人柱
人柱(ひとばしら)とは、人身御供の一種。大規模建造物(橋、堤防、城、港湾施設、など)が災害(自然災害や人災)や敵襲によって破壊されないことを神[* 1]に祈願する目的で、建造物やその近傍にこれと定めた人間を生かしたままで土中に埋めたり水中に沈めたりする風習を言い、狭義では古来日本で行われてきたものを指すが、広義では日本古来のそれと類似点の多い世界各地の風習をも同様にいう。
目次
概要[編集]
この慣わしを行うことは「人柱を立てる」、同じく、行われることは「人柱が立つ」ということが多い。人柱になることは「人柱に立つ」、強いられてなる場合は「人柱に立たされる」ということが多い。
史実はともかくとして、人柱の伝説は日本各地に残されている。特に城郭建築の時に、人柱が埋められたという伝説が伝わる城は甚だ多い。また、城主を郷土の偉人として讃えるため、「人柱のような迷信を禁じ、別の手段で代行して建築を成功させた」という伝説が残っているものもある。また、かつてのタコ部屋労働に伴って生き埋めにされた労働者も人柱と呼ばれることがある。工事中、労働者が事故死した場合に慰霊と鎮魂の思いを籠めて人柱と呼ぶ場合もある。
この場合の「柱」とは、建造物の構造のそれではなく、神道(多神教)において神を数える際の助数詞「柱(はしら)」の延長線上にある語で、死者の霊魂を「人でありながら神に近しい存在」と考える、すなわち対象に宿るアニミズム的な魂など霊的な装置に見立ててのことである。こういった魂の入れられた建造物は、そうでない建造物に比べより強固に、例えるなら自然の地形のように長くその機能を果たすはずであると考えられていた。この神との同一視のため、古い人柱の伝説が残る地域には慰霊碑ないし社(やしろ)が設置され、何らかの形で祀る様式が一般的である。
上記の例とはややニュアンスが異なる人柱も存在する。上記のタコ部屋労働の人柱のように不当労働や賃金の未払いから「どうせなら殺してしまえ」という理由で人柱にされてしまった例や、炭鉱火災が発生した際、坑内に残る鉱夫を救助することなく、かえって酸素の供給を絶つために坑口を封鎖したり注水する殺人行為を「人柱」と称することもある(北炭夕張新炭鉱ガス突出事故など)。小説などのフィクションにおいては、城の秘密通路を作成した作業員を秘密隠蔽のために全員殺害し、その死体を人柱に見立てるといった例もある。
人柱伝説の考察[編集]
南方熊楠は自身の著書『南方閑話』にて、日本を含めた世界で数多に存在する人柱伝説について紹介している。書かれている人柱の呪術的意図に関しては、62頁の「ボムベイのワダラ池に水が溜らなんだ時、村長の娘を牲にして水が溜まった」とあるように人柱により何らかの恩恵を求めたものや、64頁の「史記の滑稽列伝に見えた魏の文侯の時、鄴の巫が好女を撰んで河伯の妻として水に沈め洪水の予防とした事」、68頁の「物をいうまい物ゆた故に、父は長柄の人柱 ― 初めて此の橋を架けた時、水神のために人柱を入れねばならぬと関(要曖昧さ回避, 2016年5月)を垂水村に構えて人を補えんとする」、68頁の「王ブーシーリスの世に9年の飢饉があり、キプルス人のフラシウスが毎年外国生まれの者一人を牲にしたらよいと勧めた」とあるように人柱によって災難を予防、もしくは現在起こっている災難の沈静化を図ったもの、69頁の「大洲城を龜の城と呼んだのは後世で、古くは此地の城と唱えた。最初築いた時下手の高石垣が幾度も崩れて成らず、領内の美女一人を抽籤で人柱に立てるに決し、オヒヂと名づくる娘が当って生埋され、其れより崩るる事無し」、71頁の「雲州松江城を堀尾氏が築く時成功せず、毎晩その邊(辺)を美聲で唄い通る娘を人柱にした」、87頁の「セルヴイアでは都市を建てるのに人又は人の影を壁に築き込むに非ざれば成功せず。影を築き込まれた人は必ず速やかに死すと信じた」とあるように人柱によって建築物を霊的な加護によって堅牢にする意図があったことが明らかとなっている。神話学者の高木敏雄によれば、建築物の壁などに人を生き埋めにし人柱をたてるのは、人柱となった人間の魂の作用で建物が崩れにくくなる迷信があったからだという。
