八丁島天満宮

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八丁島天満宮(はっちょうじまてんまんぐう)は、福岡県久留米市宮ノ陣町八丁島の神社。八丁島天満神社ともいう。近くに祭祀を行う「天神堀」がある。現在の主祭神:菅原道真。

八丁島の御供納[編集]

八丁島の御供納(ごくおさめ)は秋の収穫を喜ぶ「新嘗祭」の行事と、「おかねの恩返し(江戸時代)」などの伝説に由来する「人身御供」の行事が一緒になったもといわれている。

前日に、10歳までの男の子によるお潮井汲みのあと、町内を掛け声をかけて歩き、筑後川で禊ぎを行う。

当日、天神掘にて、東北の隅にある玉太郎・竜宮姫を祭った石の祠前で祈念の祭典を行い、堀に用意された川舟にヤカゴを船に積み、神職・子ども達が乗り込む。神職が祝詞を唱えながら、穏やかに右回りに3回楠の周りを巡り、池巡りが終わりに近づく頃、神職の「エイッ」という掛け声とともに、御供(玄米三升三合)などが池に沈められる。同時に、対岸から中の島の楠を目がけて矢を放つ、矢放し行事(伝統大蛇殺害)が行われる[1]

祭祀の由緒[編集]

おかねの恩返し[編集]

昔、八丁島に爺さんと婆さんが暮らしていた。ある日、旅の若者が夕立にあい、一晩泊めちくれるよう頼んだ。貧乏な老夫婦は人が良かったので、たいした世話はできないが泊めることにした。

夕飯時に、裏口から美しい娘が入ってきて晩のおかずの魚の煮付けを婆さんに渡した。若者は娘に一目惚れしてしまった。娘は「おかね」という名で一人者だということだった。老夫婦が二人に結婚を勧め、若者と娘は結婚することにした。

おかねの小屋で二人は仲良く暮らし、一年後に男の子が生まれた。子供が産まれたが、不思議なことにおかねは毎晩外に出かけていく習慣があり、それを止めなかった。不思議に思った夫がある晩後をつけると、妻は蛇の姿に変身して、とある池の中に入っていった。夫はびっくりして家に帰り、妻が帰ってくるのを待った。妻が戻ってくると、夫は「蛇になった姿を見たが、どういうことになっているのか。」と尋ねた。

おかねは泣きながら「私はあの池の大蛇ですが、小さいときに親の言いつけを守らず、人間の世界を見ようと思って池から這い出ていたところ、子供達につかまって殺されるところでした。その時、あなたが通りかかって助けてくれたので、恩返しをしようと思って娘の姿になってあの村に住み着き、あなたに会うために待っていたのです。お会いすると、あなたがあまりにも優しいので、夫婦になってしまいました。でも、あの池の主である私は、一日一 回は必ず池に戻って勤めを果さねばなりません。本当の姿をあなたに見られたので、もう人間界に住むことはできません。今夜でお別れです。」と言った。夫は思いとどまるように説得したが、妻は泣くばかりで聞き入れなかった。

日が暮れると、妻はきれいな玉を夫に渡して「もし赤ん坊が泣くときはこの玉をしゃぶらせてください。」と言って、泣く泣く池に帰っていった。

妻が言ったようにすると、乳もないのに子供はすくすくと育った。子供が二さいになったときに、不思議に思った村の者が玉をだまして取り上げてしまった。それから子供は火のついたように大泣きして、どんなにあやしても泣き止まなかった。夫は困って、その晩子供を抱いて池に行った。妻は蛇の姿で現れ「どうしてそんなに子供を泣かすのですか。」と夫に尋ねた。夫は村の者に玉を取られた話を聞かせた。蛇は悲しんで「あの玉は実は私の目玉です。もう一つ目玉はありますが、盲になったらもう龍になることはできません。子が泣いていて可哀そうですが、私にはもうどうすることも出来ません。」と言い、泣いて水に沈んでしまった。

