戦い続ける神々

古代エジプトの女神イシスが「狼」の太母ということで。要するに、母系の狩人の神のトーテムは、大きく分けて獅子、狼、熊とほぼ「ベス」の象徴とされるピューマがあるということで。メソポタミアのイナンナのトーテムは獅子、古代エジプトのイシスのトーテムは狼、ということになると、彼らの起源は「狩りの女神」という点ではおそらく一番古い時代には似通った起源の神々であっても、割と早い時期に「別の神」になってしまったものと思われるわけで。で、メソポタミアとエジプトの中間的な位置にあるウガリット(現在のシリア)では、バアルという雷神の陪神にアナトとアスタルトという女神がいるわけで、この女神達は性質がどちらがどちらとも言えないほど似通っているのに、別々の名前を持っているわけで、アナトの方がイナンナ由来の名、アスタルトがイシス由来の名になるわけです。で、ウガリットの最高神イルの妻の名は、アーシラトあるいはイラトと言って、イラトの方はイルの女性形で単純に「女神」ということで。イシスはエジプトではアセトと呼ばれていましたから、アーシラトもイシスの別名なわけで、この名前が東はインドのアスラ(阿修羅)に至るまで拡まっているわけです。


で、古代ローマの建国者と言われるロームルスとレムスは、そういえば「狼」の乳を飲んで育ったって言われてましたね、そういえば。と思い出したわけで。で、伝承によれば、彼らはトロイアの子孫であるイリアという女性から生まれたことになっているのですが、イリアは王女であったけれども、叔父が父親の王位を簒奪して、彼女の子孫が王位を要求しないように、イリアをウェスタの神殿に幽閉してしまうわけですが、イリアの美貌に目をつけたマールスが彼女と交わって、それで生まれたのがロームルスとレムスの双子と言われているわけで。怒った叔父は、赤ん坊達を殺すように部下に命じたわけですが、気の毒に思った部下は赤ん坊達を生きたまま川に流してしまうわけで、川の精霊に助けられた二人は狼の乳を飲んで育ち、後にケレースという女神の化身であった人間に拾われて養育され、成長して叔父を倒し、母や祖父を解放してローマを建国した、となるわけで。「川に流された赤ん坊」というのは、メソポタミアやモーゼの説話の中に見られる「英雄譚」を踏襲したものであって。しかもイリアというのは、ウガリットのイラトと同じで「イル」の女性形ですから、彼らは「女神」の息子であった、と暗に示唆しているわけで。しかも、養母のケレースというのもKSという子音を持つ女神で、「イル」を変形した名前ですから、本来彼らは「地母神の息子達」であるという神話があったと思われるわけで。で、狼が「養母」というのもイリアが古代エジプトのイシスと同じモノで、イシスのトーテムが狼であったことを考えると、この狼もイリア・ケレースの別の姿といえるわけで、要するに古い時代には、古代エジプトのイシスの子孫がファラオそのものであるホルス神である、と考えられていたのと同様に、ローマでは狼の太母ケレースの子孫が「王」であると考えられていたと思われるわけで。でも、男系的な印欧語族の文化は、子供を幼いうちに親から引き離して、集団の中で戦士として育つようにエリート教育を施す、というものですから、母親が王権の後継者であるという母系的な神話が否定されて、「養母」という形に、形を変えたのだと思うわけで。で、ヨーロッパでは中世においても貴族の子弟は宮廷に集められて育てられる、みたいな習慣があったわけで。それは王に対する「人質」も兼ねますが、そうすることで階級に相応しい教育を受けたりとか、社会性を身につけたり、コネを作ったり、という目的もあったわけで、印欧語族の上流階級の子供はむしろ他家で養育された方が格上? みたいな風習があったわけです。で、こういうことが現代になると階級によって、行く学校が違う、とかそういう形に変化して古代からの彼らの階級文化の名残として残っているわけで。要するに、ローマというのは狼の子孫が、先祖の狼の如くに群れて狩りをして、欲するものがあったら収奪すべし、という思想を根底に持っている国であるわけです。でも、彼らの言う「洗練されたやり方」ということで、「自分達は狼と兄弟で、狼の子孫である」なんて非科学的で野蛮な事は表向き言ったりしないわけで。その精神だけが脈々と受け継がれているということのようで。ローマの地母神ケレースまで繋がれば私にも分かる。それはインドのカーリー女神と同じ名前でしょうが、と思うわけで。いったん、狂乱の炎に飲まれて戦いだしたら殺し尽くすまで満足しない女神が、彼らの真の太母の姿なんですねえ? と思うわけで。そして、その女神が王権の保護者であり、支配と搾取を正統化する保証人でもあるわけで。要するに、ローマの信仰形態は男系が強いけれども、古代エジプトとほぼ同じモノだったんだ? と思うわけで。古代エジプトではイシスは来世への再生の秘技を知る女神、ということでその儀式を一般に取り仕切り、犠牲を捧げたりする祭祀を行う神官の隠れた名前が「ベス」だったわけですが、ローマでは「ベス」が焼き竈の太母ウェスタに相当するということで、根底にイシス・ベス信仰がある点でもローマと古代エジプトは似通っているわけで。で、イリアとかイシスというのは本来単純に「女神」という意味なわけです。そして、ギリシア神話に至ると、猟犬を引き連れた狩りと狩猟の女神はアルテミスになるわけで。アルテミスの「アル」もまた「神」という意味ですから、「アル」とか「イル」とつく「女神」のトーテムは「狼」であって、彼女の隠された真名は「テミス」すなわち「ダキニ」であることが分かるわけで。ダキニとイシスは本来的に全く「同じモノ」であるわけです。で、祭祀の際に「男性」を犠牲に捧げるのがトラキアと古代エジプトの特徴であって。で、ローマにはテルースあるいはテラという地母神がいますので、この女神がトラキアのダキニに相当する、ということで。もしかして、「t」の子音が接頭辞につく女神はオオカミであって、かつシリウスの女神なんだ? と思うわけですが。ゾロアスターにもティシュトリヤというシリウスを神格化した神がいますし。


