「モンテ・クリスト伯」
アレクサンドル・デュマといえば、日本では「モンテ・クリスト伯」と「三銃士」が有名ですが、今日は「モンテ・クリスト伯」について書きたいと思います。

だいたい、そもそも、「モンテ・クリスト」というタイトルが「聖キリスト」という意味だと思いますので、タイトルからして意味深なわけですが、これは超要約すると

「モンテ・クリスト伯」こと「エドモン・ダンテス」という主人公が、様々な理由で人に陥れられて終身刑的に投獄されたけれども、奇跡的に脱獄して、自分を無実の罪に陥れた者達に、同じように相手の人生を潰すことで復讐して歩くけれども、最後に自分のやってきた「非人間的」な行いに気づいて改心し、去っていく。

という物語です。たぶん、投獄されたけれども、からくもそこを逃れた、という点がキリスト説話の「死と復活」に擬えて書かれているのだと思います。かつ、復讐のための軍資金が、

かつて教皇庁に没収されるはずだった隠し財産

という設定になっていますので、

「本来教皇庁のものであったはずの財産」 = 「復活したイエスであるところのモンテ・クリスト伯の財産」

みたいな意味合いも暗に持たせているのかもしれないと思います。だいたいは、読んでいて次の展開がワクワク、ドキドキして楽しみな、冒険復讐活劇みたいな感じなのですが、一番印象的であったのは

アレクサンデル6世が、他人の財産を没収したい時には、食事に招いて毒殺してた

と、そういうくだりであったと思います。なにせ、日本というのはあまりキリスト教の内情?というか、そういうものを歴史や文化として認識しにくいものですから、

昔の教皇庁ってこういうところだったんだ?

ということで、ちょっと衝撃的だったわけです。で、小説的には、アレクサンデル6世に殺されて財産を没収される前に、殺される運命は回避し得ないとしても、財産は渡さん! ってことで、財産を隠してしまった人がいて、その隠し財産が、数奇な運命からエドモン・ダンテスの復讐の資金源になっている、という設定なわけです。初めて読んだ当時は、キリスト教がどういうものだとか、そういうことはほとんどあまり意識せずに読んでいたわけですが、なんとなく

こういうものなんだ?

ということは、

すり込まれていた

らしいです。

っていうか、

教皇庁から命を狙われた人が、「隠した財産」て、もし、そういうものがあるのであれば、デュマの鏡には、それはいったいどういうものとして映ってたのですか?

って、やっと気が付いたというか何というか(汗)。

もしも、真実、なんというか、

人として下生してきた救世主イエス

というものが実在するのであれば、その持てる隠された力は、復讐といったような

非人間的

なことに使わないで欲しい、という願いもそこにはもしかしてあったのか? と、今になって、この日記を書いていてまさにそう思うわけで。デュマの鏡の方が、エンデよりは数倍マシというか、よほど人間的であり、強い祈りも願いもそこには込められていたのだな、と改めて思うわけです。

続き
Posted by bellis 21:48 | 文学 | comments (x) | trackback (x)
「鏡の中の鏡」
文学ついでに、「ミヒャエル・エンデ」について書きたいと思います。エンデといえば、「はてしない物語」とか「モモ」といった、児童文学の人というイメージが強いのですが、大人向けのファンタジー小説も書いているわけで、「鏡の中の鏡」はその内の1冊といえます。(彼は元々演劇畑の人であったので、戯曲も実は書いています。でも、日本語版wikipediaには「ゴッゴローリ伝説」のことが書いてないようなーー;。)

そして、「はてしない物語」も、「虚無からの再生」という、若干ひっかかるテーマでの物語なわけですが、それはまあおいておいて、「鏡の中の鏡」について書いてみたいと思うわけです。この作品自体は短編がいくつも連なっていて、次の作品はどこか前の作品に似ていて、それを投影しているけれども、内容は異なっていて、で、最後の作品になるとまた最初に繋がる、とそういう構成になっているわけです。