夫はそれを聞いて、「生きていてなんの楽しみがあろうか。それより夫婦で揃って池の中で子を育てたほうが良い。」と思って、子供を抱いて身投げしてしまった。

それから村では不幸なことが続いて、大水が出たり、その次の年は干照りが続いたりで、とても大変だった。悪い病気が流行るし、火事で家が焼けたり、子供が夏になって五人も十人も溺れて死ぬ。村では、不幸の原因を探ろうと、祈祷師を頼んで祈ってもらったたところ、「五年前から池の主の崇りが起きている。毎年十一月廿日に十才になる男の子を一人ずつ池の主に人身御供にすれば、その次の年は無事であろう。」というお告げが出た。

それからは、むごいことに一年に一人ずつ男の子を人身御供で池に沈めたが、あまりにもむごいため、ちょうど通りかかった全国行脚の坊さんに相談した。坊さんは「米三石三斗を人身御供の変りに池に供えれは良いであろう」と教えて立ち去った。坊さんの言われた通りに米をお供えしたところ、次の年は無事息災、五穀豊穣だったので、次の年から米を捧げるようになった[2]

菊姫物語[編集]

今から四百年くらい前に八丁島に古賀の館(ヤカタ)と言うお城があった。この殿様に可愛らしい一人娘がいた。天女のように美しかったので、どこの殿様からも嫁に欲しいとの申込があったが、同じ一族の高橋という家に嫁に行くことに決まった。

ところが嫁入の日も近くなった春に、秋月の殿様が是非嫁にくれ、くれないのなら考えがある、という無理な申し入れがあった。そう言われても、もう決ったことなので、古賀の殿様な、はっきりと事情を説明して断わった。

秋月の殿様は断わられた腹いせに薩摩の島津と組んで、七月古賀の館に戦を仕掛けて来た。殿様は娘を高橋家にやるという約束を果してから戦争しようと思い、早く高橋家に行け、と娘に言ったが娘は自分が居るばかりに戦になった、自分がいなかったら戦争にはなるまい、と思い自殺してしまった。殿様は娘の健気な気持に涙しながら、高橋家にせめて首だけでも輿入させよう、と家来の掃部介に娘の首を届けるよう命じた。

掃部介は秋月方の囲ばなんとか抜けて高橋家まで馬で走ったが、途中で高橋の館も秋月、島津に攻められ落ちたと言う報せを聞いて、古賀の館に戻った。すると、古賀の館も火炎に包まれており、殿様も家来も多勢に無勢で討死したようだった。掃部介は、姫の首ば八丁島の池に静かに沈めかくして、「もうこれまでだ。いさぎよく斬死にしよう。」と馬を館の方に走らせ、勝ちどき上げる敵の中に斬込んで行って、深傷を負っても猶戦い、力尽きると近くの池に馬を乗り入れて、敵が見守るなかで見事切腹して死んでしまった。

その後、娘の首を沈めた八丁島に娘の怨霊が大蛇になって住つき、大水、旱魃、流行病 、家畜にも災いして皆、困ってしまった。村を通りかゝった六部にこのわけを聞いてみると毎年十才迄の男の子を池の大蛇に人身御供すれば災難が消えるだろうと教えてくれた。

それから毎年十二月十五日に可哀想だが男の子を一人人身御供にすることになった。あまりにむごいので、六部に相談してみると、米三石三斗で人身御供の代りにせよと言ったので、それからは米三石三斗をお供えすることとなった。米三石三斗を三斗三升にへらし、しまいには三升三合に減らして祭ることとなった[3]

殿様と忠臣(カンシャク持ち殿さん)[編集]

昔、八丁島に筑後川から水を引いて外堀を造ったお城があった。この城の殿は、かんしゃく持ちで気に入らないと家来を殺すし、無茶な税金を取り上げるので百姓からも嫌われていた。

殿様でもあんまりだと思い忠義な家来がある時殿様に忠告をしたら、無礼者ということで殿様は切腹を命じて殺してしまった。そのうえ、以後の見せしめということで外堀にある八丁島に家来の死体を埋めてしまった。殺された武士は、あまりの無法ぶりを怨んで大蛇になって領内に崇り、大水やら干照りをお越し、更に、人を喰い殺したり水に引き込んだりして災いを起こすようになった。

殿様は幽霊などどうということはないと思って始めは馬鹿にしていたが、不作不幸があまりに続くので、家来を大蛇退治に差し向けたところ、家来達は逆に喰い殺されてしまった。それだけでなく、夢で城内を荒すと知らせて来たので、恐しくなって、毎日毎日村の者を一人ずつ、大蛇退治の名目で人身御供に差し出した。

