今日は、そろそろ貧血も回復してきたので、なるべく通常運転に戻そう、ということで、午前中買い物に行って、防犯カメラの中身をチェックして、午後は書類もちょっと書く。
で、お昼寝している時にちょっと夢を見て。なんだか自分がどこかの学校にいて、図書館で本を読んで、何かの会議に参加して出されたものを他の人の代わりにパクパク食べる、みたいな夢で。本を読んで勉強しなさい、ということなんだろうな、と思う。だいたい、自分ちがそろそろ図書館みたいである。
で、夜には潤ちゃんの「永遠のニシパ」を見る。だいたい、昔は、上役が威張ってた、とかそんな上辺のことはどうでも良いわけで。(そもそも明治維新は民主主義を目指したものではないし)どんな時代でも、時代を動かそうとしてきた人達はいるし、その内のいくたりかは実際に時代を動かしていた、とそれだけのことである。威張って動かしてたのか、這いつくばって動かしてたのか、そんなことは知らんがな、というだけである。
ちょっと前に、「日本伝説体系 山陰編」という本を、「買って欲しい」と言われたから買ったわけで。伝説と民話とどこが違うのか、と、まずそういう話になるわけですが、伝説というのは、主に具体的な地名とか、橋や建物とか、そういうものに関わるものを「伝説」という気がするわけで。民話はもっと広くて、「単なる昔話」で、特定の土地とかに関わらない漠然とした話もその中に含まれる。で、山陰の伝説には、「オオゲツヒメ」に関して、記紀神話にはない伝承が残されている。それによると、オオゲツヒメが殺されて、頭から馬が、体から五穀が生まれたのだけれども、オオゲツヒメには沙姫という小さな娘がいて、母親を殺された沙姫は五穀の種を持って人界に降り、各地を開拓して歩いた、という話である。(あるいは開拓に相応しい地を探して選んだ、という話)
女神が殺されて、作物になる、というのはハイヌウェレだけれども、この小さな「沙姫」というのは何? と思う。明らかにハイヌウェレ型神話には「ない要素」である。
菅江真澄の旅日記は、御頭祭についての記述があって、小さな男の子が柱に縛り付けられて殺されそうになる、という祭祀がある、と書かれている。殺されそうになる手前で、国司の使いが乗り込んできて、男の子を助けるところで祭りは終わるわけですが。これが、かつて男の子を殺した生け贄の祭祀の名残であることは明らかである。
で、ニシパに繋がるわけですが。だいたい、アイヌの人達が木を削って作るイナウは、本土式にいえば「御幣」のことでしょう? と思うわけで。彼らは、イオマンテといって、熊をある程度育てて、殺す「熊送り」の祭祀を行うし、この祭祀は「飼い熊型熊送り儀礼」(飼熊送り)と呼ばれて、北海道、樺太(サハリン)から黒竜江(アムール川)流域のハバロフスクあたりに分布し、北海道には樺太から入ってきたのだろう、と言われている。黒竜江は、中国東北部と、ロシアとの国境を流れる川であって、上流はモンゴルとの国境を流れてる。この文化を持つ人々は5世紀には北海道に入ってきてた。で、熊送りの祭祀は12世紀頃に始められたらしいのですが。この祭祀の思想は、熊を殺して天に送ると、また肉や皮を持って戻ってくる、という思想である。漁撈民の、「魚の豊穣のために人の生け贄を捧げると大漁をもたらす」という思想が熊を食料とする人々の間に、中国沿岸を通って中国東北部にまで広がり、魚が熊に置き換わった思想なのだと思う。でも、熊トーテムの人々は、これとは別に、熊と共に暮らした人が、時を経て戻ってくる、という思想も持ってる。だから、「熊の神が戻ってくる」という思想は、漠然と大漁が期待される、という以上に、もっと現実的、具体的にそう考えているわけです。
