河姆渡文化

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河姆渡文化の範囲
猪紋黒陶鉢
新石器時代(河姆渡文化)、1977年浙江省余姚河姆渡文化遺跡出、陶器、高さ11.7cm、口径21.7cm、底径17.5cm、浙江省博物館所蔵[1]
陶器の豚。
(中国国家博物館・北京)
「双鳥朝陽象牙蝶形器」。太陽に向かう2羽の鳥が描かれた象牙の容器。紀元前5000年頃-紀元前4500年頃(浙江省博物館)
この図案は、太陽には三本足のカラスがいるといった伝説からの「金烏負日」という古代思想を表現している。古人は太陽の日の出、日没は二羽のカラスが運ぶのだと考えた[2]
櫂の形をした象牙の鳳凰。余姚市で発見された。(紀元前5200年〜前4200年頃)

河姆渡文化(かぼとぶんか、Hémŭdù Wénhuà)は、中国浙江省に紀元前5000年頃-紀元前4500年頃にかけて存在した新石器時代の文化。杭州湾南岸から舟山群島にかけての地域(現在の浙江省東部、寧波市から舟山市)に広がっていた。余姚市の河姆渡镇の河姆渡遺跡から発見されたことから、河姆渡文化とよばれる(後の越)。

河姆渡遺跡は1973年に発見され、1973年から74年と1977年から78年の2回にわたり発掘作業が行われた。水稲のモミが大量に発見されたため、人工的かつ大規模に稲の栽培が行われていたことが明らかになった。稲のほかにも、ヒョウタン[私注 1]、ヒシ、ナツメ、ハス、ドングリ、豆などの植物が遺跡から発見されている。その他ヒツジ、シカ、トラクマサルなどの野生動物[私注 2]や魚などの水生生物、ブタイヌスイギュウなどの家畜も発見された。発見されたのは、象、犀、虎、狼、熊、鹿、猿、貝、亀、鰐等と各種の魚類、烏類の骨である。同時に、犬・豚・鳥ばかりでなく、水牛の家畜化も行われていた[3]

蚕糸のある骨壷が出土している[4]

割られた猿の頭骨多数。現在の上海など脳味噌を食べる嗜好はここに始まっていると見られる。食人習慣あり。釜の中に魚の骨といっしょに嬰児の骨がまじってでている。中国古伝に、最初に生まれた子を食べると次々に子が産まれる、という風習の国ありとの記述に一致[5]

遺跡からは干欄式建築(高床式住居)が数多く発見されている。遺物のなかでは石器は比較的少なく、石斧など工具として使われた磨製石器や装飾品として使われたものが発見されている。木器や骨器は多く発見された。その中の「木雕魚」は中国最古の木製装飾物である。また木でできた柄のついた肩甲骨製の耜(シ、すき、田を耕す道具)や刀、銛、弓矢、紡錘や針など大量の紡織用の道具、骨でできた笛や木の太鼓も発見された。河姆渡では中国国内では最古の漆器も発見された。陶器は黒陶、紅陶、紅灰陶など1000度前後の比較的高い温度で焼いたものが見られ、一定の技術的水準にあったことを示している。幾何学模様や植物紋、縄文などが刻まれており、中には人頭をかたどったものや船をかたどった土器もある。

河姆渡文化は、太湖周辺から杭州湾北部に分布した馬家浜文化(ばかほうぶんか)とほぼ同時期にあたり、異なった文化が互いに影響しあいながら共存していたと見られる。河姆渡遺跡には近くを流れる姚江が2回大きな洪水を起こし流路を変えた跡や、洪水で塩水が田を浸した跡などがあり、こうした災害から遺跡が放棄されたと考えられる。

微生物や花粉などの分析から、河姆渡文化は完新世の気候最温暖期の最中に栄えたと見られる。杭州湾付近の海面水位の研究結果では、今から7000年から5000年前までは海面は低い位置で安定していたが、今から5000年から3900年前には頻繁に氾濫していた。高床式の住居も、頻繁な雨など高温多湿の気候に対するものであった。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

私的注釈[編集]

  1. 瓢箪とは伏羲の象徴でもある。
  2. 虎は白虎など、熊は檀君神話の女神、「熊野」の地名にある神性など、猿は日枝山王と、後に中国やその周辺で神格化された動物は、この時代にすでに人類と主に食物として接触していたことが明らかに分かる。

参照[編集]

  1. 猪紋黒陶鉢、考古用語辞典、07-07-09
  2. 河姆渡(上)7000年前の稲作文化、文:丘桓興、人民中国インターネット版、10-04-27(最終閲覧日:22-09-16)
  3. 長江文明車山高原リゾートイン・レアメモリー(最終閲覧日:22-10-10)
  4. 「住宅資材物語」 織 物(2)、PSATS(サーツ)、中村正實(最終閲覧日:22-10-11)
  5. 長江流域の初期文化古代で遊ぼ、川上しのぶ(かたばみ)、99-04(最終閲覧日:22-10-10)