要するに、次の作品は、前の作品を投影する「鏡」だけれども、その像はどんどん歪んでいって、大きく形を変えていき、しまいにまた元に戻ってしまう、というわけで、それがタイトルに現れているのだと思うのです。

神話の世界もそれにちょっとは似ているわけで、メソポタミアの神話は、ヒッタイトやギリシャの神話、ペルシャやインドの神話、エジプトの神話に、ユダヤ教神話、そしてキリスト教神話、というように、それらのいずれにも似ている内容はあるけれども、でも、やっぱりギリシャの神話はギリシャ神話らしい内容だし、エジプトの神話はエジプト神話らしいし、やはりメソポタミアの神話とは違う部分もある、とそういうことになるわけです。

でも、最近思うことですが、エンデの「鏡」は大きく歪んでいる鏡ですけれども、神話世界の「鏡」というのは、よくよく内容を知れば、本質的にはそれほど歪んでいないものなのだな、と思うわけです。例えば、メソポタミアにおける黄泉の太陽神ネルガルは、「冥界の神」としての性質が強いのですが、一方ギリシャ神話のアポローンは輝かしい太陽神として描かれますので、表面だけみれば、その性質は大きく歪んでいるように見えます。だけど、アポローンの聖獣は

ネズミ

なわけで、ネズミはペストを起こす動物ですから、その1点だけで、アポローンは、

ペストを起こす神であり、鎮める神であった

すなわち

メソポタミアのネルガルと同じ神であった

と理解できるわけです。一見して性質が大きく変わっているように見えても、本質(アポローンの場合は、疫神である太陽神である、ということ)は、なかなか消せないものであるのだな、とそう思うわけ。

エンデは『ハーメルンの死の舞踏』という作品も書いていますが、そもそも

「ハーメルンの笛吹男」

というのは何者なのであろうか、と思うわけです。聖書によると、「笛を吹く」というのは、葬儀に関係のあることのようです。しかも、笛吹男は

ネズミ

を自在に操っています。そして、彼は自分に従順ではなく、自分を利用しようとした街の人々に対して、

次代を継ぐ子供達を奪い去る

ことで報復します。子供を奪われるということは、自分の命を次の世代に受け継げなくなるということで、まあ、

ご当人は死んでいないとしても、死んだも同然

の行為といえなくもありません。てことは、史実はともかくとして、「笛吹」というのは、

「葬儀に関係があって、ネズミを操れる存在」

ということから、神話的には、まさに

アポローン

ということになるわけです。で、そこに

従順でないものには死に値する罰を与えて

います。しかもキリスト教にとっては、

幼子こそが天国に入るに値するもの

なわけです。嘘つきで、神を欺こうとする大人ではなくて。

というわけで、あくまでも神話的な、「物語構成」の点からみると、「ハーメルンの笛吹」とは、

死に神であり、ネズミの神であり、自分に従順でない者に罰を与える神であり、幼子を自分の国に連れて行く神

であるわけです。要するにそれを

イエス・キリスト

という。これは、ヨーロッパの人たちが、「神」というものをどのようなものと考えていたのかを知るための、伝承とみなせると思うわけです。でも、「笛吹」を「イエス」として映し出す



があったとしたら、それは歪んでいる鏡なのですか? それとも、歪んでいない鏡なのですか? とそうなるわけ。

エンデの『ハーメルンの死の舞踏』において、笛吹は「救世主」として描かれ、最後に

死ぬ

わけです。そこに投影されている姿は、単なる笛吹の姿ではないわけです。彼の

「笛吹」

は、次の世代をになう子供達に笛を託します。イエスの託した笛は、今もどこかで誰かが吹いているのでしょうか? だとしたら、エンデはいったいどのような場面で、子供達がその笛を吹くことを期待しているのだろう? とそう思うわけです。

エンデの憎んだ貨幣経済の世界を、まさに作者の名の通りに

「終了」

させるために吹いて欲しかったのですか? でも、バチカンは銀行とか持っているような? となるわけですね。要するに、貨幣経済の弊害を憎むエンデが、貨幣経済をこよなく愛している子供達に笛を渡してどうするのですか?