なお、南方熊楠は『南方閑話』の92頁において座敷童子は人柱となった子供の霊であると書いている。そのほか、罪人が人柱となる話や、82頁にあるようにある特殊な境遇の人間の血を建物の土台に注いだら建物が崩れにくくなるといった人柱同様の迷信が存在していたことも語っている。
もっとも興味深いのは、人柱の呪術的意図が変化することを語っている点である。78頁の「晝間仕上げた工事を毎夜土地の神が壊すを防ぐとて弟子一人(オラン尊者)を生埋した。さらば欧州がキリスト教と化した後も人柱は依然行なわれたので、此教は一神を奉ずるから地神抔は薩張り(さっぱり)もてなくなり、人を牲に供えて地神を慰めるという考えは追々人柱で土地の占領を確定し建築を堅固にして崩れ動かざらしむるという信念に変わった」
上記のようにその時々により、人柱の意味合いも変化していくことがわかる[1][2][3]。
布施千造は、1902年(明治35年)5月20日に発行された東京人類学会雑誌第194号の「人柱に関する研究」303頁―307頁[4]にて、「人柱の名称」「人柱の方法」「人柱の材料」「人柱の起源」「人柱の行われし範囲」「人柱と宗教の関係」について書いている。「人柱の方法」については、自動的なものに、「名誉を遺さんとして人柱を希望するもの」「他人の為、水利を計らんとして身を沈むる者」とあり。他動的なものに、「突然拿捕せられて強制を以って人柱とせらるる者」「止を得ず涙を呑んで埋めらるるもの」とある。
逆に最近の研究では、特に城郭建築の人柱においては否定的な見解が多く、井上宗和は、「城郭建築時の人柱伝説が立証されたケースは全くない。人柱に変えてなんらかの物を埋めたものが発見されることは存在する」と述べており、興味本位の出版物を除くと、城郭の人柱については全否定されている。(井上「日本の城の謎」祥伝社文庫)
逆に北海道常紋トンネルの人柱のように、タコ部屋労働で苦役の末に死亡した作業員を埋めたものについては、北海道開拓の苦労を偲ぶ目的で研究が多く行われている。
人柱伝説の一覧[編集]
各地に見られる人柱伝説のうち、比較的著名な事例をここに列挙する。なお、前述のとおり城郭建築については、人柱の代用品を埋めているケースが多いので、それもここに含める。人柱が立ったと考えられる当時を基準に古い事例から順に記載するが、工期が数年にわたる場合、どの年に人柱が立ったかを特定することは難しいのが普通であり、また、何時代といったおおまかな時期さえ特定できない場合もある。
難工事が予想される物件で着工前から予定されている人柱(例:茨田堤)もあれば、万事順調に推移したとしても霊的加護を期待して実施される人柱もあったと考えられる。人の身で果たせる努力を尽くしてなお叶わなかった末の神(人間の所業を不首尾に終わらせようとして現に力を発揮している荒魂)をなだめるための人柱(例:松江城の人柱にされた娘)もあった。信仰心のあり様が大きく変容した近代化以降の場合は、現代的感覚でもって「迷信」と断じる近世以前の純粋で残酷な人柱とは異質な、信仰とは乖離した面の多い打算的あるいは謀略的な犯罪色の強い人柱が起こり得る土壌があった(もしくは、ある)と言える。常紋トンネルの人柱伝説や同種の伝説をモチーフとした創作物はこの類いである。
