サートゥルナーリア

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サートゥルナーリア祭(Saturnalia[1][2][3])はサートゥルヌス神を祝した古代ローマの祭である。農神祭とも。12月17日から12月23日まで(ローマ暦およびユリウス暦で)を開催期間としていた。

グレゴリオ暦に換算すると、(紀元前は暦が不安定で単純な換算ができないが)後世と同じ形のユリウス暦で遡れる限界である西暦4年から99年までは12月15日開始、100年から199年までは12月16日開始、200年から299年までは12月17日開始となる。

祝賀行事[編集]

サートゥルナーリア祭はローマでも盛大に行われる祭の1つだった。特に馬鹿騒ぎと社会的役割の入れ替えを特徴とし、奴隷とその主人がこの期間だけ表面上役割を入れ替えて振舞った。

サートゥルナーリア祭は紀元前217年ごろ、第二次ポエニ戦争でカルタゴに軍が惨敗した後、市民の士気を高めるために催されたのが始まりである[4]。元々は12月17日の1日だけだったが、非常に好評だったため1週間まで延長され12月23日に終わるようになった。この狂態の期間を短くしようとする努力もなされたが失敗している。アウグストゥスはこれを3日間にしようとし、カリグラは5日間にしようとした。これらの試みは、ローマ市民の間で騒乱と大規模な反乱を引き起こした。

サートゥルナーリア祭では生贄を捧げる古くからの習慣があり、サートゥルヌスの神殿前に生贄を置く長いすを設置し、サートゥルヌス像に普段結ばれていた縄を解き、その年が終わるまでそのままにしておいた。儀式の進行と記録のため、Saturnalicius princeps が選ばれた。公的な儀式の他に、この期間は祝日とされ各家庭でも個別に祝う習慣があった。学校が休みになり、小さなプレゼント (saturnalia et sigillaricia) を作って贈り合い、特別な市 (sigillaria) が開催された。奴隷であってもこの期間だけ公に賭博が許された。もっとも、1年の他の期間に奴隷が賭博行為を全くしていなかったという意味ではない。

サートゥルナーリア祭の期間中は大いに飲み食いし、騒いだ。正装であるトガは着用せず、非公式でカラフルなディナー用の服を着用した。そして、解放奴隷の被るピレウス帽(イリリア、エトルリア、古代ギリシャ、パンノニアおよびその周辺地域で着用されたフェルトキャップ。後に古代ローマでも導入された)を誰もが被った。奴隷は主人に口答えしても罰せられなかった。奴隷も宴会に加わり、宴会の給仕を主人が務めた。ただし、社会的立場の逆転は表面的なものだった。例えば、宴会の給仕は奴隷が務めることも多く、主人の晩餐の準備は奴隷たちが行った。すなわちこれは微妙な境界の中での気ままさだった。つまり、これは社会秩序の破壊ではなく一時的な逆転でしかない[5]

生贄について[編集]

基本的に祭りは神々を讃えるために行われる儀式で、そこには必ずお供え物があった。供え物は神々に奉納されたのち、人々におすそ分けされた。

古代ローマのお祭りで供え物の中心になっていたのが「生贄(いけにえ)」である。古代ギリシアの人々も行っていたことだが、流血をともなう家畜の犠牲を神々にささげることがとても重要視されていた(野生の動物は使用されなかった)。このため、古代ローマの初期には「敬虔な人」は「ポリュテレス(生贄をささげる人)」と呼ばれた。

神の意志によって執り行われる生贄の儀式では、動物自身が喜んで犠牲になる必要があったので、犠牲になることをうなずくことで承諾した動物だけが犠牲になったという(うなずくまで静かに待った)。生贄は祭壇に運ばれ、頭を打たれて殺された後すぐにのどを切られて血が流された。その後生贄の体の一部が燃やされて神にささげられた。

儀式が終わると生贄は料理されて人々に配られた。普段は肉を食べられなかった庶民にとって祭りは肉にありつける、とっておきの場だった。一方、権力者にとっては、庶民の人気を得るための格好の場となった[6]

文献[編集]

小セネカは紀元50年ごろのサートゥルナーリア祭について次のように記している (Sen. epist. 18,1-2)。

今は12月で、市の大半は大騒ぎだ。手綱を緩めることで大いに浪費がなされる。サートゥルヌスに捧げられた日々が普段の仕事の日々と本当の違いがあるとでもいうように、あちこちから大掛かりな準備の音が聞こえるかもしれない……。あなたがここにいたらなば、私は喜んで我々の計画について議論しただろう。普通にしているのが奇妙なら、トガを脱ぎ捨てて夕食を共にすればよい。

