対立」を連想させるわけで、この「連想ゲーム」からいくと、「天竺の王」とは聖徳太子に類似しているわけです。で、他国に逃げて悪竜を退治するところは須佐之男に類似している。すなわち、須佐之男と聖徳太子を習合させたものが「諏訪の神」であると言っているわけです。「守屋」というキーワードはあくまでも連想的に、「須佐之男と聖徳太子を習合させる」という意味を持つように思う。

 でも、上社のご神体は守屋山ですので、守屋が悪者である、とすると、そもそも縁起と祭祀の間に乖離ができてしまいます。ご神体が悪者で、神様はご神体とは違うものなの? となってしまいます。そこで、つじつま合わせであるかのように、諏訪に侵入した諏訪の神が「守屋の神」を倒した、という伝承があるわけで、そこまでいくと現実の聖徳太子・物部守屋との対立の歴史から伝承がかけ離れてしまいすぎて、連想ができなくなってしまうわけですが、ともかく、上社には「二重の信仰、二重の祭神」があって、本殿に聖徳太子+須佐之男、神体山に悪者・守屋が存在するわけです。で、鎌倉時代までは露骨にそのような構造だったわけですが、室町以降、「諏訪の王」の竜退治を割愛したりして、諏訪の神から聖徳太子+須佐之男の影を隠すように縁起や神話が再構成されるようになっていくわけで、これこそが「円忠のバイアス」といえると思いますが、円忠の前にだって何らかのバイアスが存在していて、それが更に酷くなったのが円忠版といえます。

 なんだかんだ言って、非常に興味深いのですが、上社は後戸に守屋、本殿に聖徳太子+神(須佐之男)、善光寺は後戸に聖徳太子+神(須佐之男あるいはその子神である五十猛か?)、本殿に守屋がいて、上社と善光寺で配置が逆になっているわけです。この五十猛神は、建五百建命(科野国造、金刺氏の祖)と非常に名前が似ていまして、ここでも

「同じなのか、違うのか」

という問題が出てくるわけですが、これを「同じもの」とすると、諏訪氏の上社では守屋を上位に置き、金刺氏の善光寺では聖徳太子+神(須佐之男)を上位に置いている、というように見えます。物部守屋は仏教の伝来に反対し、古くからの神々の祀りを守ろうとしました。諏訪大社上社でも縄文系の古い祭祀は大切にされ、守られてきました。一方聖徳太子の仏教は天狗が跋扈し、治水と称して人身御供を求めるような

「なんちゃって仏教」

ですので。円忠の後ろにいたのも、金刺氏とか善光寺に近い筋のもので、相当に有力なものだったのではないのですかね。でなければ、北信濃だけで豪族の優位性が認められて、正規の幕府軍を追い払ってもとがめられない大塔合戦なんて成立するわけないでしょ。義満は義満で強権で有名な将軍なんだから、と思うわけです。

ということで、北信濃にしかいない「彦神別神」とは「五十猛+聖徳太子」のことであるらしい。これが後に「八幡」に置き換わるわけですから、「八幡」とは「五十猛」のことである、と述べているも同然です。すなわち、新羅に下って日本にやってきた応神天皇を五十猛と同じもの、と言いたいわけだ。こうして、皇室との強力な「血のつながり」を常に常に「暗に強く主張する」金刺氏である。なんか、大声では言いたくないらしいです。

 ということで、カメラのレンズを買って、ここまでものが見えるようになりましたとさ。私は常々、聖徳太子と須佐之男の習合の伝承を知りたいと思っていたのですが、ようやく一つ見つけたように思います。

 今日の昼は先週の「ニノさん」の録画を見ました。