同様に、縄文時代の本州は、漁撈民の思想と、北方の熊信仰の人々の信仰が衝突・習合しており、御頭祭もそうしてできた祭祀といえる。イオマンテでは、広場に引き出した熊を杭につないで、矢を射かけたりしていじめた末に殺すわけで、御頭祭とイオマンテは、殺す対象が人間の子供なのか、熊の子供なのか、というだけで、似通った祭祀なのではないかと思う。要するに、殺された子供は、更に「良き首長」の姿となって戻ってくる、のだと信じられていたのだと思う。
それが、もうちょっと時代が下って、農業が主力の時代に、再構成されたのが沙姫の伝承であると思う。沙姫は「殺されて戻ってきた神」の象徴であると思う。もはや、「戻ってきた神」そのものが神話の主体となっている点は、それを「黙示録」というかどうかは別として「原始キリスト教」の影響があるかもしれない、と思う。
要するに、イオマンテ、御頭祭、沙姫の思想には、直接の伝播関係がないとしても、連続性があり、いずれも漁撈民と熊トーテムの人々の思想が習合した結果である。彼らの中では、「送った神」は「戻ってくる神」でもある。アイヌの人々が、何故過酷な弾圧を受け、「絶滅政策」の憂き目を見ることになったのかといえば、結局その思想が邪魔だ、ということに尽きる。沙姫の伝承や御頭祭は、本州では出雲系の有力な氏族がかろうじて守り抜いてきたが、それでも千年以上前には既に正史からはじき出されてる存在である。蛙の王家にとっては、「死んだ神」は「戻って来ない存在」である。だから、もし「戻ってくる神」がいたら、それは「存在しないもの」「あり得ないもの」「あってはならないもの」である、ってそれだけのことである。
では、ここにいる私は「存在しないもの」なの? 「存在するもの」なの? ということになるわけですが。そろそろ、家の部屋の扉を塞いでいる石やゴミも取れだしているので、だんだん「存在する」方向になりつつあるのだと思う。ということで、どうやってこの世に「存在する」のか、ということになるわけですが、ともかく「医者なんて最底辺の人間がやる、死体を扱う汚い仕事」なので、そんな風に「存在しないように」というのが全体的な、特に上の方の一致した意見なのだと思う。まあ、「目」を見ても、だいたいみんなまともな思考をしてなくて、いっちゃった人間ばっかりだし、と思うわけで。(でも、学歴偏重社会であるので、もうちょっと脳みその軽い庶民階級の人は、上の方とはちょっと違う考え方をしてるのも事実な気がする。「自分とこの大姥様は、国立大学を出た本物の医者だし」って鼻を高くしてる人達もいるよね?? 諏訪の衆とかね?? と思うわけですが-;)というわけで、「人々の気持ちが分かる人文系の研究者になって」「存在するように」ということなのだと思う。
というわけで、医学書を買ったように、人文系の教科書を買え、というのが最近の課題らしくて。学者どころか図書館でしょ。「世界神話伝説体系」なんて個人で買うような本じゃないし?? と思うわけですが-;。
で、話はニシパに戻るわけですが、武四郎がアイヌの少年を養子にして教育を受けさせた、とかそういう辺りがフィクションであるらしいので。「頑張って一生懸命養子の子を育ててる」ってそういう事でしょ、と思う。というか、私の養子のちびっ子は「英語ができない蛙のお母ちゃんに、あんたが英語を教えてあげるように」と言われて、英語を勉強してるらしいー;。「頼りにしてるー」と援護射撃してるわけですが。やる気を出させるのは大切なことなんだなー、と思うわけです-;。
今日は、じいさんの病院でござる。
じいさんは、前立腺癌で長らく通院しているわけで。カソデックスで、長らく良好な結果が得られていたわけです。幸運なことに。そうしたら、3ヶ月前に、どっかの病院のドクターが、
「もう完治したから来なくていい。薬も出さない。」
