石峁遺跡

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楡林市の位置図
図1、石峁遺跡から出土した石刻(撮影日不明、石峁遺跡考古調査隊提供)(AFP BB News)
図2、石峁遺跡の中心エリア皇城台「大台基」南側擁壁から出土した石刻。(2018年11月11日撮影、神木=新華社配信)
管理人はこれを「前饕餮紋」と見る。
図3、石峁遺跡の中心エリア皇城台「大台基」南側擁壁から出土した石刻。(2018年11月6日撮影、神木=新華社配信)

石峁遺跡(しいもあいせき)は、中国の新石器時代後期から「夏代」前期に相当する城壁都市遺跡である。陝西省北部、楡林市神木県に位置する[1]。地形的には禿尾河の流域にあたるものの、周囲を荒漠とした山地に囲まれた高原上の遺跡である。その西北では内モンゴル自治区の鄂爾多斯市と境を接しており、まさしく農耕地域と遊牧地域の境界として象徴的な長城地帯にある。遺跡は紀元前2300年頃から紀元前1800年頃まで繁栄し、突然放棄された。山西省の陶寺文化にほぼ相当する時期である。遺跡は新石器時代後期から「夏代」前期に相当し、城址面積が 400 万㎡を超える大規模な城塞である。遺跡は1976年に発見され、玉器を多く出土する遺跡として注目を集めていた。

玉器については前後二段の時期に分け、前段を龍山文化後期併行期、後段を朱開溝文化二段併行期とみなしている。石峁遺跡からは数多くの玉璋の出土が知られており、玉柄形器の存在とともに二里頭文化との関連性を強く示唆する遺物で ある。ヒスイも発見されており、破片だけでなく、円盤や刀剣、笏(しゃく)などに加工されたものも見つかっている。ヒスイはここ陝西省最北部では産出せず、最も近い産地でさえ、およそ1600キロも離れている。

城壁は、基本的には山地の斜面に沿って築かれている。地形に即して集落を囲う壁の存在は新石器時代後期の岱海地域でおこった老虎山文化で知られており、土器の類似性の面からも、石峁遺跡の「城壁」は、内モンゴル地域との関連の中で説明されるべき遺構であろう、とされている。

出土した土器は内モンゴル自治区の大口文化や朱開溝文化[私注 1]、山西省の陶寺文化との関連性が指摘されている。

石刻について[編集]

遺跡の中心部に当たる皇城台の「大台基」の南側擁壁部分で精巧な石刻70点余りが見つかっている。石刻は神面や人面、神獣、動物、符号の5種類に分類することができる。

これらの石刻は、中国東北地区の先史時代に存在した興隆窪(こうりゅうわ)文化時代や紅山(こうざん)文化時代の石造りの人型彫刻と共に、中国の北方地域に見られる石刻の「伝統」を構成し、中国の先史文明の中で独特な文化要素を形成した可能性を示している[2]

生贄(人柱)について[編集]

東の壁の下から、6つの穴に80個もの人間の頭蓋骨が詰め込まれていたのが発見された。体の骨はなかった。(石峁の正門である東門に最も近い2つの穴からは、それぞれ24個の頭蓋骨が見つかった)。頭蓋骨の数や配置から、壁の基礎を敷設する際の儀式で首を切られたことが示唆された。法医学者たちによると、犠牲者のほぼすべてが若い少女であり、おそらく敵対勢力に属していた捕虜だと考えられる[3]

大規模建造物の安寧を祈願した生贄である「人柱」としては、発見されているもののうち最古のものと思われる。

私的考察[編集]

石峁遺跡からは城背渓文化の「太陽神石刻」の時代からおなじみの「髪の毛がない(あるいは弁髪の)神像」の石刻が壁から見つかっている(図1)。そして大渓文化以降見られるように、「首のみ」の石刻である。その一方で、良渚文化より見られるようになった、後の時代の「饕餮紋」と呼ばれる獣様の石刻も多数認められる(図2)が、その多くも「首のみ」である。そして、「弁髪様」の石刻は小さく表現されるようになっているように思われる。よって、石峁遺跡は万里の長城付近という北方地域にありながら、遠く長江文明の影響も受けている文化といえる。ただし、良渚文化では王権を示す鉞に刻まれ「王権の象徴」と考えられる態様であった「前饕餮紋」は壁に刻まれ、城塞を守る神のような存在として現された可能性があるように思う。城塞を築くような大規模な工事を命令できるのは強い権力を持った王権者と思われるので、王の権威を現す紋様ではあるのかも知れないが、「前饕餮紋」の性格は良渚文化よりもやや変化しているし、拡張されている可能性もあるように思う。そして、「前饕餮紋」は「弁髪様」が次第に姿を消し、殷代の「饕餮紋」に近いものに置き換わりつつあるのではないか、という印象を受ける。