みたいな(苦笑)。どうも、エンデの「ハーメルン」を解釈する鏡は、そこのところで

大きく歪んでいる

ように見えるわけです。何故彼の鏡はそのように歪んでしまったのでしょうか? 彼のもう一つの作品である「鏡の中の鏡」の「鏡」のように? とそういうことになるわけです。



続き
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「だれがこんな苦しみをわたしたちに与えたのでしょう?」
つい昨日のニュースですが、

「ナチス・ドイツによる第2次大戦中のホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の犠牲者を追悼する行事が27日、国連本部で行われ、映画監督のスティーブン・スピルバーグ氏(67)が「この惑星上にはいまでも虐殺が私たちの身近なところに存在する」と警鐘を鳴らした。」(共同通信より)

そうです。ヨーロッパにおける「反ユダヤ主義」の思想は原始キリスト教とおおいに関係があります。ええと、この世の中には「新約聖書」という本があるわけですが、

まず、「テサロニケ人への第一の手紙」(パウロ著、紀元50年頃の手紙)という文章に

「ユダヤ人たちは主イエスと預言者たちとを殺し、わたしたちを迫害し、神を喜ばせず、すべての人に逆らい、 わたしたちが異邦人に救の言を語るのを妨げて、絶えず自分の罪を満たしている。そこで、神の怒りは最も激しく彼らに臨むに至ったのである。(第2章)」

とあります。また、「ヨハネの黙示録」(紀元1世紀後半)には、最後の戦いにおいて、子羊(イエス・キリスト)の御使いの動きとして、

「すると、その時、その日、その月、その年に備えておかれた四人の御使が、人間の三分の一を殺すために、解き放たれた。 (第9章)」

となると書かれています。で、「マタイによる福音書」(紀元50~60年頃)には

「弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。(第10章)」

とあります。総合的に考えると

「主人」とは子羊であるイエス・キリストで、「僕」とは「御使」、
「師」はイエス・キリストで、「弟子」は信徒のことである

と思われます。要するに、キリスト(兼神)と、その僕と、その信徒は、同じようでなければならず、ええと、なんとかの第9章にあるようであれば充分であるらしいですーー;。

で、現実の初期のキリスト教の信徒が何をしたかというと、ヒュパティアという無抵抗の哲学者を虐殺したりとかしていました。そして、ローマの国教となり、その後西ローマ帝国が滅びると、カール大帝と組んで、キリスト教は大帝の武力による布教、大帝はキリスト教の後押しによる征服という道に乗り出しました。そして、ヨーロッパに布教が終わると、次は十字軍かな? みたいなことになったと思われます。

でも、師と同様なようにあるのでなければならない人々は、騎士や王侯だけではありませんので、上の方の人々は十字軍に出かけましたが、下の方の人たちは「反ユダヤ主義」にのっとって、身近なユダヤ人を襲うようになりました。キリスト教において、「従順」であることは、大切な信者の条件ですので、

ええと、みんな何とかの第9章の「主人」があるようにありたかったのか? みたいな? ことになったような気がします。

というか、この頃のヨーロッパというのは、「千年王国」といって、「キリストが支配する時代」の到来を求めるというか、予期するというか、そういう思想もあったのではないかと思います。

ところが、この後予期せぬ出来事が生じました。いわゆる王侯貴族達は、自分達の権力の強化のために、いわゆる「神の権威」と対立するようになりました。そうしたら、どういうわけか、ヨーロッパには、いわゆる「新教」とか、「ペストの流行」とか、「魔女狩り」とかが次々と流行るようになって、上は旧教徒と新教徒で戦争、下は疫病と魔女狩り、という時代が始まりました。おかげさまで、全てが落ち着くまでにけっこうな時間がかかったように感じるのですが、落ち着いた頃には