その後、災難が減って来たんので、年に一遍男と女を一人ずつ人身御供にした 。これもずっと昔に止めて、今は御供納めとして米三石三斗にし、更に三斗三升に少なくし、もっと減らして三升三合にして、やっと人身御供の形だけ残すこととなった[4]

神事[編集]

  • 10月第1土曜日 御願成就祭

私的考察[編集]

人身御供の話が3つあって、それを纏めて祭祀が一つ、というのは面白い発想だと思う。

伝承の起源は、古い順に「おかねの恩返し」、「殿様と忠臣」、「菊姫物語」だと考える。「菊姫物語」はかなり戦国の説話風になっているが「若い女性」が「結婚に関して」「非業の死を遂げる」というパターンが「おかねの恩返し」と同じなので、「おかねの恩返し」と「菊姫物語」の起源は同じと思う。「おかねの恩返し」の方が古いパターンの話で、朝鮮の「龍女」との類似性は明らかと考える。

  • 妻が夫の目を盗んで夜中に家を抜け出して龍蛇体になり、池でなにがしかをして過ごしている。
  • 本性を夫に見られることが禁忌であり、見られると去らなければならなくなる。
  • 子供になにがしかを形見に残していく。

という点が一致している。

「おかねの恩返し」と「龍女」[編集]

「おかねの恩返し」と「龍女」の最大の相違点は最後の部分である。「龍女」では主人公の龍女は失踪するが、残された子供はすくすくと育つ。一方「おかねの恩返し」は子供も夫も池に身を投げて死んでしまい「そして誰もいなくなった」状態になる。しかもその後いわゆる「祟り」があって、十歳の男の子が人身御供に求められるようになる。いわゆる一般的な「メリュジーヌ譚」では、妻は失踪しても、どちらかといえば子孫には守護女神的に作用するし、最古の形式譚といえる台湾のバルン神話でも、女神は祟ったりしていない。ただし、供養をしっかり行わなかった場合には祟るであろうことは彼女の文言からうかがえる(「バルン」より)。

一方「おかねの恩返し」も、それ以外の八丁島天満宮の伝承もそうだが、「十歳の男の子」がまるで指定されたかのように、最後に人身御供として要求される。その理由も定かではなく、いかにもその部分だけがあとから「とってつけた」ように思える。「おかねの恩返し」は朝鮮の龍女や、他の地域のメリュジーヌ譚と同様、元は特定の氏族の「祖神譚」だったと思われるが、最後に家族が全員死んでしまったことで、「祖神譚」から外されて「人身御供」の根拠へと話が振り返られてしまった話と考える。

先祖に該当する者が赤ん坊のうちに死んでしまったら、理論的には子孫はいないはずなので、これは特定の氏族の「意図的な先祖隠し」も兼ねたもの、といえる。祖神神話を書き換えて、別のところに先祖を求めることにしたのだろう。そして、更に「人身御供」を正当化する方向へも話を変えることにしたと思われる。ただ、特に王権などの身分や地位や物質的な財産の継承の根拠は「血筋」に求められることが古代においてもほとんどだったと思うので、軽率に先祖を書き換えてしまったら、先祖の権威によって得られたはずのものも得られなくなる、ということにもなりかねない。そのため、神話を書き換えたのは、書き換えても支障がないくらいに権力を有していたものが、なにがしかの目的をもって、敢えて書き換えた、のだとも言えるのではないかと思う。高良大社には、本来高良山に高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座いたところ、高良玉垂命がのっとってしまったという伝承があり、重要な神社の祭神が変えられてしまった出来事と、祖神神話の書き換えには関連性があるのではないか、と推察する[5]

菊姫物語[編集]