「首のみ」の神像は、多様であるが、全て同じ「一つのもの」あるいはせいぜい2,3種類のものを現しているのではないか、と考える。古代の世界の神話にはインド神話のプラウマーのように4つの顔を持つもの、日本の魏石鬼八面大王のように8つの顔を持つもの、ギリシャ神話のヒュドラーのように9頭、日本神話の八岐大蛇のように8頭といった多頭の蛇神など、複数の顔を持つ神々が正邪を問わず存在する。石峁遺跡の「前饕餮紋」も「多頭の神」と考えれば、多くの頭と顔があっても全て「同じ神」と解釈することが可能である。その場合、城塞そのものがこの神の巨大な身体、と見たてられている、ともいえるように思う。都市の住民からすれば、「前饕餮紋」と城塞は、一体となった都市を守るための神ともいえる。

人身御供の文化は大渓文化城頭山遺跡のものが最古と思われるが、石峁遺跡では城塞建築の際のいわば「人柱」としての人身御供が登場している。古代中国では川の男性神に「花嫁」と称して人身御供を捧げる習慣があったが、「人柱」の意味は何であろうか。若い娘達が城塞とその神(前饕餮紋)に捧げられたものであれば、食料であるか、あるいは神の怒りを避けるための花嫁としての意味があったのではないだろうか。彼女達が「戦争捕虜」であったとすれば、すでに「敵を弱体化させるための政策として生贄を捧げる」という信仰心以外の、策謀のための殺人儀礼の概念も誕生していた、ということになる。興味深いことである。

多様化する神像について[編集]

図2は「前饕餮紋」の左右の首の付け根、あるいは肩のあたりから2匹の蛇が伸びているように見える図である。両肩から蛇が生えている神霊といえば、メソポタミア神話のニンギジッタ、イラン神話のザッハークがいる。ザッハークの蛇は食料として人間の生贄を求める神であり、「前饕餮紋」に生贄を捧げたこととの関連性が興味深い。


図3は、頭が「亀頭」状になった2匹の蛇である。これは図2の蛇が独立して描かれたようにも思える。台湾の神話には男根が蛇のように長くなった巨人が登場する。これも、特に機を織っている女性を犯して殺す神として現される。生贄を求める神であると共に、織女に狼藉を働いて殺す日本神話の須佐之男との関連性が示唆される神である。台湾の神話と2匹の「亀頭蛇」を伴う城塞の「巨人饕餮」ともいうべき神が同一の起源を持つのであれば、日本神話の須佐之男も同様の神として、生贄を求める神である点や、城塞そのものの神格化した神としての性質も有するのではないか、と考察すると興味深い[私注 2]


すなわち、石峁遺跡の「前饕餮紋」はメソポタミア神話のニンギジッタ、イラン神話のザッハーク、日本神話の須佐之男と起源が同一である可能性がある神として興味深いのである。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

私的注釈[編集]

  1. 朱開溝文化では何らかの祭祀において犬を生贄に捧げていたようである。また、卜骨(ぼっこつ、占いに使う骨)は、牛または羊の肩甲骨を熱したり穴をあけたりして加工していた。(4千年前の朱開溝文化期の遺跡を発見 内モンゴル自治区、AFP BB News、22-02-14 15:19(最終閲覧日:22-09-13))
  2. 「亀頭蛇」と須佐之男の関連としては、個人的には田縣神社の御歳神(須佐之男の息子神)を強く連想するわけですが。肩から蛇、男根から蛇、しかも頭がいくつあるのかも分からない、ではまさに神話の中の八岐大蛇のようである。

参照[編集]

  1. 歴史上北方民族が長安(現在の西安市)に向かう際の交通の要衝とされた。
  2. 熟練した技術で作られた4000年前の石刻発見 陝西省石峁遺跡、AFP BB News、2019-01-10 15:02
  3. 4千年前の中国・石峁遺跡、謎のヒスイと要塞、ナショナルジオグラフィック日本語版、2020-08-23