と仰ったわけです。そんときに、あたくしは付き添っていなかったわけで。じいさんとばあさん二人の時に、そういうこと言いやがったわけ。我が家の「かかりつけ医」であるあたくしを差し置いて何言ってやがる、癌に「完治」なんてあるわけねーだろ、と思う。で、じいさんが「行かなくてもいい、というのもあれなんで検査くらいして貰いたい。」と言って、ばあさんも「半年後くらいでどうでしょう?」と言ったらしくて、半年後に検査ということになったわけです。で、家に帰ってきた家人から、それを聞かされたあたくしが激怒したわけです。
治療方針を変える時には、注意深い経過観察をするのは当たり前である。半年も放置ってどういうことだ、3ヶ月後に再検査しろい、と思う。だいたい、経過観察なんだから、抗がん剤を切るなら、最初の1年半くらいは3ヶ月に1回検査、その次の1年半は半年に1回の検査、その次は1年に1回で、最低5年は追いかけるものでしょうが、と思う。「癌」だし。というわけで、病院に「せめて3ヶ月後に検査して貰いたいんですけど?」と電話したら、看護師が「完治しました」って医師法違反な発言を繰り返す、「先生とお話できませんか?」と言ったら「どっか行っていません」とかって言うわけで。で、ともかく3ヶ月後に予約を入れたわけです。そうしたら、9時半からの診察だから、7時半に来い、と言われたわけで(呆)。
で、本日は大垣病院の論文とか、取扱規約とか持参して、主治医様と色々お話をしようと思っていて。もう年でテストステロンが上がりそうもないから、薬を切って、様子をみましょう、というのなら分かるわけですが、「完治した」なんて言ったら、「診断書を書け」って、書けるものなら書いてみて、と言おうと思ったわけで。
そうしましたら、診察室に入って開口一番「PSAが上がってきてるから、治療を再開しましょう」と言われたわけでー;。3ヶ月で、0.22になってるし。と思う。まだ、精巣からテストステロンが出てるんだ、と身内でも思うわけですが-;。で、CABをやるとかやんないとかでちょっと医者の説明もぶれて。本当なら、正式な内分泌療法は、リュープリンとかの注射とカソデックスの内服療法の併用らしいのですが。今までは意図的な手抜きで、カソデックスの内服しかさせてなかったんだよね? ね? と思うわけで。あたくしもオーバードーズ(過剰医療)は好きではないので、結果さえちゃんと出てれば、ちょっとした手抜きくらいで目くじら立てるつもりはないわけですが。まあ、次にもPSAが下がってなかったら、CABをやりましょう、ということになって。カソデックスが効かなくなってPSAが上がったのではないので、服用を再開すれば大丈夫だとは思うわけですが。まあ、そうしましょう、とあたくしも賛成しまして。医者が電子カルテにも書き込んでたから、次に行ったら内容が消えていた、とかないであろう、とは思うわけですが。
それ見たことか、泌尿器科の部長よりも、臨床やったことのないあたくしの見立ての方が正しかった、と思うわけで。国立大学を出た医者なんて、まともな思考回路が残ってれば、みんなこんな感じで、高慢ちきの鼻が高いわけで。裁判所で裁判官だの、弁護士だのに嫌がらせさせるのとは話が違うの。これこそ私の専門分野だし、とこういうときだけ思う-;。まあ、でも、臨床経験がないから、教わったとおり、教科書通りのマニュアルなプロトコルしか考えないし、求めませんので。初心や基本は大切だなあ、と思うわけです。うちの母親は、「主治医があんなに低姿勢になっているところを始めて見た」と言っていたわけで。日頃、どんだけ威張ってたんだろう? 私のいないところで?? と思う。そこんところの泌尿器科とは、じいさんが癌になったときに、ぺーぺーの医者とやり合い、今回は部長様ともニアミス、ということで、なんかもう私は超有名人になってそうである。(耳鼻科の部長は大学時代にほんのちょこっとだけ付き合ったことのあるのだし、人間関係の狭い田舎なんて本当に嫌だ、と思うわけですが-;。)