主人公の娘とその家族全員が「非業の死」を遂げて「そして誰もいなくなった」という状態になるのは「おかねの恩返し」と同じである。「おかねの恩返し」では、龍女自身は池の中に帰るだけで「死んだ」とはされていないが、菊姫物語では姫自身が自殺してしまう。その首をわざわざ切り落として完全に「死んだ」ことにしてしまっている点は、古代よりも時代が下った中世~戦国の説話の方が、話の内容が人道的になるどころか、陰惨さを増している。姫の夫は入水自殺しないが、かわりに家来の掃部介が入水している。「掃部」という言葉は「清掃する人」という意味もあると思うが、こちらがいわば「清い人」であって、無体に攻めてくる「秋月家」と「島津家」が「汚い人」という意味も暗にあるのではないか、と思う。菊姫は家を救うために自ら自害したので、この世にあまり未練はなさそうに見えるが、ともかく「非業の死を遂げたら怨霊」という中世らしい発想で祟り神になってしまう。彼女が何故「十歳の男の子」を人身御供に求めるのかも謎のままである。

秋月氏は実際に久留米にいた武家である。北九州には古賀という名前もみられ、何らかの歴史的事件を投影してもいる伝承かもしれないが、詳しくは不明である。

殿様と忠臣[編集]

こちらは前の2つとは違って、男女の一対を人身御供に求めた話。一口に「忠臣」といっても色々と種類があるのだが、「菊姫物語」の掃部介が主君に殉じた「忠臣」であるのとは対照的に、こちらは諫言が聞き入れられなくて逆に暴君に殺されてしまうタイプの「忠臣」である。殺された家来は、本来は「良い人」だったはずなのだが「非業の死を遂げたら怨霊」のパターンの通り、死ぬと祟り神になる。これは大国主命の神話とも関連がある。記紀神話の段階では、黄泉の国を訪問した大国主命は妻の須勢理姫を得て地上に帰還するが、疫神である須佐之男命の生大刀、生弓矢、天詔琴を譲り受け、須佐之男命の代理人として地上に君臨する。この段階では大国主命が祟り神になって暴れる、とまではされていない。

しかし、これが「大物主命」という名になると、崇神天皇の時代に天変地異や疫病の流行を起こしたとされ、大田田根子に自分を祀らせるように、と求める祟り神となる。結局大国主命は黄泉の国に行ったら、須佐之男命のような疫神になってしまっていることが分かる。この傾向は群馬県高崎市倉賀野町にある倉賀野神社の由緒譚である那波八郎で顕著である。那波八郎は生前は「良い人」だったが、兄たちに殺され、埋められて祟り神としての蛇神となって年に1回人身御供を求めるようになった。話の骨格は「殿様と忠臣」と同じである。また兄たちに妬まれて殺されていること、倉賀野神社の祭神が大国魂神であることから、那波八郎とは大国主命が変化したものであることが分かる。中世になって記紀神話を解読できるものがわずかになった結果、伝承だけが民間で一人歩きし、全国的に一致する形で独特の「祟り神神話」として確立したものと考える。群馬県ではそれが那波八郎になり、福岡県では「殿様と忠臣」になっている。だから、この場合の「忠臣」の起源の一つは大国主命といえる。

成人男性を人身御供に求める話にいわゆる「キジも鳴かずば」がある。これも「水」に関する話だが、全体的に見れば「自己犠牲」の話であって、人身御供になるものは自らが生贄の「くじ」に当たるよう仕向けて亡くなる。いわゆる「自己犠牲」である。

「殿様と忠臣」では、殿様の気性を考えれば諫言を行うことは自らの身を危うくする行為でもあり、敢えてそれをすることは「自己犠牲」とまでははっきりとは明確に表現されていないが「自己犠牲」に近いものはある。殿様はまるでヘロデ王のような暴君で、気にいらないものはなんでも殺してしまう。

また、「キジも鳴かずば」には管理人が知る限り、1例だけ「泥棒の罪」で殺されたものがいる。「自己犠牲」の精神があって、かつ「泥棒の罪」で殺された者といえば、管理人は「イエス・キリスト」という言葉しか思い浮かばない。古代のカトリックによれば「父と息子と精霊」は「同じもの」とされていたように思うのだが、「死して蘇った大国主命」は彼の先祖の須佐之男命も同然である。すなわち「父と息子」は同じもの、として現されているし、大国主命の地上への復活は結婚と勝利を伴っており、どういうわけか「黙示録」というものと話の骨格が一致するように感じられる。