物証のある人柱[編集]
考古遺物を始めとする科学的物証が、部分的にではあっても存在する人柱伝説。伝説と物証がある人柱。語り継がれている事柄が全面的に証明されたわけではないが、人柱が立ったことや立った場所などを史実と認めることができる事例である。
- 猿供養寺村の人柱
- 日出城の人柱
- 1601年(慶長6年)から1602年(慶長7年)にかけての築城の際に入れられた人柱の伝説が残る。1960年(昭和35年)、城下海岸遊歩道の工事中、城の西南端から木棺が発掘された。木棺は岩盤をくり抜いた穴の中に納められ、その上に大石が載せらて石垣の基礎となっていた。棺の中からは老武士らしき人骨とともに陶製の翁像が、大石の上からは兜の金具などが発見された。大分大学教授らの調査の結果、日出城築城当時の人骨であることが推定された。築城工事は城の西南部の地盤が弱く難工事であったと伝えられており、城の裏鬼門にあたる方角に位置するため、人柱を立てたのではないかと考えられている。棺が出土した地点の石上には「人柱祠(ひとばしらのほこら)」が祀られている[7]。
- 常紋トンネルの人柱
- 難工事の末、1914年(大正3年)に開通した常紋トンネルは、1968年(昭和43年)の十勝沖地震で壁面が損傷したが、1970年(昭和45年)に改修工事が行われた際、立ったままの姿勢の人骨が壁から発見され、出入口付近からも大量の人骨が発見された。撲殺されたタコ労働者(略称:タコ)の遺体が埋められたことについて、当時のタコやその他関係者たちの証言もあったが、特殊な状況を示す遺骨群の発見によって、かねてより流布されてきた怖ろしげな噂のうち人柱の件は事実であったことが証明された[8]。
人柱の代替[編集]
- 吉田郡山城の人柱代用の百万一心碑
- 毛利元就が築城した時、石垣がたびたび崩れるため、巡礼の娘を人柱にする話が持ち上がった。ところが元就が人命を尊重して人柱を止めさせ、「百万一心」の文字を石に書いて埋め、築城を成功させたというもの。吉田郡山城築城開始直後の1524年のことか。詳しくは百万一心の項目を参照。
人柱かどうか不明のもの[編集]
- 江戸城伏見櫓の人柱
- かつての江戸城伏見櫓(現在の皇居伏見櫓)は、徳川家康が伏見城の櫓を解体して移築したものと伝えられているが、1923年(大正12年)に発生した大正関東地震(関東大震災)で倒壊し、その改修工事の最中、頭の上に古銭が一枚ずつ載せられた16体の人骨が発見され、皇居から人柱かと報道されたこともあり大騒ぎになった。伝説を信じれば、1603年〜1614年の慶長期築城の時、伏見城の櫓を移築した後で人柱を埋めたことになる。
- 江戸城研究家たちの間では、人柱とするには余りにも粗末に扱われていることや、伏見櫓を解体修理した結果伏見からの移築物ではないことが明らかであることが分かっているため、人柱説には否定的である。徳川家康の慶長期築城以前に、城内にあった寺院の墓地の人骨であろうとされており、『落穂集』などの史料には、慶長期築城以前には、複数の寺院が城内にあり、慶長期築城の時に全て移転させられたことが明確だからである(鈴木理生・黒田涼・井上宗和らの説)。
- 一説には、皇居と深い関わりにあった黒板勝美は宮内省から調査依頼を受け、実地見聞を1時間半程度行っただけで人柱否定説を打ち出してそのまま公的調査は終了したといい、その後、中央史壇などで供犠の話題で特集が組まれた。喜田貞吉は黒板の発言の矛盾を指摘し、批判するとともに、人柱の文化的な意味について考察を広げようとしていた。1934年(昭和9年)には坂下門近くでも5人の人骨と古銭が発見されている。なお、見つかった遺骨は震災の混乱の中、芝・増上寺で手厚く供養されたという。