で、家に帰って、昨日の翔君のブラックホールのテレビを見ていたら、「万が一の時の治療方針が、医者の言った通りで良いかどうか調べて確認しておきましょう」と、4番目の子に言われる気がするわけで。母親にも言いましたけれども、じいさんももういい年なので、明日になったら死んでるかもしれないし、それが寿命なら仕方ないし、なにがなんでも生かしておきたい、とかは思わないわけですが。でも、医者にわざわざ殺される必要もないので。そういうことは、家族としては阻止しようと思うわけです。というか、人としての良心として当たり前のことじゃん、それ、と思うわけです。それだけのことなのですが。
で、後は、最低限必要な本も揃ってきたので、そろそろ「買う必要があるもの」と「買っても良いもの」の線引きをしましょう、と言われる気がするわけで。「買っても良いもの」はおこづかいでちょっとずつ買ってもいいわけだから。というわけで、フォントも含めて、必要なものを計算して。だいたい、なんでも来月くらいでなんとかなるかな、と思うわけです。あとは、もう山海経とかマハーバーラタとか読んで勉強するわー、ちょっとずつ、と思うのです。でも、その前に裁判と穴掘りだからねー;。
今日は、お外組はいつもの通り仕事をしていて。昨夜はけっこうな雨が降ったので、坑道の中にもバケツ1杯ほど水が溜まったらしくて。私の方は書類を書いて。
で、病院から、朝の8時半から外来の受付が始まるのに、7時半に来い、と言われて、「どういうこと?」というか、朝、親とちょっと言い合いになって。結局公立病院だし、受付が8時半からしか始まらないのだから、「7時半に来い、というのはいやがらせ」という結論になって。
で、疲れて、ご飯を食べながら、ブンブブーンを見ていたら寝てしまって。それでなんだか夢を見て。まだ、学生で、集団で旅行? だか寮? みたいなところに泊まっていて。で、何故か同級生に光一君がいて。私は女子の友達とつるんで遊んでいて、「自分の部屋で遊ぼう」ということになって部屋に帰ろうとしたら、光一君から電話があって「部屋に遊びに行ってもいい?」と聞かれて、「友達が大勢来てるから、私の方が遊びに行く」と返事して、部屋がどこなのか教えて貰う、という夢で。目が覚めて、なんだか兄さんに同情されてそうだー、と思う。兄さんには、ふっと、「じいさんの考えていることは、元気になったら、「娘達を働かせて仕返ししてやる。今に見てろ」ってことでしょ。だから、体を鍛えてるんじゃないの?」と言われる気がするわけで。そんなところなんだろうなー、と思う。でも、年が年だから今以上に元気になる見込みなんてないんじゃん? とも思うわけで。まあ、あんまり一生懸命になりすぎずに、いろんな記録だけしっかりしておこう、と思うわけで。
で、夜になって、ふっと、突然「樹なつみ」という漫画家の「ヴァムピール」という漫画を思い出して。ネットで調べてみたら、ただで読めるサンプルがあったので読んで見て。主人公は笛吹(うすい)君、という普通の真面目な青年である。彼が、ある時、「ヴァムピール(吸血鬼)」という化け物に会う。吸血鬼は人間のことを餌くらいにしか思っていないわけですが、笛吹君には吸血鬼の役に立つ、ちょっと特殊な能力がある、ということで、吸血鬼から一定の敬意を払われる立場になる。でもって、笛吹君は吸血鬼同士の権力闘争とか、いろんな事件に巻き込まれていく、という話で。内容はけっこう禍禍しい話であると思う。主な登場人物のほとんどが「死人」だし。でも、主人公は真面目で、純粋無垢な青年である。で、笛吹君と深い関わりを持つようになる吸血鬼は「バロン」という。
