本日の日誌

で、後は、だいたい親からは「よく分からない」とか言われるわけで。親の認識としては、「頭のいい人を殺そうとしてる」とか「神に仕立て上げた者を殺そうとしてる」とか、そんな感じの認識なわけで。なんか、ちょっとずれてるわけで。別に頭のいい、悪いなんて、それほど重要視はされていないと思う。1番目の子も、2番目の子も、頭はそれほど悪いわけではない。でも、向こうの「思うとおり」にさえ育てばいいわけだから。消されちゃった人達は、ただ単に「邪魔だと思った」から片付けられただけだと思う。どういう基準で、そう思われたのかなんて、こっちに分かるわけがない。だいたい、うちのじいさんが、家族の誰をどういう基準で「消したいと思うほど邪魔だと思う」のか、理解できないでしょうが。客観的・合理的な基準があるとは到底思えない。そういうことじゃん、と思う。


そして、生まれながらに「神」であるのか否か、ということは別に「仕立て上げられている」わけではないので。要するに「頭の良い子」と「悪い子」がいるように、「神である子」と「普通の子」がいるってそういうことである。「神である子」は、生まれながらに、人類に対して役割分担がある、ってそう思われてる、というかそういう感じである。まあ、大抵、どの子も自分の役割をふられて、役割分担を生きてるだけだから、それも不公平かというと、特に不公平なことじゃないんだと思う。そして、子供を見た時に、「頭の良い子」と「悪い子」って、そういうことを見抜く目のある人には、見抜くことができる。でも、できない人には、「どっちも同じような子供」にしか見えない。それと同じで、「神である子」と「普通の子」を見抜くことができる人はできるけど、できない人には区別が分からない、ってそういうことである。でも「神である子」と「頭の良い子」は必ずしも結びつかないよね? それはどちらかというと「目の力」の強さに関係するので,元々持っている「目の力」が特に強い人は頭があんまりよろしくなくても「神である」ということはある。だいたい、「自分でなりたい仕事をやっている」という認識がそもそも間違っているので。みんな、役目を背負ってやってるだけである。もちろん、やりたいことがあれば希望を出すことはできる。でも、上の許可がなければ、やることはできない、ってそういうことなんだと思うわけです。



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本日の日誌

昨日の夜はなんだか夢を見て。久しぶりに石井のライブを見に行ったのだけれども、箱がなんだか小さくて。で、石井がカズレーザーの衣装みたいな真っ赤な服を着て踊っていて。で、全然面白くないので、途中退席する客が大勢いて。私も面白くなかったので、途中で抜け出して、駅か何か?でファン友達と「どうしちゃったんだろうねー?」とおしゃべりする、という夢を見て。


だいたい、「先祖を神にみたてて祀る」というのは、ただお祀りしてるだけではなくて、「祭祀で先祖の霊を呼び戻して、宣託を求める。」ということなわけです。今でも、お盆とかに「先祖の霊が戻ってくる」とかって言うし。だから、次第に先史時代から、古代の中国の王たちはこれが昂じて「先祖を生き返らせる」ことを企み始めるわけです。「生まれ変わる」といったら、ある意味、別の人間になって生まれ変わってくることを指すわけですが、「生き返る」って言ったら、死んだ人そのものが戻ってくることを指すわけで。「生まれ変わる」ことと「生き返る」ことは違うことです。でも、それは先祖がどうの、というよりは「自分が死にたくない、死んでも生き返りたい」ということだったのだと思う。いくつになっても、「自分だけは死なない」と意味不明に思い込んでいる人はいるしー;。で、そういう人達は、「生き返り」の象徴としてセミなんかを信仰していました。あとは、さなぎになって休眠したあとに成虫になる昆虫とか。そういうものを、「死んで生き返ったもの」だと思っていたわけです。だから、「蝶」なんかは神話的には「死んで生き返ったもの」=「あの世から帰ってきたもの」の象徴なわけです。「あの世から帰ってきたもの」こそが、生も死も超越した「永遠」で「絶対的」な英雄なのです。だから、スキタイの王族とか、古代エジプトの人々は、死ぬと死体をミイラにしました。自分が生き返るときに、体がないと生き返れないからです。古代中国の皇帝たちは、ミイラになる代わりに「不老不死の薬」を探し求めました。「生き返る」間すら、無駄だと思ってた。でも、死んだ人が生き返るわけはないし、「生き返り」の本質とは何? と思う。「生まれ変わり」の方は、「死んだら他の者に生まれ変わる」ということだから、概念としては単純で分かりやすい、と思うわけです。「生き返り」とは、昔の人が「死」というものをよく理解していなくて、休眠した昆虫が活動し出すとか、何かの拍子に気絶した人が目を覚ます、とかそういうことから始まったのかもしれないけれども、本当に死んでしまった人は、腐るし、絶対に生き返ったりしない。そうすると、「生き返る」ということは、要は「子供を自分と同じに育てること」と言われる気がするわけで@@。「自分の好きなように育てる」のではなくて「自分と同じように育てること」と言われる気がするわけで@@。だって、子供が「自分と同じ」に育ったら、その人の思想とか生き方とか考え方は、当人が死んでも「永遠」でしょ? と言われる気がするわけで@@。だから、イザナギを受け継ぐ子は代々の「イザナギ」と同じになるように育てられる。スサノオをを受け継ぐ子は代々の「スサノオ」と同じになるように育てられる。ツキヨミを受け継ぐ子は、以下同文、と言われる気がするわけで@@。そうしたら、イザナギもスサノオもツキヨミも永遠の存在でしょ? と言われる気がするわけで。要するに、2番目の子は「スサノオ」になるように育てられていて、「生き返ったスサノオ」という扱いなんですよねえ? と思う。だから、先代のスサノオの「生まれ変わり」であるかどうかは関係ない。「スサノオ」のように育てばいいだけだから。でも、この場合の「スサノオ」というのは、「死んで生首だけになった豚」のことなんじゃん? あらゆるものをガツガツ食べて、意味不明なことを怒鳴るけれども、自分ではまともに動くこともできない@@。


