五十猛神
五十猛神(イソタケル)は、日本神話に登場する神[1]。イザナギ・イザナミの子であるスサノオの子で、オオヤツヒメ・ツマツヒメ(大屋津姫命、枛津姫命)は妹[1]。また、イザナギ・イザナミの子大屋毘古神(「災禍の神」である禍津日神と同一神とされる)とは別神であるが、同一神とされこともある。射楯神(いたてのかみ)とも呼ばれる[2]。
名[編集]
「イタケル」とも読まれる[3]。読み方は神社により異なり統一されていない[4]が、五十猛の上陸伝承のある石見国五十猛村(現在の島根県大田市五十猛町)が好字二字令により726年(神亀3年)に改称された際には「磯竹」の字が当てられており[5]、古来イソ音であったことが示唆されている。
神格[編集]
「木の神」ということから林業の神として信仰されている(『日本書紀』、『先代旧事本紀』)[1]。紀伊は古来林業の盛んな地であったので、それらの人々が信仰していた神と考えられる。飛騨高山市丹生川地区でも同様に祀られていた、とされている。
また、土の船を作り海を渡ったことから、造船、航海安全、大漁の神として信仰され、商売繁盛、開運招福、悪疫退散、厄除け等の神徳もある[2]。
紀伊国(かつては「木の国」と言った)に祀られているとの記述と『先代旧事本紀』分注に「亦云 大屋彦神」とあることから、『古事記』で大穴牟遅神(オオナムジ、後の大国主)がその元に逃げ込んだ木国の大屋毘古神と同一神とされる[1]。
子孫[編集]
- 辛嶋氏 - 豊国の氏族。当初は香春岳山麓に住み、その後大貞薦神社(現在の中津市)で神官もしくは巫女を務めていたとされている。大神比義命とともに宇佐神宮の前身の社を建立した。
文献[編集]
『日本書紀』『先代旧事本紀』に登場する。『古事記』に登場する大屋毘古神(オホヤビコ)と同一神とされる[1]。
日本書紀[編集]
『日本書紀』 卷第一[6] で『ヤマタノオロチ退治が述べられている第八段第四の一書において
一書曰 素戔嗚尊所行無状 故諸神 科以千座置戸 而遂逐之 是時 素戔嗚尊 帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處 乃興言曰 此地吾不欲居 遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯 時彼處有呑人大蛇 素戔嗚尊 乃以天蠅斫之劔 斬彼大蛇 時斬蛇尾而刃缺 即擘而視之 尾中有一神劔 素戔嗚尊曰 此不可以吾私用也 乃遺五世孫天之葺根神 上奉於天 此今所謂草薙劔矣 初五十猛神 天降之時 多將樹種而下 然不殖韓地、盡以持歸 遂始自筑紫 凡大八洲國之内、莫不播殖而成青山焉 所以 稱五十猛命 爲有功之神 即紀伊國所坐大神是也
とあり天(『古事記』では高天原)を追放された素戔嗚尊とともに新羅曽尸茂梨に天降り[1]、スサノオがこの地吾居ること欲さず(「乃興言曰 此地吾不欲居」)と言ったので、一緒に埴土船で渡って[2]出雲斐伊川上の鳥上峯に至ったとある。五十猛神が天降る際に多くの樹木の種を持っていたが、新羅には植えずに全てを持ってきて、九州からはじめて大八洲国に植えたので、青山に被われる国となったという[1]。
同段の第五の一書では、
一書曰 素戔嗚尊曰 韓郷之嶋 是有金銀 若使吾兒所御之國 不有浮寶者 未是佳也 乃拔鬚髯散之 即成杉 又拔散胸毛 是成檜 尻毛是成柀 眉毛是成櫲樟 已而定其當用 乃稱之曰 杉及櫲樟 此兩樹者 可以爲浮寶 檜可以爲瑞宮之材 柀可以爲顯見蒼生奥津棄戸將臥之具 夫須噉八十木種 皆能播生 于時 素戔嗚尊之子 號曰五十猛命 妹大屋津姫命 次枛津姫命 凡此三神 亦能分布木種 即奉渡於紀伊國也 然後 素戔嗚尊 居熊成峯 而遂入於根國者矣棄戸 此云須多杯 柀 此云磨紀
とあり素戔嗚尊が鬚髯から杉、胸毛から檜、尻毛から槇と榧、眉毛から楠など体毛を抜いて作った各種の樹木を、二柱の妹神(大屋津姫命と枛津姫命)とともに全国に植えたとある[1]。
檜は「日の木」、あるいは神宮の用材に用いられることから「霊の木」のいずれかが語源と考えられるとしている[7]。このことと、斐伊川に降臨した、という伝承から、須佐之男を「日の神」として示そうと試みた片鱗が感じられる気がする。また五十猛命のみでなく、須佐之男も「木の神」であったことが示唆される。須佐之男が木そのものの、いわゆる「木祖」、五十猛命が「木の種」ともいえるのではないだろうか(管理人)。
どちらの一書でも、今は紀伊に祀られているとしている[1]。