それで、もう一つ「樹なつみ」の「八雲立つ」という漫画を思い出す。こちらも主人公は七地君という真面目で、純粋無垢な青年である。七地君は何かの用で出雲に出かけて、ものすごく古い旧家にたまたま泊めて貰う。その家には、他人には絶対に言えない恐ろしい宿命ともいえる伝統があって、七地君はたまたまその秘密を知って殺されそうになる。でも、一応死なずには済んで、その家の最後の跡取りの少年と友達になる。で、その少年といろんな事件に巻き込まれる、という話。で、少年を呪われた宿命から解き放つ役割に、七地君はけっこう関わっていくことになる。
樹さんは、笛吹君とか、七地君とか、一種の「真面目で純粋無垢な青年」像が好きですよねえ? とふと思う。そう思って、歯を磨いていたら、「Bで始まるバロン」とは誰のことですか? と聞かれる気がするわけで@@。バロンは何千年も生きている呪われた吸血鬼である。八雲の少年も、千年以上も続く呪われた伝統と宿命に縛り付けられている。彼らを「呪われた運命から解き放つ純粋無垢な青年」とは誰のことですか? イエス・キリストのことなの? と思う。これだから、「真のキリスト教徒」と対峙するときほど、困惑することはない、とも言う-;。世界中に散らばっている莫大な民話や神話の中に存在する一人の青年を、「その呪われた運命から解き放って欲しい」と言われても、私にいったい何ができるでしょうか? となる@@。(←地縛霊を無意識に浄化しちゃうような化け物のくせに、とか言われる気がするわけですが@@。それこそ、誰のことだよ、知らねーよ、と思うわけで-;)
まずは、じいさんの寿命をもうちょっと引き延ばして、買う物を買わないと、というか、そんなことする「純粋無垢」な人なんているの? と思うわけで-;。何を期待されてるんだろう?? とちょっと引くわけですがー;。7番目の兄さんからは「民話の教科書を買え」とか「「アマテラスの原像」をしっかり読むなら、マハーバーラタとの比較がたくさん書いてあるのだから、マハーバーラタもしっかり買って読むように」とか、そんなことしか言われてない気がするわけですがー;。
台風くずれの熱帯低気圧が来ていて、雨が降っています。
昨日、今日は、お外組はいつもの通り仕事をしていて。私はなんだか貧血っぽくてダラダラしていて。でも、今日の午後はけっこう頑張って書類を書いたのでした。
で、毎日買った本が届くわけですが、今日は信教出版部の「菅江真澄の信濃の旅」が届いて。「神道集」は中世の諏訪信仰が垣間見える資料ですし、「菅江真澄」は江戸時代の諏訪大社の祭祀の様子が書いてある貴重な資料であって。読んでみたいとは前々から思っていたわけですが、ローカルな資料は手に入れるのが難しいので、口語訳が入手できてうれしいです。でも、ともかく細かい本がたくさん手に入ったので、なんだか疲れた時に、気分転換で1頁くらい拾い読みしてみると楽しい気がします。あまり長文を纏めて読む気になれないので。
私が思うに、槃瓠と黄帝とゲイの物語は、中央アジアで書く部族に爆発的に広まって、しかもそこで、物語の骨子はそのままで、各部族の英雄に合わせて話を作り替える、というような「創作」の手法も確立されたのだと思う。それで印欧語族が西欧に展開すると、さまざまな民話も生まれるけれども、一部は神話となり、キリスト教時代に入るとそれが「中世の騎士物語」へと変化するわけで。架空の人物が主人公のフィクションにも、実在の人物をモデルにしたノンフィクションにも「英雄物語」の骨子は利用されるわけで。