要するに、「総本家」、代々の「イザナギの生き返り」にとっては、「誰かの生まれ変わり」で、生まれた時から人生経験とか、そこからくる自分の考えとか持ってる人は、逆に「思い通りに育てられない」から邪魔なんじゃんねえ? と思う。でも、「神」として生まれた子供は、死ぬまでその役目から退位できない、というのが世界共通の不文律らしいので@@。だって、誰もが「狂気のユーピテルですら、寿命が尽きるまでは退位させることはできない。なぜなら彼は「真の神」だから。」と言う気がするわけで。だから、総本家もそうだけれども、私のことは退位させられないので、「自分から自滅しろ」って方向に持って行こうとするわけで-;。


で、先週末はテレビでWANIMAを見る機会が多くて。西国の漁師の町に生まれた彼らであるので、大部分は伝統的な「漁労民」の子孫ですよねえ? 要するに「良渚の子供達」といえるんじゃないの? と思う。彼らの地元にあるでかい「えびす像」を見てげんなりするー;。そいつ、「蛭子」という名の通り「蛭」みたいな奴、と正直思う-;。頭がどこについているのかははっきりしませんが;。でも、なんだかわかりにくいわけですが、あのボーカルの子は、「蛙の目」の子だよねえ? 漁労民の目の子じゃないよね? とそういう気がするわけで。その彼が選ばれて成功しているのは、けっしてそういうことと関係ないわけではない、と思う。それにしても、熊本は駅に「くまもん」の首があるそうですし、なんか「どういうところなの?」と思う-;。「熊の首」というのは「豚の首」に熊を無理矢理習合させたものであると思う。それを言ったら、権堂の「首だけの獅子」も「豚の首」と「獅子」を無理矢理習合させてるものなのだと思う。で、それで、ふと「ブンブブーン」の紗栄子がゲストの回で、光ちゃんが、生菓子で「人の首」を2つ作って「呪い」とかって言ってたのを思い出して-;。7番目の兄さんの目には、2番目の子と、1番目の子は、そのように映っているのかと思った。でも、どちらも無理矢理「7番目の兄さんと習合しようとして」呪いのように取り付いてる。私のことも、呪って殺そうとしてる気がする-;。


でも、ともかく、1番目の子のことも、2番目の子のことも良く分からない。「そうなるように育てられた」ら、そうなるもんなの? 自分の頭で考えて「これは変」とかって思うことってないの? むしろ、そういう点では、私の方が「変わってる」の? といろいろ思うわけで。まあ、私には文姜のようには生きられないし、そういう気もない。「そうしろ」と言ってくる人は「死ね」とかそういう風に思うと思うわけで-;。


で、お外組はだいたいいつもと同じ通りで。ただし、午前中は買い出しに出かけて。


私は書証についてだいぶ書き終わったので。経過について、仕上げのまとめをしています。なんかもう50頁くらい、「書証」で書いてる気がするわけでー;。相手方が、本論とは関係のない書証を出してくるので。書面で認否する問題でもないけど、書証では釘を刺しておかないと、っていうのを書いていたらこんなになった気がするわけでー;。書面にはもっと纏めます。当たり前だけど-;。



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本日の日誌

本日は割とせっせと書類を書いて。今木くずについて書いているところで、もうちょっとで終わる。そうしたら、後は地盤の分類のことを書いたら、書証については完了、ということで。嵐のDVDを見ながら頑張ったのでした。


で、親にデュマの「ボルジア家」を貸したらずいぶん面白いらしくて。アレッサンドロ6世と息子のチェーザレはやりたい放題のしょうもない親子だったわけですが。でも、チェーザレの野心のおかげでイタリアは統一の道に進むわけで、イタリア統一の功労者としての側面もあるわけで。チェーザレと妹のルクレツィアとのただれた関係とか、ドラマチックな一族ではあるので、古来より多くの作家が彼らを書くことに挑んだわけですが。母親はあんまりボルジア一族のことは知らなかったらしい。あたくしは漫画で読んで知っていました(笑)。川原泉とか氷栗優とか。彼らの常軌を逸してる生き方は、少女漫画のテーマとしても好まれるかと。で、「日本でいうと、いつの時代のことなのか?」と聞かれたので、だいたい室町の頃だろう、とは思ったのですが、高校生用の最新の世界史の図説を買って、そこにけっこう詳しい年表も載っているので、調べてみたら、室町時代もけっこう末の方で、戦国時代に入りかかっている時期でした。漠然と15世紀くらいの人かと思っていたら、15~16世紀にかけての人だった。高校の教科書って、改めて今見るとすごい詳しいなー、と思います。これを完璧に覚えていたら、それだけで「知識人」になれると思う。だから、本来的な意味から言ったら、「高校」っていうのは、一般的な意味での「高等教育」を広くまんべんなく学ぶところで、「大学」というのはそれを土台にして更に専門性を深めるところ、なんだと思う。でも、今の高校生は、大学入試もあるし「勉強、勉強」ってそればっかりで、勉強して知識を深めることの楽しさとか、意義とかは逆に縁遠くなってるのかもなー、と思ったのでした。


で、お外組はだいたいいつもと同じ感じであって。雨が降って? 写真を撮るのを忘れてしまいました-;。



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