伝説の域にある人柱[編集]
- 茨田堤と強頸・衫子
- 『日本書紀』「巻第十一の十 仁徳天皇(仁徳天皇11年10月の条)」の伝えるところによれば、暴れ川であった淀川の治水対策として当時は広大な低湿地であった茨田(まんた、まんだ。のちの河内国茨田郡[まんたのこおり]、現在の大阪府守口市・門真市の全域、寝屋川市・枚方市・大東市・大阪市鶴見区の一部に及ぶ範囲)に茨田堤を築いて淀川の奔流を押さえ、次に難波堀江を開削して流水を茅渟の海(ちぬのうみ。現在の大阪湾)に落とす工事にかかったが、茨田地域にどうにもならない絶間(たえま。断間とも記す。決壊しやすい場所)が2箇所あって万策尽きてしまった[9][10][11]。そのような最中のとある夜、天皇は夢枕に立った神から「武蔵国の人・強頸(こわくび、参照)と河内国の人・茨田連衫子(まんたのむらじ ころもこ)の2名を人身御供として川神に捧げて祀れば必ずや成就する」とのお告げを得、かくしてただちに2名は捕らえられ、衫子はヒョウタンを用いた策で難を逃れたが、強頸は泣き悲しみながら人柱として水に沈められたため、堤は完成を見たという。江戸時代の『摂津名所図会』によれば、強頸が人柱にされた「強頸絶間」の跡は絶間池(非現存。大阪市旭区千林)として残っていた。現在は千林2丁目の民家に「強頸絶間之址」の碑が建っている。
- 長柄橋 :飛鳥時代初期。「キジも鳴かずば撃たれまい」という諺の語源となった。故事の詳細は当該項目を参照。
- 久米路橋:長柄橋のものと似た人柱伝説が伝わる。
- 大輪田泊と松王丸
- 平清盛の治世下にあって日宋貿易の拠点港とすべく大輪田泊の建造が急がれていた頃、工事にあたって旅人を含む30名もの罪無き人々が人柱にされようとするのを清盛の侍童(さぶらいわらわ、じどう)[* 4]であった松王丸(まつおうまる)が中止させたという伝説がある。しかし異説によると、松王丸が入水して人柱になったことで工事は成し遂げられたのだという。また、経文を記した礎(いしずえ)を人柱の代わりとして海に沈めたことが分かっており、そういった石は考古遺物としても確かめられている。このようにして造られた人工島は「経が島」と呼ばれるようになった。
- 大洲城
- 1331年(元徳3年/元弘元年)、宇都宮豊房が築城した際に石垣工事が難航したため、くじに当たった「おひじ」という若い娘を人柱にした。その娘の遺言により城下を流れる川を「肱川(ひじかわ)」と名付け、おひじの魂を慰めたとの伝説がある[私注 1]。
- 庄内川の十五の森 :1494年(明応3年)。当該項目を参照のこと。
- 長浜城
- 1574年(天正2年)、築城の際に城下一の美女「おかね」が人柱に選ばれ、おかねが人柱に入った辺りの堀を「おかね堀」と呼んだという伝説がある。また、漁師の娘「きく」が、人柱にされそうになった妹を庇って自ら人柱になったとの伝説も残る。
- 丸岡城 :1576年(天正4年)、息子を武士に取り立てることを条件に人柱となったが、果たされなかった「お静」の伝説が残る。
- 和歌山城 : 1585年(天正13年)、築城の際に「お虎」という女性を人柱にしたという伝説がある。
- 米子城
- 1591年(天正19年)、天守の石垣工事が難航したため、米子城下に住む「おくめ」という娘が盆踊りの輪の中からさらわれて人柱にされ、米子城は別名「久米城」と呼ばれたという伝説がある。
- 美吉の猿土手
