饕餮
饕餮(とうてつ、tāotiè)とは、中国神話に登場する怪物である。
体は牛か羊で、曲がった角、水牛・羊の角、虎の耳・牙、イヌワシの羽冠、人の爪、人の顔などを持つ[1]。饕餮の「饕」は財産を貪る、「餮」は食物を貪るの意である[2]。何でも食べる猛獣、という印象から転じて、魔を喰らう、という考えが生まれ、後代には魔除けの意味を持つようになった。 かなり厳密に左右対照的である。大きな獣面紋では額などに「舌」が描かれることがある[3]。
概要
前3世紀の『呂氏春秋』の先織という章に『周(紀元前1046-前256年)時代の鼎に饕餮が飾られていた。頭があるが身体がない。人を食ってまだ呑み込まない前に害が身に及ぶが、報いがすぐ及ぶことを言おうとしたのである。』とある[4]。
渾敦(こんとん)、窮奇(きゅうき)、檮杌(とうごつ)とともに「四凶」の一つとされる。
東方朔の『神異経』(紀元前2世紀か?)には「西南方有人焉、身多毛、頭上戴豕。貪如狼惡、好自積財、而不食人穀。強者奪老弱者、畏群而擊單。名曰饕餮。《春秋》言饕餮者、縉雲氏之不才子也。一名貪惏、一名強奪、一名凌弱。此國之人皆如此也」という記述がある。翻訳すると以下のようになる。
「南西に一人の男がいる。その体は毛深く、頭上に猪がいる。悪しき狼のように貪欲で、蓄財を好み、人の穀物を食べない。強き者は老人や弱者から財を奪い、大勢と戦うことを畏れる。名を饕餮という。春秋によれば饕餮は縉雲氏の不出来な子である。冷淡で、強奪を行い、弱者を利用する。この国の人はみなこのようである。 」
明代(1368-1644年)には、竜の子である「竜生九子」の一つで、その五番目に当たるとされた。飲食を好むという。
饕餮文
宋(960-1279年)の時代に古代の青銅器を蒐集する文化が起き、古典の文献を参考に、周代の鼎に装飾された架空の人獣面像を饕餮文(とうてつもん)と呼んだ、とのことである。これらの装飾が当初から饕餮と呼ばれる存在の描写であったという証拠はない。そのため、中国考古学の専門家である林巳奈夫はこれを「獣面紋」と呼んでいる[5]。
殷代から周代にかけて饕餮文(とうてつもん、林の述べるところの獣面紋)と呼ばれる模様が青銅器や玉器の修飾に部分的に用いられる。この頃の王は神の意思を人間に伝える者として君臨していた。その地位を広く知らしめ、神を畏敬させることで民を従わせる為に、祭事の道具であるこのような器具に饕餮文を入れたものとされる。良渚文化の玉琮には、饕餮文のすぐ上に別の架空の人物像の顔が彫られたものも出土している。
饕餮文を蚩尤を表しているとする文献があることや、同じ炎帝の子孫とされていることから本来饕餮は蚩尤と同一の存在だったのではないかと考えられている[6]。また、『山海経』に登場する狍鴞(ほうきょう)という獣も饕餮と同一とされる[7]。
私的解説
饕餮と饕餮文について
宋代からの慣例によれば、周代の鼎の人獣面像の装飾を「饕餮文」と呼んだとのことであるので、その前の時代の殷の鼎に施された同様の文様も「饕餮文」と呼んだのであろう。仮にこれを「狭義の饕餮文」と呼ぶことにする。伝統的には、殷周代に作られた青銅器の鼎の修飾をまず「饕餮文」と呼ぶことに異議はないと思われる。青銅器は王が主催し、主に王の祖先神を祀る祭祀に用いられたであろうし、その大きさや豪華さが王権の象徴ともされたであろう。
良渚文化の玉琮・玉鉞からも饕餮文に類似した人獣面像が出土する。これらも含めて、中国各地で出土する人獣面像を全て広く「饕餮文」と定義しても良いのだろうか? 例えば良渚文化の人獣面像の装飾は「劉斌らの研究が重なるにつれ、これは太湖流域の各良渚文化遺跡で広範に見られるもので、神の目や鼻、冠、器具の形状などは、すべて統一的な規範があることが分かった。[8]」とのことであって、地域的な特性というか基準のようなものがあり、太湖流域の人々には見ただけでその特性や意味するところが分かるように企画されたものであることが分かる。その企画が、殷周代の鼎に施された饕餮文の意味した「企画」と全く同じものである、という証拠はない。ただし、共通点があることはある。
- 頭部のみの図で示されている。
- 王権やそれに類似した権力の象徴として使用されている。
- 鼎は「いけにえの肉を煮る」祭祀に用いられた。鉞は王権の象徴であると共に罪人の首を切る道具でもあった[9]。そして饕餮は「人を食う」怪物とされる。いずれも「他人に死をもたらす存在」の象徴といえる。鼎の装飾は人身御供を連想させる。
饕餮が蚩尤と同一の存在であって、特に「首」だけが強調された人獣面紋を「饕餮」と呼ぶのであれば、饕餮とは黄帝に殺された蚩尤の首と解すべきである。そして、これが普通の人であれば、死して首のみになった場合、生きていることはあり得ない。饕餮とは、生前は神としても人や動物に類するものだったとしても「死ぬもの」であったのであり、死した後に何か別のものに変化して、スイッチが切り替わるように「不死性」のものに変わったとみなされたのであろう。中国の神話を見るに、どのようにして饕餮が「不死性」を獲得したのかには、主に3つの考え方があるように思うし、それぞれは交錯する点もある。
