陶寺遺跡
竜山文化(りゅうざんぶんか、龙山文化、Lóngshān wénhuà: ロンシャン・ウェンフア, 紀元前3000年頃-紀元前2000年頃)は、中国北部(華北)の黄河中流から下流にかけて広がる新石器時代後期の文化である。黒陶が発達したことから黒陶文化ともいう。
龍山文化は、中原龍山文化(河南龍山文化と陝西龍山文化)および山東龍山文化に分かれている。山東龍山文化は黄河下流を中心に存在した大汶口文化に続いて現れており、河南龍山文化は黄河中流に存在した仰韶文化に続いて登場している。龍山文化は黄河流域のそれまで異なった文化が栄えていた地域に広がっただけでなく、長江流域など後に漢民族の文化が栄える地域一帯に影響を及ぼした。
龍山文化の社会に現れた大きな変化は、都市の出現である。初期の住居は竪穴式住居であったが、やがて柱や壁を建てた家屋が出現した。また土を突き固めた城壁や堀が出土しており、特に山西省襄汾県の陶寺郷の南で発見された陝西龍山文化の遺跡・陶寺遺跡(紀元前2500年 - 紀元前1900年)は龍山文化の都市遺跡の中でも最大級のものであった。広大な集落は土壁で囲まれ、周囲には多数の墳墓があった。
農業や手工業の発達も特徴である。陝西省の渭河周辺では農業と牧畜業が仰韶文化の時期に比べ大きく発展している。コメの栽培も始まっており、カイコを育てる養蚕業の存在と小規模な絹織物の生産の開始も確認されている。
動物の肩胛骨を使った占いや巫術も始まっており、宗教も出現していたとみられる。農業などの発達により、社会の生産に余剰が生まれ、私有財産が出現し社会の階層化が進み、父権制社会や階級社会が誕生した。
中国の新石器時代の人口は、龍山文化で一つのピークに達したが龍山文化の末期には人口は激減した。同時に墳墓の副葬品から高品質の卵殻陶・黒陶なども見られなくなった。
龍紋盤[編集]
黒色に焼き上げた土器の内面に、赤色の顔料で手足のない細長い動物の図像を描いている。口から長く伸ばされた舌は、無数に枝分かれしている。頭に耳あるいは角のようなものがあることからすれば蛇ではない。龍と呼んでよいであろう。龍の意匠の起原を考えるうえで重要な資料の1つである。[3]
人柱について[編集]
陶寺遺跡からは、宮殿建築の基礎工事開始時に作られた祭祀(さいし)坑と思われる遺構が発見されている。
遺構は1号宮殿の基礎西側に位置し、発見時は灰坑の形状も整い、上下2層に分かれていた。上層の灰坑は地表から約30~40センチの深さにあり、坑内からは完全な形状をとどめたブタの骨、犬などの動物の部分的な骨が見つかり、陶寺文化初期の土器片も大量に出土した。下層からは3人分の人骨が出土した。成人2人、子ども1人で、うち子どもは頭部と胴体がばらばらで、頭は灰坑のもう片方の隅にあった。
考古学者は灰坑の年代について、出土した土器の特徴から陶寺文化初期後半であり、1号宮殿基礎の築造年代と同時期だと判断した。同遺構が1号宮殿基礎とわずか1・2~1・5メートルしか離れていないことから、灰坑が宮殿建設に関係しており、基礎の定礎時の祭祀坑だった可能性が高いとの見方も示した[4]。
私的考察[編集]
龍紋盤の龍の下は「穀物の穂」状となっており、この架空の動物神が単に動物を示すのみならず、植物、特に重要な作物である穀類を神格化したものであることが示唆される。同様に動物と植物を組み合わせた「動植物神」とも言うべき合成神獣としては河姆渡文化の猪紋黒陶鉢の猪紋がある。これは猪の体に植物の紋様と「目」のような紋様が描かれた図である。「猪竜」という言葉があるように猪は蛇と並んで「龍」の起源として重要な動物である。龍紋盤の龍神は「動物と植物を組み合わせて、穀物の豊穣を与える神とした」という長江文明特に河姆渡文明の思想が黄河流域に伝播して形成されたものではないだろうか。