なお出雲の伝説ではスサノオらの上陸地点は出雲国に近い石見国・五十猛の海岸であるといわれ、ここから出雲国へと向かったとされている。
先代旧事本紀[編集]
日本紀講筵の際提出された偽書とされる『先代旧事本紀』巻第四 地祇本紀[8]の記述は以下のとおり。
素戔烏尊率其子 五十猛神 降到於新羅曾尸茂梨之處矣 曾尸茂梨之處 纂疏新羅之地名也 按倭名鈔高麗樂曲有蘇志摩利 疑其地風俗之歌曲乎 乃興言曰 此地吾不欲居 遂以埴土作船 乘之東渡 到于出雲國簸之河上與安藝國可愛之河上所在鳥上峰矣(ヤマタノオロチ退治省略)素戔烏尊居熊成峰而遂入於根國矣 兒 五十猛神天降之時 多將八十樹種須噉子樹種而不殖韓地 盡以持歸 遂始自筑紫 於大八洲之内 莫不殖播而成青山矣 所謂五十猛命 為有功之神 則紀伊國所坐大神是也 一説曰 素戔烏尊之子 號曰 五十猛命 妹 大屋姫命 次 抓津姫命 凡三神 亦能分布八十木種 則奉渡於紀伊國 及此國所祭之神是也
素戔烏尊 此尊與天照太神共誓約(中略)次 五十猛命 亦云 大屋彦神 次 大屋姫神 次 抓津姫神 已上三柱 並坐 紀伊國 則紀伊國造齋祠神也
主に五十猛神を祀る神社[編集]
- 伊太祁󠄀曽神社:紀州(和田川のほとりにある)、飛騨丹生川(乗鞍信仰の神でもある。小八賀川(古代に丹生川と呼ばれていた)のほとりにある)
- 安達(あだち)神社(かつては裾花川のほとりにあった)、名立(なたて)神社:長野県長野市:神社名は「いたて」からつけたものか。千曲側のほとりにある。
- 伊達神社:各地
- 杉山神社:神奈川県鶴見川水系
等
私的考察[編集]
長野県の五十猛神を祀る神社の名前には「安達(あだち)」、「名立(なたて)」というものがあるので、「あ」、「な」、「い(そ)」という言葉は接頭語であって互いに入れ替わることがあるものだと考える。伊達(だて)神社は、その接頭語が失われたものといえる。よって、五十猛神の名も「五十(いそ)」+「たける(たて)」と分けるべきで、接頭語のない名前は「たける(たて)」であると思う。これは「木が立っているさま」を示した言葉ではないだろうか。そう考えると「伊太祁󠄀曽(いたきそ)」は「いたて(五十猛神)」+「祁󠄀曽(木祖の意か?)」となり、「木の祖先であるいたて」という意味で、木の神としての五十猛神を強調した名前なのではないか。
「たける(たて)」という名は、「伊達」や「安達」のように、「た」音を濁点として読むことが可能とされている。
五十猛神を祀った神社は川のほとりにあることが多く、五十猛神には水神としての性質が含まれていると考える。
島根県には楯井神社という神社がある。長野県には武井神社といった神社がある。いずれも祭神は五十猛神ではないが、「たける(たて)」+井という組み合わせは、五十猛神の水神としての性質を強調したものとは言えないだろうか。五十猛神と述べた場合、それはどの種類の木のことを指すのか明確ではない。長野県には槻井泉神を祀る「槻井泉神社」が数カ所(長野市、松本市等)に存在し、こちらは「樹木の種類が特定された樹木神+井(水神)」の組み合わせといえる。樹木神に水神の性質も持たせることが多いのではないだろうか。
日本には古来より、大規模建築物を建てる際に「人柱」として生贄を捧げる風習があった。これは「建築の神」や「樹木(柱)の神」である五十猛神やその父須佐之男に捧げたものと思われる。
参考文献[編集]
関連項目[編集]
参照[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 薗田稔、茂木栄 『日本の神々の事典 神道祭祀と八百万の神々』 学研、168,169頁。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 戸部民夫 『八百万の神々 日本の神霊たちのプロフィール』 新紀元社、156,158頁。
- ↑ 川口謙二『日本の神様読み解き事典』柏書房1999年、64頁。
- ↑ 伊太祁曽神社は御由緒でイソタケルは誤りでイタケルだと明記している一方、島根の五十猛神社などではイソタケルとしている。
- ↑ 『ふるさと読本』西部ブロック推進協議会(2005)
- ↑ 日本書紀 卷第一 神代一
- ↑ http://gogen-allguide.com/hi/hinoki.html , ヒノキ/檜/桧/ひのき , 語源由来事典 , ルックバイス , 2022-02-02
- ↑ 先代舊事本紀卷第四 地祇本紀