- 1型:一つは饕餮は死んだ者がなるという鬼である、という考え方である。日本でいえば、幽霊や怨霊ということになるであろう。
- 2型:二つめはいわゆる「不老不死の薬」を飲んでいて、最初から不死であった、という考え方である。
- 3型:三つめは死後、動植物等に化生した、という考え方である。特に樹木は順当に育てば人間よりも遙かに長寿である。また、彼は植物の種に変化して永遠に増え続けることになるかもしれないと思う。
- 3型亜型1:鳥への化生。3型の亜型として、死後鳥に化生したということがあるかもしれない。これはトーテムとしての鳥とは異なり、個人的に鳥に変化するものといえる。ただし、変化する前の人が鳥形のトーテムを元々有しており、その姿に「戻った」という意味合いが含まれる場合もあるかもしれない、と思う。死者が、死後、鳥に変じる、という話は各地にある。
- 3型亜型2:天体への化生。3型の亜型として、鳥への化生の延長に、死後天体に化生したということがあるかもしれない。死者が、死後、天に上って星になる、という話は各地にある。星も空を飛ぶものである。
私的考察・饕餮紋の変遷
饕餮と蚩尤が同一のもの。かつ、良渚文化以降で「首」だけが強調された人獣面紋を「饕餮」と呼ぶのであれば、起源的には殺された蚩尤の首が饕餮である、ということを前提として論じる。
河姆渡文化
蚩尤は死して植物(楓)に化生する植物神であるので、饕餮もその性質が被っていると思われる。「猪紋黒陶鉢」は猪の紋様の中に植物の葉と「目」が見られ、おそらくこの猪は「雄」と思われるが、植物を内包している。猪を生け贄として、その中にある「植物の精」のようなものを、能力のある者が取り出せば、それが植物となって発芽し、植物の豊穣をもたらす、と考えられたのではないだろうか。そのように考えれば、蚩尤あるいは饕餮は
植物の霊的な種を内包した獣神
といえる。彼は「植物の父」であるが獣でもある。
良渚文化
また、王権が発生した後は、「獣面紋神」は「豊穣をもたらすもの」として、王権の繁栄をもたらす「王権の父」とも考えられたのではないだろうか。「王(権)の父」となって、それは当代以外の代々の先祖の王達のことも指すようになり、古代中国の王はシャーマンも兼ねるので、「獣面紋神」には「先祖の王」や「シャーマン」の性質も併せて持つようになったと考える。シャーマンは先祖の橙の王と一になれるし、獣の霊とも、植物の霊とも一体になれる存在と考えられたのではないだろうか。
そうして、古代中国の王は人々を政治的に支配するのみならず、様々な霊的存在と交流し、なかだちをする存在ともなり、専制君主として君臨したのである。
縄文中期
管理人が、縄文時代の「獣面紋」と考えているものである。縄文中期の土器に見られた意匠である。大きな口、左右対称の図であることが、中国の獣面紋と共通している。
目や顔の周囲には細かな短い線が多数描かれており、これは植物を表したものかもしれないと思う。また「体毛が木であった」という須佐之男を連想させる図のようにも感じられる。
参考文献
関連項目
参照
- ↑ 林巳奈夫, 神と獣の紋様学 ― 中国古代の神がみ, 2004, 2004年7月1日, 吉川弘文館, p13, isbn:4-642-07930-0
- ↑ 鎌田正, 米山寅太郎, 1994-4-1, 1999-4-1, 六版, 新版 漢語林, page1213, 大修館書店, isbn:4469031070
- ↑ 林巳奈夫, 神と獣の紋様学 ― 中国古代の神がみ, 2004, 2004年7月1日, 吉川弘文館, p6-7, isbn:4-642-07930-0
- ↑ 林巳奈夫, 神と獣の紋様学 ― 中国古代の神がみ, 2004, 2004年7月1日, 吉川弘文館, p5, isbn:4-642-07930-0
- ↑ 林巳奈夫, 神と獣の紋様学 ― 中国古代の神がみ, 2004, 2004年7月1日, 吉川弘文館, p5, isbn:4-642-07930-0
- ↑ 袁珂『中国神話・伝説大事典』大修館書店1999年、515,516頁。
- ↑ 『中国神話・伝説大事典』大修館書店1999年、617頁。
- ↑ 良渚(上) 玉器文化の宝庫、長江文明を訪ねて、丘桓興=文 劉世昭=写真、人民中国インタ-ネット版(最終閲覧日:24-10-12)
- ↑ [https://kotobank.jp/word/%E9%89%9E-36744 コトバンク 鉞(最終閲覧日:24-10-12)
- ↑ 猪紋黒陶鉢、考古用語辞典、07-07-09