- 現在の鳥取県米子市にある美吉では加茂川の土手が度々決壊して困っていたが、米子城で人柱を立てたところ石垣が崩れなくなったとの話を参考に人柱を立てることにした。翌朝一番に通りかかった者を人柱にすることに決まり、翌朝最初に通りかかった猿回しの男を猿とともに土手に埋めて人柱としたので、猿土手と言われるようになったとの伝説があり、付近には猿土手橋が架かっている[私注 2]。
- 大垣城: 1595年(文禄4年)、天守を建造する際に、工事を見物していた山伏を捕らえて人柱にしたとの伝説がある。
- 丸亀城 : 1597年(慶長2年)、丸亀城築城の際に石垣の工事が難航したため、人柱にされた豆腐売りの伝説がある。
- 郡上八幡城
- 慶長年間、城の改修工事を行ったが工事が難航したため、人柱を立てることとなり、領内神路村の百姓吉兵衛の17歳の娘、あるいは大和村の羽生家の娘などとされる「およし」が人柱として土中に埋められたという伝説が残る。城内にはおよしを祀った祠、及び石碑があり、城下の善光寺には「およし稲荷」がある。郡上おどりの期間中には、下殿町で「およし祭」という縁日おどりが行われている。また「人柱歴約400年の17歳」「およしちゃん」として観光キャラクター化もされている。
- 芋川用水 :一説に江戸幕府開府と同じ1603年(慶長8年)頃の伝説。
- 彦根城
- 1603年(慶長8年)。大津城天守を移築して天守台に据え付けようとした時に工事がたびたび失敗するので、工事関係者が人柱を要望。城主の井伊直継が拒否し押し問答となった。家臣の娘が人柱を志願したので、直継がごまかして娘を箱に入れて人柱にしたと表向きは工事関係者に通知し、実際には空き箱を埋めて工事を成功させた。娘は密かに逃したという(晋遊舎ムック「戦国武将と名城」などによる)。
- 松江城 :1611年(慶長16年)。盆踊りの輪から連れ去られた娘、および、虚無僧を人柱にしたという伝説がある。
- 白河小峰城
- 1629年、丹羽長重によって改修された際、本丸の石垣の一部が何度も崩壊したため、作事奉行和知平左衛門の娘の「おとめ」が人柱にされ、おとめが埋められた場所には桜の木が植えられ「おとめ桜」と呼ばれるようになったという[12]。
- 福島橋:寛永時代(1624-1645年、江戸時代初期)。当該項目を参照のこと。
- 服部大池:1645年(正保2年)に完成。[広島県福山市にあるため池。堤建設の際に埋められた「お糸の人柱伝説」。
- 吉田新田
- 1659-1667年(万治2年-寛文7年)間の伝説。埋め立て工事に際しての「お三(女子名)の人柱伝説」が有り、鎮守の日枝神社は「お三の宮」と呼ばれる。
- 竜ヶ池 :1665年(寛文5年)。現在の三重県鈴鹿市にある池。人柱にされた娘「お竜」の名を池名に残す。
- 入ヶ池 :兵庫県稲美町に現存する溜池の1つで、人柱にされた女性「お入」の名を池名に残しており、21世紀に入っても毎年4月12日に彼女の法要が執り行われている[13]。なお付近の加古川市には、たびたび決壊するため人柱を立てることにしたものの、代わりにネコを8匹、溜池の堤に埋めたと言われる、猫池もある[14][15]。
- 富士川の雁堤 :1674年(延宝2年)の人柱伝説。
- 千貫石ため池
- 1682-1691年(天和2年-元禄4年)間の伝説。岩手県金ケ崎町にあるため池。「おいし」と呼ばれた女性が人柱として捧げられたといわれている[16]。
- 百太郎溝:熊本県球磨郡多良木町、あさぎり町、錦町に江戸時代に造られた、全長19キロの灌漑用用水路で、人柱になった人の名前に因む。慰霊碑の写真がある。
