固有名詞は可能な限りWikipediaに準ず
新規投稿 管理用
No.281
by admin. ⌚ 2022年07月04日(月) 00:43:27 <761文字> 編集
« No.280 / No.282 »
初期表示に戻る
DASHBOARD
■全文検索:
複合検索窓に切り替える
■複合検索:
■日付一覧:
■日付検索:
■カレンダー:
■ハッシュタグ:
■カテゴリ:
■最近の投稿:
■フリースペース:
編集
▼現在の表示条件での投稿総数:
1件
▼最後に投稿または編集した日時:
2023年02月14日(火) 17:51:41
▼特殊な表示モード:
RSSフィード
「読んで 遊んで とっぴんぱらたからぎけのり 新長野のむかし話 長野県国語教育学会編」 81p、コラム
筑北村差切峡の竜神の話。竜神は『降り続く長雨で、修那羅にあった大きな池が崩れた際、主の大蛇も流されて、差切峡の「ドの渕(ぶち)」に住み着いた。(「差切峡の大蛇伝説と竜王権現様祭り 」)より』のだが、猟師が鳥を撃つのを邪魔したため、猟師が竜神を殺したところ、祟りが生じたため、仙人が供養というか調伏した、という話である。
龍と鳥が一体のものである、というごく古いオーストロネシア語族の「世界樹」の概念の片鱗が残されている物語。竜神を殺した猟師はさしづめ羿といえよう。羿が悪しき三足烏や河伯を倒したところで、世の中がそれで全てうまくいくとは限らなくて、人が何もしなくても様々な天災は起こり得る。それを「祟り」としてシャーマン(本物語では「仙人」)でなければ収集できない、としてしまえば、神職やシャーマンの地位にある者は、永遠に「唯一祟りを鎮める者」として人々の上に君臨できるのではなかろうか。シャーマンが「神を生贄に捧げなければ、戦争は止まらない(止めない)、小麦も手に入らない(入れさせない)」と言い出すようなことがもしあれば、祟っている諸悪の根源はシャーマン自身ともいえるのではなかろうか、とふと想像したりするわけです。
本物語は仙人の祈祷が重要な要素であるため、修験道の宣伝的な意味があると思う。また、本物語の竜神は鳥との一体的な立場が強く、水神女神とする要素が乏しいため、中国的な「世界樹」の概念の方が起源として近い物語と感じる。誰が持ち来たったものなのか、興味深く感じます。
参考サイト:差切峡の大蛇伝説と竜王権現様祭り
#昔話 #長野県 #北信 #竜 #龍 #仙人 #祟り #調伏 #鳥