で、結局何が言いたいかというと、ゾロアスター教の善神アフラ・マズダはイシス女神から発展した神ですが、一方悪神の頂点とされるアンラ・マンユはイナンナから発展した神であって、ウガリット神話では、仲良く「神々」として祀られていたものが、イランから東に向かうと、「神」と「悪魔」という形に分かれて。互いに相争うようになるわけで。ゾロアスターの悪魔の総称は「ダエーワ」ですから、DV系のデーヴァの神々ということで、牛をトーテムに持つデーヴァは人身御供を要求するというので、人身御供を否定する神々が台頭するにつれて、デーヴァ信仰は「悪魔」の側に移行していくわけですが。一方、隣のインドのヒンドゥー教では、デーヴァこそが「善神」とされ、アスラ神族が神に戦いを挑む悪神とされるわけで。何故? と思うわけで。そして、インドには「寡婦殉死」という制度がかつてあって、夫を失った未亡人は、夫に殉じて生きたまま火葬されると尊敬される、という制度があり、その名前を「サティー」というわけで。「サティー」もイシス女神の名前の変形ですよねえ? と思うわけで。しかも、インドでは階級制度のことを「ヴァルナ」というわけで、結局こういう制度は信仰と密接な関係があるわけで。インドは印欧語族の一派が、かつて支配者層になった国ですので、印欧語族的な階級制度があることは分かるのですが、でも、印欧語族の階級制度は一応能力がある者は、上位のクラスに登ることが可能で在り、極端な固定化はされていないわけで。しかも、「寡婦殉死」というのは、特に男系優先の印欧語族の間では広く見られた行為であるのですが、何故インドでだけ、こんなに最近まで続けられる行為となったのだろうか? とも思うわけで。普通、二つの文化を持つ民族同士が衝突すると、長い時間の間には両者の文化は融合されていく気がするのですが、インドでは印欧語族的な悪癖といえる制度がむしろ強化されている気がして。で、ヒンドゥーの神話では、アスラはインドラと戦って負ける運命であって。インドラとはイナンナ系の神の名ですので、インドラがゾロアスターのアンラ・マンユに相当する神な気がするのですが。で、この神話は後に仏教にも取り入れられて、帝釈天(インドラ)と戦う阿修羅(アスラ)の話へと繋がるわけですが、非暴力を謳う仏教説話に何故神々が戦う話が入ってるの? と思うわけで。


