大渓文化

提供: Bellis Wiki3
ナビゲーションに移動 検索に移動
大渓文化の範囲
石斧か?[1]
良渚文化の玉鉞王。『「玉鉞王」と称される玉鉞の上に、精緻な神の紋章図案が彫られているのがはっきりと見える(反山12号墓出土)(杭州良渚遺跡管理局提供)』とのこと。[2]

大渓文化(だいけいぶんか、紀元前5000年頃 - 紀元前3000年頃)は、中国重慶市、湖北省から湖南省の三峡周辺、両湖平原にかけて存在した新石器時代の文化。標式遺跡である重慶市巫山県瞿塘峡で発見された大渓遺跡から命名された。大渓文化は同地域で発展した城背渓文化から発展し、屈家嶺文化へと継承されたと考えられている。その他の代表的な遺跡には、湖南省常徳市澧県の城頭山遺跡がある。

大渓文化と中期以降の仰韶文化とは接触し、相互に影響を与えた。2つの文化はいずれも紅陶を主とし、盆・鉢・口すぼまりの甕・小口長頸罐など、形態の近似するものがある[3]

概要[編集]

大渓遺跡は1920年代にアメリカの考古学者ネルス・C・ネルソン(Nels C. Nelson)が土器片などを発見し、1959年以降数度にわたって大規模な発掘がなされ、1970年代以降独自の新石器文化として「大渓文化」と呼称されるようになった。大渓遺跡を含む大渓文化の主要な遺跡は三峡ダム建設による水没などで失われている。

大渓遺跡からは焼成温度の比較的低い陶器である紅陶が多く出土し、そのほか皿や円筒形の壷なども発見されている。また稲の栽培も大規模に行われ、竹編みの泥壁のある家屋や、環濠集落なども発見されている。

大渓文化は、長江下流のデルタ地帯との文化の交流があったことがわかっている。白い皿などの遺物は、太湖周辺の馬家浜文化の遺跡からも発見された。逆に、大渓文化の遺跡から発見されたヒスイの玉といった遺物は、馬家浜文化の影響を受けた可能性がある。

「大渓文化」の遺跡人骨から検出されたY染色体ハプログループは、現在は中国南部から東南アジア北部の山岳地帯に分布する「モン・ミエン語族(ミャオ・ヤオ語族)」の民族に多い「O2a2a1a2 M7(旧O3系)」が主体(5/7)で、「O2* F742 (旧O3*系)」と「O1b1a1a M95(旧O2a系)」がそれぞれその一部(1/7)であった。 「大渓文化」は「屈家嶺文化」へ継承された。

大渓文化の遺骨からモン・ミエン語族に関連するY染色体ハプログループO-M7が高頻度で発見されており、モン・ミエン系民族が担い手であったと考えられる[4]

「O2a2a1a2 M7(旧O3系)」のハプログループは日本人にもわずかに存在する(4.2%以下)。

民俗学的私的解説[編集]

良渚文化、玉鉞王との比較[編集]

大渓文化よりも後の時代の良渚文化(紀元前3500年ころから紀元前2200年ころ)では、王権が発生しており、王権すなわち『王権、軍権を握り、かつ神の化身となって、政教合一の代表となることができる[5]』ために、神霊の刻まれた玉鉞が作られたとのことである。『この模様は、最初のうちは中原地区でよく見られる饕餮(伝説中の何でも食べる怪獣)紋、獣面紋だと思われていた』とのことだ。

大渓文化の石器の人面(あるいは神面)は玉鉞王の神面と同様、首だけで現されている。そして、上部にもう一人の鳥神の紋はついていない。そして、髪の毛がないことから、これも弁髪なのではないか、と個人的には思う。弁髪の神が登場する点は城背渓文化を受け継いでいるが、首のみで現される神に変化し、武器(軍事力)に関する何らかの社会的地位(王権や首長の権利)の象徴と明確にされた点は、良渚文化に引き継がれたのではないだろうか。梅原、安田の説によると、大渓文化で、王というものが登場したのではないか、とのことである[6]

大渓文化の担い手は、Y染色体ハプログループから、ミャオ族と考えられている。中国のミャオ族には祖先を蚩尤とする言説があるそうである。タイのミャオ族の精霊信仰では、精霊は基本的にダー (Dab) と呼ばれるが、さまざまな種類と呼び名がある、とのことである。「陰界の精霊」として

陰界にはツォー・ニュン (Ntxwj Nyug) と呼ばれるあの世を統括する精霊がおり、死者の魂を審判し、転生の先を決めるとされている。さらにニュー・ヴァー・トゥアム・テーム (Nyuj Vaj Tuam Teem) がその仕事を補佐しており、魂の年齢を管理している。シャーマンの守護精霊 (Siv Yis) もここに住むといわれる。

という伝承があるそうである。一方中国では、「饕餮は黄帝によって討たれた蚩尤の首をあらわしている。」という説もある。饕餮紋は後の中原でも王権に関わる紋とされた。

すなわち、殺された蚩尤が冥界で饕餮となって、冥界神の仕事を補佐している。死後、そうなったように蚩尤は生前偉大な王だったので、その子孫は偉大な王である、ということの象徴が、首だけになって死んでいる獣面紋の意味なのではないだろうか。良渚文化の獣面紋は「原始饕餮紋」と言い得るもので、ギリシア神話のラダマンテュス(これも名前の中にTの子音が2個重なる神人である)と類似したものだったと考える。


城背渓文化では、生きた蚩尤(王の象徴)が太陽神を支えて補佐するとされた。大渓文化以降は何代目かの蚩尤(すなわち饕餮)が黄帝に殺されたので、饕餮が冥界神(太陽神?、後の天帝か)を支えて補佐するとされたのではないだろうか。大渓文化では、単なる精霊信仰が存在しただけでなく、後の殷代以降の先祖崇拝、鬼崇拝に通じる思想の萌芽が始まったとみるべきではないだろうか。そして、このように考えると、伝説の「黄帝と蚩尤の戦い」に相当する古代中国の部族闘争は、紀元前5000年頃に行われた、と考えられるし、蚩尤が敗北したにも関わらず、その子孫は一定の王権を維持していたとも言えると考える。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

参照[編集]

  1. 大渓文化、考古用語事典
  2. 良渚(上) 玉器文化の宝庫、長江文明を訪ねて、丘桓興=文 劉世昭=写真、人民中国
  3. 大渓文化、考古用語事典
  4. Li, Hui; Huang, Ying; Mustavich, Laura F.; Zhang, Fan; Tan, Jing-Ze; Ling-; Wang, E; Qian, Ji; Gao, Meng-He; Jin, Li (2007). "Y chromosomes of prehistoric people along the Yangtze River". Human Genetics 122 (3-4): 383–388. doi:10.1007/s00439-007-0407-2. PMID 17657509.
  5. 良渚(上) 玉器文化の宝庫、長江文明を訪ねて、丘桓興=文 劉世昭=写真、人民中国
  6. 長江文明の探求、梅原猛、安田喜憲共著、新思索社、p110-111