また、黄河の「河伯」とは竜の形態でも現されるので、龍紋盤の龍は黄河の河伯、すなわち、後の時代に「花嫁」と称して若い娘の生贄を求めた神と思われる。とすると、河姆渡文化の猪神も「川の神」であって、この場合は揚子江の神とされたであろうが、豊穣と引き換えに何らかの生贄を求めた可能性がある。河姆渡文化では直接の人身御供は発見されていないが、人頭をかたどった土器が出土している、とのことで、人間の代替として土器を神に捧げた可能性はあるのではないかと思う。長江流域の大渓文化では作物の豊穣を求めて人間や動物の生贄を捧げていたと思われ、これも長江の神である動植物神に捧げられたものではないだろうか。
一方、陶寺遺跡と同時期の石峁遺跡からは建築物の基礎の安寧を求める人柱として多くの人身御供が捧げられており、これは「前饕餮」ともいうべき城塞の神に捧げられたものと思われる。陶寺で発見された人身御供も宮殿の基礎の安寧を求めるものと思われ、大規模建築物そのものが神格化され、生贄を捧げる存在である、とされた思想が規模からいって、石峁遺跡から陶寺遺跡にも伝播した、というべきではないだろうか。しかし、主に良渚文化で発生し発展したと思われる「前饕餮紋」は「首のみ」の存在で、かつ「王権の象徴」のように見えるが、石峁遺跡に現れた「前饕餮紋」は男性原理を強調しつつ、蛇神とも強力に習合しているように見える。これは父系社会への社会構造の変化を示すと共に、「前饕餮紋」が「生贄を求める川の神(竜蛇神)」とも習合し、自ら生贄を求めるようになったものではないか、と考える。「川の神(竜蛇神)」であれば、治水の安寧や豊穣を求める対象であったのみであろうが、「前饕餮紋」と習合したことで、大規模建築物の神として、技術や建築物構造の安寧も求められる対象となった、すなわち、そのために生贄を捧げる対象ともなったものと思われる。古代の土木建築技術は治水技術とも大いに関連するため、そこから発展した神であるかもしれない。
饕餮は炎帝の子孫である蚩尤が死んで変化した神とも言われており、炎帝の一族には共工という治水の神も存在する。炎帝が穀類の栽培を始めとした農業を司る神であって、食物を供給する神でもあったのであれば、河姆渡文化の猪神は炎帝の可能性があると考える。あるいは「目」のみが強調されるのであれば、すでに饕餮と呼ばれる存在となっていた可能性もあるように思う。ということは、動植物神である「龍紋盤」の龍も饕餮の一形態であり、石峁遺跡の「前饕餮紋」と「同じ神」であり、かつ炎帝信仰の流れを組む神であり、この神がどのような形態、性質を持とうと、「人身御供を求める神」であるが故に、植物の豊穣にも、大規模建築物の豊穣にも人身御供を求めており、その姿や求める態様が場所や時代によって異なる、ということなのだと考える。
そして、その思想が後の殷代に、国家の安寧を求めて大規模な生贄を捧げる風習へと移行していったのではないだろうか。神が炎帝信仰の流れを組む神でありさえすれば、まずは何に対しても生贄を求める神と考えられるようになったのだと推察する。また、この神に対する生贄の風習には「占い」ということが大きく関わっており、祭祀の是非を占いに求めることが大きくなっていっているように感じる。要は「占術」が社会的に発展すればするほど、人身御供を求められる機会が多い社会に古代中国は変化していったのではないだろうか。
大規模建築物(建物、治水等)に対して人身御供を捧げる習慣は、木工技術の神である須佐之男の伝播と共に古代日本に到来し、近世に至るまで城や橋などの重要建築物を建設する際には人柱を立てる風習として残されていたように思う。それは須佐之男が川の「植物と習合した竜神」であり、大規模建築物の神そのもの、すなわち古代中国における炎帝が変遷したものであったからであると考える。
参考文献[編集]
- 龍紋盤(龍山文化)、考古用語辞典、07-10-01(最終閲覧日:22-09-13)
- 「中華文明五千年の文明を伝える陶寺遺跡の発掘報告」、中国網日本語版(チャイナネット)、15-12-16(最終閲覧日:22-09-13)
- 陶寺遺跡で祭祀坑らしき遺構を発見 山西省臨汾市、AFP BB News、22-08-17 11:23(最終閲覧日:22-09-13)
- Wikipedia:襄汾県(最終閲覧日:22-09-13)
- Wikipedia:龍山文化(最終閲覧日:22-09-13)