で、仏教には「鬼子母神」の説話もあって、これはハーリティーという夜叉が、多くの子供を育てるために、他人の子を取って食べたので、お釈迦様が彼女が可愛がっていた末子を隠してしまって、で悲しむ彼女に「子供を失ったら誰でも悲しいのだから、人のこと取って食べるのを止めるように。」と言って悔い改めさせた、という話なわけですが。でも、ハーリティーって、イシスの別名ですよねえ? と今なら思うわけで。で、鬼子母神信仰はおそらく紀元後に作られたものと思うわけで、2-3世紀のガンダーラの鬼子母神像を見たのですが、その像は「幼子を抱く母女神」の図で表されているわけで。そもそも初期の仏教に偶像崇拝はなかったはずなのに、2-3世紀のガンダーラ地方から仏像は作られるようになっていったわけで。いったい、このイシス女神の名を持つ女神の「母子神信仰」は、どうやって仏教の中に潜り込んだんだろう? と思ったわけで。(ちなみに日本で鬼子母神信仰が盛んなのは日蓮宗なわけです。誰でも、あの「母子神像」を見れば何のことか分かるようになっているんだよねえ? と思うわけですが。)


で、ヒンドゥー教の方はどうかと言いますと、ヒンドゥー教の善神はバラモン教といって、聖職者であるバラモンを頂点とした階級社会的宗教であって、最古層ではイランの古い信仰と同じものなわけです。で、ヒンドゥー教は4~5世紀頃に、インドにおいては仏教よりも優位な状況になって、しだいに仏教はインドから駆逐されてしまうわけです。そして、仏教そのものも、2世紀のいた龍樹というお坊さんがその確率に活躍したらしくて。紀元後の坊主といったら、その正体はきっと、って思うわけでーー;。で、西方の古代世界の王侯貴族は、母系が優位の場合、夫を短期間でとっかえひっかえして殺してしまう傾向が強いわけで、で、逆に男系が優位だと女性に対して殉死を求める傾向が強いわけで。結局それは、配偶者とそちらの親族に自分の財産がわたるのを阻止するためでしょ? って言われるわけで。強欲であり身内でも平気で食い殺すデーヴァの極端な文化だって言われるわけで。要するに夫であろうが、妻であろうが、力が強い者にとって、配偶者とは子孫を残すための道具に過ぎないんだ? って思うわけですが。結局「寡婦殉死」とはそのような制度であるということで。それが正しいと思って育てば、女の人はそういう制度に喜んで従うと言うこともあるかもしれませんけどねえ? というか、昔はそういうのは財産のある王侯貴族の制度だったんだよね? と思うわけで。そして、カーストが固定化されれば上位の者が下位の者を搾取することが正統化されるわけで、能力のある人を共同体のために役立てようとする慣習すらも失われてしまうわけで。