ホラティウスの『風刺詩』II.7(紀元前30年ごろ)では、サートゥルナーリア祭で奴隷と主人が立場を入れ替えたという設定で、主人が自身の情熱の虜となっていることをその奴隷が批判する。マルティアリスのエピグラム第14巻(紀元84年から85年ごろ)にはサートゥルナーリア祭の贈り物に関する一連の詩があり、一部は高価だが一部は非常に安っぽいとしている。例えば、筆記用タブレット、さいころ、羊の骨を使った遊具 (knucklebones)、貯金箱、櫛、つま楊枝、帽子、ハンティングナイフ、斧、各種ランプ、ボール、香料、笛、豚、ソーセージ、オウム、テーブル、カップ、スプーン、衣類、彫像、仮面、本、ペットなどを挙げている。小プリニウスの書簡集 2.17.24(紀元2世紀初めごろ)では、彼が隠居所として使っていたヴィッラの離れの部屋について記している。

…特にサートゥルナーリア祭の間、祝日と祝祭の気ままさでこの家の他の部分は騒がしい。それでも、私は家族の遊びを妨げはしないし、家族も私の仕事や研究を妨げない。

マクロビウスは Saturnalia I.24.23-23 で次のように記している。

一方、ペナーテース[7]に捧げ物をする役目を担い、食料や家事を取り仕切っている奴隷長がやってきて、主人に例年通り奴隷たちがご馳走を食べたことを告げた。というのもこの祭りの古くからの慣習を守っている家では、奴隷たちが主人であるかのように先に晩餐をとり、その後で主人のための夕食が用意されるためである。そこで奴隷長がやってきて、夕食の用意ができたことを告げたのである。[8]

詩人カトゥルスは、サートゥルナーリア祭を最良の日々と記している (Cat. 14.15)。それは祝祭の時であり、友人を訪問する時であり、贈り物(特にロウソク (cerei) や陶製の小像 (sigillaria)を贈る時だという。

この祝日の意義を把握するにあたり、ローマ帝国における奴隷と後世のヨーロッパやアメリカでの奴隷では、その置かれている状況が全く異なるという点が重要である。家庭内の奴隷は本質的に法的な権利を全く持たなかったが、奴隷個人は人間として尊重されており、後世の奴隷とは異なる[9]。奴隷は家庭の不可欠な一員と見なされており、裕福なローマ人女性は奴隷たちのために様々に世話を焼いた。

「タルムード」と「ミシュナー」(Avodah Zara 8a) には、冬至の8日前に始まる Saturna と呼ばれる異教の祭りについての記述がある。それによるとその祭りが8日間続いた後、Kalenda という祭りがあったという。「タルムード」ではこの祭りをアダムが起源だとしている。アダムは冬至に向かって徐々に日が短くなっていくのを彼に対する処罰だと考えた。彼は世界が創世以前の混沌と空虚へと回帰することを恐れ、8日間座って絶食した。そして再び日が長くなったことに気づき、それが自然のサイクルであると理解した。このため、この8日間を祝うようになった。「タルムード」ではこの祭りが後に異教の祭りに変化したとしている[10][11]

クリスマスとの関係[編集]

クリスマスと謝肉祭の起源の一つとの考え方もある[3]引用エラー: <ref> タグに対応する </ref> タグが不足しています。新しいブリタニカ百科事典では、冬至の後の太陽の復活を祝う古代ローマの習慣に日付を合わせたとしている(ミトラ教)。この祝祭には現代のクリスマスと同様に贈り物をしたりご馳走を食べる習慣があった。

参考文献[編集]

  • Wikipedia: サートゥルナーリア祭(最終閲覧日:25-02-04)
    • Balsdon, "Life and Leisure in Ancient Rome" p 124-5.
    • Beard, M. North, J. and Price, S. "Religions of Rome. Vol II A Source Book, numbers 5.3 and 7.3.
    • Dupont 1992 p 205-7. And the Oxford Classical Dictionary sv. Saturnalia.
    • Woolf, Greg. ""Roman Leisure" course handout, University of St. Andrews, March 2005.

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

脚注・出典[編集]

  1. サトゥルナリア
  2. saturnaliaの意味 - 英和辞典 - コトバンク
  3. 以下の位置に戻る: 3.0 3.1 Saturnaliaの意味・使い方・読み方|英辞郎 on the WEB
  4. Macrohistory and World Report - 3rd Century BCE
  5. Woolf, Greg. March 2005.
  6. 古代ローマ人の食事(1)祭りと生贄、食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命(最終閲覧日:25-02-11)
  7. ペナーテース(Di Penates、Penates)は、ローマ神話に登場する神であり、元々は納戸の守護神だったが、後に世帯全体を守る家庭の神となった。ペナーテースはローマの各氏族の権勢とも関連付けられており、祖先の霊とされることもある。古代ローマの住居には入り口に女神ウェスタの小さな祠があった。この祠の中にペナーテースの小さな像が安置されていた。(Wikipedia:ペナーテース(最終閲覧日:25-02-09))
  8. Beard, M. North, J. and Price, S. "Religions of Rome. Vol II A Source Book, number 5.3.
  9. 要出典、2010年2月
  10. A portion of Avodah Zarah 8, quoted in Menachem Leibtag's Chanuka - Its Biblical Roots - Part Two, hosted on The Tanach Study Center
  11. A portion of Avodah Zarah 8, quoted in Ebn Leader's The Darkness of Winter - Environmental reflections on Hanukah, hosted on The Kibbutz Institute for Holidays and Jewish Culture.