年神
年神(としがみ、歳神とも)、大年神(おおとしのかみ)は、日本神話、神道の神である。
大年神[編集]
日本神話では、『古事記』において須佐之男命と神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた大年神(おおとしのかみ)としている。両神の間の子にはほかに宇迦之御魂神がおり、これも穀物神である。また、大年神と香用比売(カグヨヒメ)の間の子に御年神(みとしのかみ、おとしのかみ)、孫に若年神(わかとしのかみ)がおり、同様の神格の神とされる。孫に久久年神(くくとしのかみ)もいる。
『日本書紀』には年神は現れない。『日本書紀』は天皇の即位年を太歳の干支で示すが、太歳は中国で考えられた架空の天体であって年神とは異なる。
系譜[編集]
大年神は他に多くの神の父及び祖父とされる[1]。
- 伊怒比売(いのひめ、神活須毘神(かむいくすび)の娘)との間の子
- 天知迦流美豆比売(あめちかるみづひめ)との間の子
- 羽山戸神と大気都比売神との間の子
古語拾遺における記載[編集]
『古事記』には系譜以外の事績の記述がないが、『古語拾遺』には、大地主神(おおとこぬしのかみ)の田の苗が御年神の祟りで枯れそうになったので、大地主神が白馬・白猪などを供えて御年神を祀ると苗は再び茂ったという説話がある[私注 2]。
来訪神[編集]
毎年正月に各家にやってくる来訪神である。地方によってはお歳徳(とんど)さん、正月様、恵方神、大年神(大歳神)、年殿、トシドン、年爺さん、若年さんなどとも呼ばれる。
現在でも残る正月の飾り物は、元々年神を迎えるためのものである。門松は年神が来訪するための依代であり、鏡餅は年神への供え物であった[5][私注 3]。各家で年神棚・恵方棚などと呼ばれる棚を作り、そこに年神への供え物を供えた。
トシドンは鹿児島県薩摩川内市の下甑島に伝わる年神である[6]。
また陰陽家では、娑伽羅竜王(しゃがらりゅうおう)の娘、女神・頗梨采女(はりさいじょ)のことを年神といい、元旦に来訪する神霊という。のちに、これに先祖霊が加えられ、習合した[5][私注 4]。
穀物神[編集]
「年」は稲の実りのことで、穀物神である。本居宣長は「登志とは穀のことなり、其は神の御霊以て、田に成して、天皇に寄奉賜ふゆえに云り、田より寄すと云こころにて、穀を登志とはいうなり」と述べ、穀物、農耕神であるとした。
信仰の根底にあるのは、穀物の死と再生である。古代日本で農耕が発達するにつれて、年の始めにその年の豊作が祈念されるようになり、それが年神を祀る行事となって正月の中心行事となっていった。
祖霊[編集]
また一方で、年神は家を守ってくれる祖先の霊、祖霊として祀られている地方もある。農作を守護する神と家を守護する祖霊が同一視されたため、また、田の神も祖霊も山から降りてくるとされていたため(山の神も参照)である。
柳田國男は、一年を守護する神、農作を守護する田の神、家を守護する祖霊の3つを一つの神として信仰した素朴な民間神が年神であるとしている[私注 5]。
年徳神[編集]
中世ごろから、都市部で「年神(歳神)」は「年徳神(歳徳神)」と呼ばれるようになった。徳は得に通じ縁起が良いとされたためである。方位学にも取り入れられ、歳徳神のいる方角は「恵方」と言って縁起の良い方角とされた。
暦には女神の姿をした歳徳神が描かれているが、神話に出てくる大年神は男神であり、翁の姿をしているともされる。元々民間信仰の神であり、その姿は様々に考えられていたということである。
正月の支度をしていると翁と出会い、待ち合わせをしていた童と交代で帰って行くのを見届ける為に数日が過ぎ、すっかり年が明けてしまったと思っていたら時間は経過しておらず、童が今年の年神である事に気付くという伝承がある[私注 6]。
祀る神社[編集]
- 葛木御歳神社 (奈良県御所市、全国にある御歳神社・大歳神社の総本社)
- 向日神社 (京都府向日市)
- 大歳神社 (京都府京都市西京区)
- 大歳御祖神社(静岡県静岡市葵区)
- 飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市)
- 朝熊神社 (三重県伊勢市)
等全国に多数。 また、特に西日本では田の畔の祠などに大歳神社・大歳様として多く祀られている。