で、そもそも古来のインドの神話では、アスラも悪神ではなく神々の一神族であったわけで、時代が下るにつれて悪神へと変化し、ヴァルナの地位は低下して、代わりにヴィシュヌとシヴァが台頭してくるわけで。ヴィシュヌはヴァルナから変化した神ですが、シヴァはソプデト、妻のカーリーはイシスの変形と言われるわけで。そして、シヴァの最初の妻がサティ-であって、この女神が「寡婦殉死」である「サティー」の名の起源にもなっているわけで。ヒンドゥーは殺生を嫌って菜食主義の人が多いのに、「寡婦殉死」は貞節の証ということで尊重されるわけです。そして、寡婦は生きていても、「不吉なもの」とされて肩身の狭い思いをしなければならないわけで。そして、仏教についても、ごく初期の仏教は、人々に常に冷静であることと、自己を律することを求めているだけであって。階級制を否定した釈迦は、行きすぎた階級制の弊害とその目的を知っていて、それを打破しようとした人で、彼こそが真にヴァルナであった者、だと言われるわけですが。釈迦の目指したものは、階級制の名の下に行われる搾取を解消すること、身内でも平気で食い合うようなデーヴァの目の狂気と強欲な貪欲さを「諸行無常」として戒めたものだと思うわけですが。まあ、私の頭で理解できるのはこの程度ということで。紀元後にいったい何者がバラモン教と仏教に取り憑いて、人身御供を美化して正統化するような文化を育んだのか、インドはヨーロッパに次ぐ敵の巨大な実験場であった、と言われるわけで@@。ヒンドゥー教と仏教に塗り込められた神々の際限の無い戦いの神話は、イナンナとイシスの二つの名前を持つ者にしか解消できない。何故なら、インドラがイナンナで、アスラがイシスだから、って言われるわけで。あらゆる神々はKBの太陽女神から生まれたものかもしれませんけれども、西方世界ではそれはまずイシス(ダキニ)、イナンナ(バッバル・メヒト)という2大太母を派生させているわけで、そこからあらゆる西方の荒ぶる神々は生まれている、ということで。金刺舎人は敵に対抗する力が欲しくて海を越えたけれども、仏教は仏教で内側に入り込んだ魔の力を見抜いて喰いきれるだけの「目」を欲していた、と言われるわけで。イシスとイナンナの名の変遷を見れば、だいたい西洋の多神教の持つ意味は理解できるようになるのですねえ? と思うわけで。特にイシス女神は、ゾロアスターの太母でもあり、かつデーヴァの本拠地ローマの太母でもあるので、その名前を持つ者は「どちらを選ぶのか」を迫られる、とそういうことのようなのですが。日本では、星辰信仰はそれほど盛んでなくても、海を越えた外国では「シリウス」の象徴であるイシス女神は非常に重要な女神であるようなので。イナンナはメソポタミアの一女神に過ぎなくても、イシスは西洋の「王権者」たちの王権を正統化する支配と搾取の象徴の女神と言うことで。その目の力を誰のためにどうやって使うのかは、誰からも問いただされることになるだろう、って言われるわけですが@@。とにもかくにも、イシス・ダキニ女神は「月の女神」ということで、お味方が目指すところの「太陽女神の奪還と神婚の完遂」っていう観点から見ると、完全にオプション扱いなものらしいのですが。でも、外の人達にとってはこちらの方が影響力が大きくて重大なことということのようでーー;。


絶対的かつ固定的な「階級制」があり、奉ずる神々が永遠に戦いを繰り返し続ける、というのは、それらを信奉する人々が常に争い続け、かつ階級の差を超えて一つに纏まり、真の外敵と戦う力を妨害するもの、ということで。そうして、支配しておきたい人々を常に互いに争い、対立させたままで支配と搾取を続けて行きたいともくろむのが「デーヴァ」ということで。それに踊らされている限り、人々は互いに傷つけ合って、かつその行為をお互いに正統化し続けるしかない、とそういうことになっているのだと思うのですが。上位のデーヴァは下位のデーヴァを搾取し踊らせ続け、インドは今も「草刈り場」と化している、と言われるわけで。そのため、デーヴァの目を持つ仏教徒のヴァルナには、先人のヴァルナの後を見失わず、道に迷わずについていって欲しい、と願う人達も多いのだろう、ということなのだろうと思うのですが。



Posted by bellis 21:18 | 日記 | comments (x) | trackback (x)