で、実家から本を持ってくるときに、7番目の兄さんから「義経記」を持ってくるように言われて@@。7番目の兄さんに、「これは室町時代初期に作られたものだけれども、義経は悲劇の英雄で、各地を転戦しているし、最初の妻である河越百合は誠実な女性だけれども鎌倉から押しつけられた妻だし、2番目の妻である静御前は後白河法皇から送り込まれた白拍子であって、義経の心は二人の女性の間で揺れ動く。百合は同じ武家の女性だけれども、静は違う世界の女性である。義経は最後は百合の所へ戻るわけで、余生は奥州で百合と過ごす。「これは伝統的な英雄物語のパターンでしょ」と言われる気がするわけで@@。この作品は「判官贔屓」という言葉を生んだほど有名なわけですが、なんで、「中央アジアの英雄譚」のパターンが室町初期の日本に現れたのですかね? と思う。そうしたら、「鎌倉末期に元寇があったから。当然、戦い以外にも、相手が何者であるのか探るために、スパイが送り込まれるでしょ。元は、モンゴルの騎馬民族が作った国だから、当然「英雄物語」のパターンや作り方はスパイが彼らから仕入れたもの。」と言われる気がするわけで@@。しかも、「「義経記」は武家である義経を美化しているから、公家が書いたものではない。頼朝のことを暗に非難しているわけだから、これは鎌倉幕府に批判的であった武家が、鎌倉幕府批判のプロパガンダのために作ったもの」と言われる気がするわけで@@。「義経美化のその精神は、鎌倉初期に作られて、武家批判に終始している平家物語と比べたら、あからさまでしょ。」と言われる気がするわけで@@。兄さん、「義経記」が、鎌倉幕府批判を目論む有力武家のいずれかが意図的に作ったものであるのならば、高師直は、その成立に大きく関わってるでしょ? と思う。兄さんには、「中央アジア式の英雄物語の西の傑作が「アイヴァンホー」なら、東の傑作は「義経記」でしょ?」と言われる気がするわけで。室町時代の日本は、ちゃんと世界と繋がってたんだなあ、と思う。というわけで、「義経記」も一応持ってきて。
で、月曜日は父親が病院で検査を受ける日なわけで。どうも、医者めが、悪い? とは言いませんが、出鱈目なことを言い散らしていたらしくて。で、診療時間の2時間前に来い、と電話で言われてたので、親に言ったら、「いつもは1時間前に来い、って言われるのに」と私に文句を言うわけで。私はそういうことに興味、関心がなくて、あまり気にして無くて聞き流していたのですが。でも、裁判の証拠で「日記」というのは受けが良いようですので。「事実何があったか」はしっかり書いていこうと思う。一生懸命やるかどうかは別として、出鱈目を並べ立てる医者を甘やかさなきゃならない理由もないので。市立病院なら、後で損害賠償を請求するにしても、取りっぱぐれはないでしょうし-;。どちらを向いても、出鱈目な人間ばかりの嫌な世の中である;。
本日は、実家にある本を持ってこようと思って、作業はお休みして親と田舎に行ってきました。それで、今昔とか、金枝篇とか持ってきて。歴史書も、ペルセポリスの「牡牛を殺す獅子のレリーフ」が載っている古代編と、建武の新政の雑務書の奉行の名簿が載っていた南北朝編を持ってきて。「牡牛を殺す獅子」とはミトラのことである。雑務書の名簿には、東山道に「高師直」と「諏訪円忠」の名前があって。兄さん、円忠とはよくよくの同僚だったんですね、と思う。
で、戻ってきたら、「世界神話伝説体系」が届いていて。1セット、定価で20万円はする代物です。自分でこれを手にする日が来るとは思ってなかったわけですが。
で、書類をちょこっと書いて。夜になってお風呂に入ったら、「次回の書面でいいから、役割分担について書いておいて」と言われる気がするわけで。どうもそういう裁判用個人主義な書面の書き方には今一まだ慣れないわけですが。やっぱりできるだけ頑張ろう、と思う。明日は、相手方の書面を読み直してみたいと思います。
今回、「あの本買え、この本買え」攻勢に、親がものすごく協力してくれて、ありがたいなー、と思うのです。筑摩書房の「世界の英雄伝説シリーズ」とか、ここでしか読めないものもあって。