大和神社(おおやまとじんじゃ)右殿でも、中殿に日本大国魂大神、左殿に八千戈大神、右殿に御年大神を祀る。ただし、日本大国魂大神(倭大国魂神)以外の祭神については文献によって諸説あり、『神社要録』では左殿を須沼比神。『社家説』『元要記』では左殿を三輪大明神(大物主)・右殿を天照大御神。『元要記一説』では右殿を稲倉魂神(ウカノミタマ)としている。
私的解説[編集]
年神の子神の内に、大山咋神といった秦氏系の神がいることから、この神の存在意義の一つは須佐之男命と渡来系氏族、特に秦氏系を接続することにあるように思う。また、子神の中に「日の神」がいることから、場合によっては天照大御神の地位を低下させると共に、須佐之男命を男性系の太陽神へと関連づけて炎帝的な神へと昇格させる布石のための神、ともいえるかもしれないと思う。(あるいは須佐之男命が男性形の太陽神であることの暗喩ともいえようか。)また、子神に大香山戸臣神(おほかぐやまとみ)という名の神がおり、天香山命と名前が類似している。すなわち、天香山命の子孫である尾張氏、物部氏を須佐之男命の子孫へと接続するための神、ともいえると考える。また屋敷や田(稲作)に関する職能を須佐之男命が独占するための神、ともいえると考える。
年神が毎年若返る、とされている点は、樹木神であり月神(月に生えている樹木の神)である須佐之男命が、「不老不死の薬」の持ち主でもあることを暗示させる。彼は不老不死の薬によって「1年」が死すべき年末になっても「若い神」として再生できるのである。須佐之男命が牛の神である牛頭天王と「同じもの」であるとして、その妻で龍王の娘である頗梨采女には河伯の娘である柳花夫人の姿が投影されているように思う。柳花夫人は逃走女神で、その名前は嫦娥の別名である、ともいえる。頗梨采女が年神と考えられた理由は、彼女もまた嫦娥であって、「不老不死の薬」の所有者であり、若返りを繰り返す神である、と考えられたからではないだろうか。日本神話で顕著な
竜神の娘神が嫦娥的な女神で若返りを伴う「不老不死の薬」を持つ。
という思想は竜神の娘の乙姫の寵愛を失った浦島太郎が、急激に若さを失って年をとったのと対をなすものであると思う。
関連項目[編集]
私的注釈[編集]
- ↑ 猿神と関連する神である。
- ↑ 動物の生贄を求める神であったことが分かる。
- ↑ 年神とはアッティスのような植物神と考えられていたことが分かる。
- ↑ 頗梨采女とは牛頭天王の妻である。牛頭天王を炎帝型神として、天界から追放される須佐之男命と同一のものであるとすると、妻の頗梨采女は嫦娥的な女神となる。彼女の父親が龍神である、という点は、河伯の娘とされている高句麗の朱蒙の母・柳花夫人を思わせる。彼女が年神とされるのは、嫦娥が「不老不死の薬」の所有者であって、「年」を毎年若返らせることができる、と考えられたからではないだろうか
- ↑ これはどうなのだろうか。管理人にはかなり人為的な神のように思えるが。
- ↑ 年神とは年をまたいで若返るもののようである。
参照[編集]
- ↑ 以下、古事記岩波文庫、第30版,1980年、54-55頁「大年神の神裔」より。
- ↑ 上田正昭「神楽の命脈」(『日本の古典芸能』 第一巻「神楽」、平凡社、1968年)。国安洋, 平安時代の「遊び」:「古今和歌集」をめぐって , https://hdl.handle.net/10131/2535, 横浜国立大学人文紀要 第一類 哲学・社会科学, ISSN:05135621, 横浜国立大学, 1989-10, volume35, pages129-140, naid:110005858371
- ↑ 西田長男, 曽富理神:古事記の成立をめぐる疑惑, 宗教研究, ISSN:03873293, 日本宗教学会, 1965-06, volume39, issue1, pages1-40, naid:40001721878, http://jpars.org/journal/database/wp-content/uploads/2017/12/184.pdf
- ↑ 上田正昭「神楽の命脈」(『日本の古典芸能』 第一巻「神楽」、平凡社、1968年)。蘇志摩利参照。
- ↑ 5.0 5.1 三井寺「いのりの原景」
- ↑ 村上健司編著, 妖怪事典, 2000, 毎日新聞社, isbn:978-4-620-31428-0, page240