ともかく、大国主命の「死と復活」は、「大国主命の死」と「大国主命・須佐之男命が一体化した復活」と組み合わされており、復活した大国主命であるところの大物主命は須佐之男命も同然の「祟り神」とされている。これが中世になって民間伝承化すると「良い人が非業の死を遂げて祟り神になる」という話に縮められてしまい、老若男女を問わず「誰でも死んだら祟り神」化する傾向になってくる。元の話が「イエス・キリストの復活と再生」だったとしても、伝承は何だか一見して聖書の内容とは似ていない感じになってくる。

なぜ、大国主命がイエスを投影したものだとして、死んで再生したら須佐之男命になってしまうのかというと、その原因はローマ神話にあるように思う。ローマの重要な「父なる神」とはサートゥルヌスのことであって、この神は農耕神でもあり時間の神ともされているが、植物が育って枯死し実(赤ん坊)をつけて、それがまた発芽し成長する、というサイクルを繰り返すのになぞらえて、1年のうちに「発生(出生)、成長、老化、若返り(種)」を繰り返す神と考えられていたのではないかと思う。植物の「種」は正確には動物でいえば親の植物の「子供」に相当し、親の植物がそのまま若返るのではないのだが、古代の人にはそれが分からず、同じ植物が「死と再生」を繰り返しているように思えたのだろう。サートゥルヌスが農耕神であり、植物神でもあるなら彼もまた植物のように「死と再生」を繰り返す神と考えられたのだろう。そしてそのために生贄が必要と考えられたのではないだろうか。そしてサートゥルヌスが「万物の父」であるならば、年末に動物とはいえ、生贄を捧げられて「老い」から若返るサートゥルヌスは、動物という「我が子」を食らって若返る神でもあったといえる。その性質は天界では嫌われてサートゥルヌスは地上に追放されたが、地上ではその性質なくして農耕の豊穣は得られない、と考えられたのだろう。

このサートゥルヌスには「既存の秩序を破壊する」という性質があり、彼の像は1年の大部分は鎖でつながれたままだった。年末のサートゥルナーリアの間だけその像は解き放たれ「時間と共に年をとる」という秩序を破壊して若返る、とされたのだろう。ということは通常のサートゥルヌスは、好き勝手にさせておくと「秩序を破壊する祟り神」でもあった。だから、彼が暴れないように工夫をこらす必要があったし、その破壊性がローマの強さの秘訣と考えられたのかもしれない。古代ローマは農耕で成り立っていた国家ではなく、食料の生産などは植民地に頼るところが多かった。サートゥルヌスはローマ法の神でもあり、ローマの植民地政策は「君臨すれども統治せず」という建前はあったが、当然ローマの意向に沿った者が統治を行っただろうし、植民地の慣習法よりもローマ法の優先を主張されて植民地の住民が不利に扱われることもあっただろう。サートゥルヌス植民地の法や身分秩序を破壊し、ローマ法を優位に立たせる神でもあったことと思う。古代ローマにとって「農耕の豊穣の神」とは「植民地を優位に支配して、その上がりをローマに独占させる神」でもあったし、そのために植民地の元からの秩序を破壊する神でもあったと考える。サートゥルヌスが「我が子」として可愛がったのはローマ市民だけであり、それ以外の人々は神話の神々のごとく「食い散らかして自ら利用するだけの我が子」だったのではないだろうか。イエスはローマ人ではないので、当然ローマ人の感覚からいえば、サートゥルヌスの餌になるだけの「」なのである。

だから、キリスト教の到来時に「父と子は同じもの」と言ったら、ローマ人にとっては「破壊神のサートゥルヌスと子(イエス)である餌は同じもの」だと、そのような解釈がされたのだろう。イエスはサートゥルヌスの餌となって、サートゥルヌスと一体化する。だから、もしイエスが再臨して生き返ることがあれば、それはサートゥルヌスが若返って出現したのと同じことなのだ。サートゥルヌスはイエスを食べて若返るはずなのだから、神は餌を食べて餌の姿で人々の前に現れるのだ。

ローマにおける初期のキリスト教は下層階級に拡がり、暴力的で敵対者とみなすものに対し、非常に攻撃的だった。それはキリストがサートゥルヌスであったとみなされたので、その「秩序を破壊する能力」で既存の権力を破壊し、貧しい人々が貧困から抜けだそう、という思想だったのではないだろうか。現代的には良く言えば「革命」、悪く言えば「テロリズム」である。