- 伝説によれば、昔、この地方を流れる川の氾濫で、田畑が流される災害がたびたび起こり村人が困っていた。ある時、「裾に二本の線がはいった着物を着た人物を人柱に立てよ」という神のお告げがあった。その着物を着た人物、百太郎に白羽の矢が立った。轟音とともに、橋の柱にくくりつけられた百太郎の声が、一晩中、村に響き渡ったという。それからは、水害はぴたりとやんだ。[17]
海外の人柱[編集]
- 中国
- 打生樁(「人柱」の意)
- 伝説によると、打生樁の実践は魯班によって最初に提唱された。大規模な工事で土砂が移動すると、その土地の風水が壊れ、不当に亡くなった人の霊が怒り、工事中の事故が起こると信じられていた。そんな弊害を抑え、工事中の事故を減らすために打生樁が提案された。
- しかし、打生樁の考古学的証拠には、河南省鄭州の東趙発掘調査で発見された事例がある。二里頭文化都市(紀元前2100年頃-紀元前1800年頃または紀元前1500年頃、伝説上の国家夏に比定されることがある。)の創設に使用された幼児の遺体が発見された。
古代中国の人柱としては、石峁遺跡、陶寺遺跡から建築物の基礎の安寧のために捧げられたと思われる人骨が出土しており紀元前3000年~2500年頃に黄河流域で明確になってきたように思う。魯班の提唱は、それまである程度慣習化していたものを明確にしたものなのではないだろうか。 これらは大規模建築物を神格化したものに捧げた生贄と思われ、後の時代の饕餮紋に蛇神が習合したような奇怪な神人の石刻が石峁遺跡の壁から発見されている。これは炎帝信仰の一形態で、木工技術の神である須佐之男の伝播と共に日本にも持ち込まれたのではないか、と思う。日本における須佐之男信仰と人柱の起源として興味深く感じる。
- ミャンマー
- 苗賽(မြို့စတေး。)
- 朝鮮半島の人柱
2017年5月16日、韓国文化財庁は、慶州市にある新羅の王宮遺跡の月城(Wolseong)の壁の下から、5世紀のものとされる2人分の骨格(人柱)を発見したと発表した。「伝承によると人柱は神々をなだめ、建築中の構造物が末永く立ち続けることを祈るためだったとされる」、とのことである[19][20]。
私的考察[編集]
建築物の安寧を求める「人柱」で発見されているうちで最古のものは、古代中国の石峁遺跡、陶寺遺跡であるように思う。石峁遺跡で顕著であるが、城壁そのものを神格化して、その安寧を願い生贄を捧げたものと思われる。この「城壁」という概念には完成物のみならず「完成させる建築技術」も含まれている。魯班に対する信仰にも、技術や技術者に対する神格化が認められる。人柱で「神々をなだめる」必要性があると考えられたのであれば、その「神」とは城壁そのものの神や、魯班のような技術を確立させた特許神に対してであっただろうと思われる。
とすれば、古代日本の人柱もこの文化の流れを組んでおり、人柱は工芸技術の神である須佐之男や五十猛神に捧げられたものといえるのではないだろうか。
日本の人柱は、伝説の域を出ないものを含めて、「猿」という地名がつくところに多いように思う。これはおそらく猿の神である猿田彦が「境界の神」であることと関連するように思う。猿田彦は、まず「道の神」であって、「塞の神」と言われる。道は境界の一種であって、道の向こう側とこちら側の境界でもあるし、自分の街と隣町をつなぐ境界でもある。黄泉平坂のように、現世界と冥界を繋ぐ坂道があるとすれば、猿田彦は「現世界と冥界を繋ぐ坂道」の神でもある。猿田彦自身も「死んだ神」であって黄泉平坂を通ったことがあるはずなので、新たにそこを通らねばならない人の道案内ができるはずである。