啓蒙思想 とか 革命

とかが流行るようになって、その結果、「神の権威」と対立していた王侯貴族は、あちこちで没落しました。そして、ヨーロッパにおける「共和国」とか、そういう国の上層部には、いわゆる

「フリーメーソン」

と呼ばれる結社の人達が多かったかのように言われるように思うのですが、この結社というのは、表向きはともかく、シンボルマークとして

三角形の中に目

という、要するに

「それってキリスト教のシンボル?」

というマークをシンボルにしていました。んでもって、新興勢力と、王制とかが残っている古い勢力との間でもすったもんだがあった末に、

ヒットラー

という人が登場して、

ユダヤ人大虐殺

ということを行ったと。

ヒットラー自身は、キリスト教に好意的ではなかった「かも」しれません。でも、彼の部下にキリスト教徒はきっといたことと思います。しかも、戦後SSが逃走する際にどうも裏で暗躍したのは?、みたいないわゆる 「隠謀説」 もあるわけで。

とにもかくにも

ヒットラーの 「我が闘争」 には、

彼がどんなにユダヤ人が嫌いかが書かれているわけで、彼が生前行った行為と、その思想を嫌って、

「我が闘争」



「悪しき本」

とみなす人は多いわけです。きっと

「テサロニケ人への第一の手紙」

も同じくらい忌み嫌われてますよね? それなくして、反ユダヤ主義が無く、それ故に「我が闘争」もないはずであったとなれば、

と思うのですが。しかし、こういうことにもし現実がなっていてくれれば、スピルバーグ監督は果たしてこの時期にこんな演説を国連でしただろうか? と個人的にふとそう思うわけです。もちろん、それだけのことですとも。

続き
Posted by bellis 20:21 | 文学 | comments (x) | trackback (x)
「ハックルベリー・フィンの冒険」
神話のこととかいろいろと勉強していますが、私個人は、「黙示を受けてそのままを文章に書く」ようなタイプでは全くなくて、むしろ

「ニュースを読んでは思ったことを好き勝手に書く」

タイプといえます。で、某ニュースサイトにこの小説のネタがありましたので、まずはこちらを書きたいと思うわけです。

この小説を実は昔に読んだことがあります。でも、内容は

さっぱり

面白くなかったとみえて、全然覚えていないわけですーー;。どうやら内容は、ハックルベリー・フィンという奴隷制が残っている頃のアメリカの男の子が、黒人奴隷が逃亡するのを助けようとするのですが、「奴隷制」が公然とある社会では、

そんなことしちゃいけない

という規定も当然あるわけで、しかも奴隷性をキリスト教が容認しているので、ハックは神の意志に逆らうことに怯えるけれども、しまいにそんなカミサマを信じるのが苦痛になって、

「彼(助けようとしている人)を救うためなら、地獄に堕ちても構わない。」

と決意して、それが崇高な人間性の発露、みたいな? そういう小説であるらしいです。おそらく、若い頃の私に理解できなかったのは

* なんで、カミサマの罰がそんなに怖いのか?

ということが理解できない点と、

* 「地獄に堕ちても構わない」 と言っている点で、そのカミサマが言っている 「地獄」 とやらが存在することを 「肯定」 してるじゃん。すなわち、それは逆説的にカミサマの存在を肯定してるってことなんじゃん?

>崇高な人間性を否定する神を何故わざわざ肯定すんのか理解できない。

と、そのあたりで、さっぱり共感がもてなかったものと思われますーー;。

実のところ、私にとってマーク・トウェインの作品で、一番印象に残った本は、「不思議な余所者」なわけです。これはこれで結構コワイ本なわけですが。

続き
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