そもそもキリスト教が発生した古代ユダヤ社会にも、一神教の神をサートゥルヌスのような破壊性の高い神と考えて、その暴力的な能力でローマからの支配を逃れようと考える人々がいたのではないか。イエスの弟子達の中にも「熱心党」と言われる過激な人々がいた。パウロもキリスト教に改宗するまでは、暴力的な弾圧を厭わない人物だった。彼らには共通して「暴力で世界を変えよう」という思いがあり、彼らの「神」はそのような神で、宗教的な思想と政治的な思想が、表裏一体のものとして存在していたのだろう。イエスが「弟子に裏切られた」とは良く聞く話だが、そのように敵対者とみなした者を犯罪者に仕立てあげたり、親しくするふりをして死に追いやることも「破壊神の性質」として肯定されていたのではないだろうか。

だから、この暴力的な思想を持った人々が、自らを「熱心党」と呼ぼうが「キリスト教徒」と呼ぼうが「パリサイ人」と呼ぼうが、ともかく「ユダヤの神はローマのサートゥルヌスと同様のもの」と考えていさえすれば、その名称や呼称はどうでも良かった、ともいえる。そう考える人達がある程度いたために、結局ユダヤ・ローマ戦争が起き、エルサレム陥落とユダヤ人のエルサレム追放が起きてしまうのである。

一方、キリスト教の方は、イエスの死後ユダヤ世界を放れ、各地に布教を繰り返すようになる。ローマでは初期には下級階層に広まるが、結局貴族階級にも浸透していく。秩序を無視して、暴力で権力や財力を得ることを肯定してくれる神ならば、貴族階級にとってもありがたい神である。頂点には一人しか立てないのであれば、目上の者に対する不満はほとんどの貴族達の内心にもあって当然であり、神はその不満を暴力で解決して構わない、と言ってくれるのだから。そして、頂点に立つ者にとっては、神は外国や部下達との約束を破ってもかまわない神、となる。それを押し通すために暴力も肯定されるのであれば、強力な軍隊を持つ権力者にとって、これほどありがたい神はあるまい。かくして、キリスト教はローマの上流階級から「都合の良い宗教」という認定を受け、国教にまで上り詰める。教会の上層部も貴族の子弟がつくようになり、庶民には「イエスに倣え。そうすれば神の国へ行ける。(神と一体化できる。)」と言うようになる。「イエスに倣え」とは、要は「サートゥルヌスの餌用のになって、サートゥルヌスと一体化しろ。」ということなのではないだろうか。そうしたら「神の法」の元で良い思いをしている上流階級の人々だけは「神に可愛がられている子」として君臨できるからである。

八丁島天満宮の伝承にはないが、日本の伝承には「旅人」を人身御供や人柱にする話は良く出てくる。この「旅人」とは「よそ者」のことを指すと考える。ローマ人にとって、ユダヤ人であるイエスは「よそ者」である。自らの「父なる神」であるサートゥルヌスに食べさせるには格好の餌なのではないだろうか。共同体の問題である堤防工事や神を慰撫する祭祀に「よそ者」を利用して用いろ、というのが「原始ローマ教」の教えだったのではないかと推察される。

また、八丁島天満宮の伝承には、理由も定かでないが、幼い子供を人身御供に求めるものがある。諏訪大社の御頭祭では若い少年が「神使」に選ばれる。

まとめ[編集]

どのようないきさつで3つの人身御供の話が、一つに纏められた祭祀になったのかは不明だが、興味深くはある。北九州は朝鮮半島に近いので、朝鮮のものと類似した民間伝承が見られる傾向があると感じる。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

脚注他[編集]

  1. 八丁島の御供納(ゴクオサメ)、久留米観光サイト(最終閲覧日:25-01-15)
  2. 原題「おかねの恩返し」。久留米ん昔話ー宮の陣に載っている話(久留米弁)の再転載。標準語的に直したのは管理人です。
  3. 原題「菊姫物語」。久留米ん昔話ー宮の陣に載っている話(久留米弁)の再転載。標準語的に直したのは管理人です。
  4. 原題「カンシャク持ち殿さん」。久留米ん昔話ー宮の陣に載っている話(久留米弁)の再転載。標準語的に直したのは管理人です。
  5. Wikipedia:高良大社(最終閲覧日:25-02-13)