川も一種の「境界」である。特に現世界と冥界の間にあるとされる「三途の川」があれば、これも「境界」であるし、猿田彦はそこも渡ったことがあるはずである。よって、その渡り方も心得ているはずである。猿田彦は「三途の川」という境界を心得ている神であり、現実の川も向こう岸とこちらの岸の境界であるのだから、現実の川の渡り方も心得ているはずである。だから、猿田彦は川の神、川を支配する神なのである。
同様の理由で山も一種の「境界」なので、猿田彦は山の神、山を支配する神となる。猿が山に住んでいるから「山の神」なのではない。山は自分の村と隣の村、自分の集落と隣の集落、そういったものとの「境界」だから、猿田彦は「山の神」なのである。
家には「壁」というものがある。「壁」は家の内と外を分ける「境界」である。だから猿田彦は壁の神、家の神、家を支配する神でもある。
土地にも当然「境界」がある。「境界」があるからこそ、自分の土地と隣人の土地の区別がつく。橋というものも「境界」なので、猿田彦は橋の神であり、橋も支配する。
こういう具合に猿田彦はあらゆる「境界」を支配する神とされているように思う。
一方、日本には猿神に生贄を捧げるという伝承が各地にある。この猿神は普通の猿ではなく、人を料理して食べる猿神である。この猿神が猿田彦と同じものである、とは言われないが、「異なるものである」という根拠もないように思う。彼らは主に山に住んでいる、というイメージがある。それは今昔の猿神退治が飛騨の隠れ里で行われているため、山奥の隠れ里を思わせるからかもしれないし、猿は山に住むものであることも重ね合わされていよう。しかし、何故人は猿神に生贄を捧げなければいけないのだろうか。猿神が「境界神」であれば、「境界」の安寧のために人は生贄を捧げなければならない、とされていたのではないだろうか。
家の壁を建てるための生贄、橋を作るための生贄、山を鎮めるための生贄、川を鎮めるための生贄、である。これらを人は「人柱」と呼ぶ。
延暦寺の地主神である日吉神などの太陽神の使者は猿とされている。これを神猿(まさる)と呼ぶ。
参考文献[編集]
- 南方熊楠, 1971-01, 南方閑話・南方随筆他, 南方熊楠全集, 第2巻, 平凡社, isbn:978-4-5824-2902-2
- 人柱、wikijp(最終閲覧日:22-09-11)
関連資料[編集]
- 山田仁史「人身供犠は供犠なのか?」『ビオストーリー』23号: 32−39頁、2015年6月。
関連項目[編集]
注釈[編集]
私的注釈[編集]
参照[編集]
- ↑ 南方熊楠, 南方熊楠, 1926-03-20, 南方閑話, 坂本書店出版部
- ↑ 『南方熊楠全集 第2巻 南方閑話・南方随筆他』 平凡社
- ↑ 高木敏雄, 高木敏雄, 1925-05-20, 日本神話伝説の研究, 岡書院, ASIN:B000JB8ZWA, 人柱――埋められた人間の霊魂の作用で、工事が堅固になるという思想らしい, page530
- ↑ 東京人類学会雑誌 第194号 「人柱に関する研究」 1902年(明治35年)5月20日、303-307頁。
- ↑ 地すべりと人柱伝説 , http://www.pwri.go.jp/team/niigata/column.html , 独立行政法人 土木研究所 土砂管理研究グループ 雪崩・地すべり研究センター , 2012-10-14
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- ↑ 人柱、wikijpより。
- ↑ 韓国で行われた「人柱」の初証拠、新羅時代の遺跡で人骨発見 AFP(2017年5月16日)2017年5月16日閲覧
- ↑ 月城は元々瓠公の屋敷と言われていた。