燭陰

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燭陰(しょくいん)は、古代中国の地理書『山海経』の巻17「海外北経」に記載のある、中国の神。

概要[編集]

北海の鍾山(しょうざん)という山に住む神で、人間状の顔と赤い蛇のような体を持ち、体長が千里におよぶとされる[1]

目を開けば昼となり、目を閉じれば夜となる。吹けば冬となり、呼べば夏となる。飲まず食わず息せず、息すれば風となるという[1]

文献によっては、『山海経』の「大荒北経」にある神・燭竜(しょくりゅう)と同一視され、前述の特徴に加えて燭竜の特徴を取り入れ、章尾山(しょうびさん)に住むもので、目が縦に並んで付いているなどと解説されている[2][3]。この目の特徴は、原典に「直目正乗」とある記述を解釈したものだが、近年では、目が前に飛び出した様子を表したものとの説もある[4]

『山海経』は平安時代の日本に伝わっているため、この燭陰も日本に伝わっており、『今昔百鬼拾遺』『怪奇鳥獣図巻』などの妖怪画集にも記載がある[5][6]

燭陰の解釈について[編集]

中国の神話学者・何新は、燭陰の住むという鐘山を大地の最北極と論証し、北極圏以北の夏と冬の昼夜の交代、またはオーロラが神格化されたものが燭陰だとしている。また中国の考古学者・徐明龍は燭陰を、中国神話の神である祝融と同一のものとし、太陽神、火神でもあると述べている[7]

「石の首」伝説[編集]

鍾山(しょうざん)の山の上に人間の首とそっくりな一つの石の首があって、その首は燭陰と同じ性質を有していた(『元中記』)[8][私注 1]

私的解説[編集]

燭陰とは、本来女媧型の女神であったものが、男性形に変更されたものと考える。「縦に並んだ目」のうち、上の一つは「宝玉」のようなものだったのではあるまいか。西欧のヴイーヴルといった蛇女神との関連性が示唆されると考える。祝融と同様、「火の神」としての性質はあったかもしれないと思う。

もしかしたら、西欧へ伝播してアリアドネー的な「殺される女神」の原型の一つとなった可能性もあると考える。

また、鐘山には山中にあるという「石の首」に対して燭陰と同様の伝説がある。盤古が死して、その頭が山に変化したとすれば、鐘山が盤古の頭そのものといえる。首型の神といえば他に饕餮がいる。炎帝蚩尤)と盤古が「同じもの」とすれば、


炎帝蚩尤)の首 = 饕餮 = 石の首 = 燭陰


となり、燭陰は饕餮の山神相かつ龍蛇相といえる。

三星堆遺跡の神人は竜蛇形ではなくて人型なので、燭陰との関連姓を示すのであれば、何故人型なのかの説明も必要かと考える。揚子江流域の神は、牛型で現されることが多く、何故牛型ではないのかの説明も必要とされよう。

関連項目[編集]

  • 伏羲:燭陰と同じく、男性形の龍蛇神である。
  • 盤古盤古の首と燭陰の性質が一致する。
    • 饕餮:首だけの神である点が一致する。

私的注釈[編集]

  1. これは殺された蚩尤の首(饕餮)と同一のものと管理人は考える。また、「盤古の首」としても、その性質は盤古と一致する。「石の首」の「石」とは「死んでいる神」の象徴でもある。

参照[編集]

  1. 1.0 1.1 高馬三良訳, 山海経 中国古代の神話世界, 1994, 平凡社, 平凡社ライブラリー, isbn:978-4-582-76034-7, page126
  2. 山海経 中国古代の神話世界, page172
  3. 山北篤, 佐藤俊之監修, 悪魔事典, 2000, 新紀元社, Truth in fantasy, isbn:978-4-88317-353-2, pages162-163
  4. 鳥飼行博, http://www.geocities.jp/torikai007/china/history/sanseitai.html, 三星堆遺跡:四川省成都の長江文明・古代蜀の青銅仮面(鳥飼行博研究室), [http://www.geocities.jp/torikai007/ 鳥飼行博研究室(Torikai Lab) 持続可能な開発と環境平和学:海大学教養学部人間環境学科社会環境課程, 2009-6-27
  5. 高田衛監修, 稲田篤信, 田中直日, 鳥山石燕 画図百鬼夜行, 1992,[国書刊行会, isbn:978-4-336-03386-4, page190
  6. 伊藤清司監修・解説, 怪奇鳥獣図巻 大陸からやって来た異形の鬼神たち, 2001, 工作舎, isbn:978-4-87502-345-6, page49
  7. 多田克己, 多田克己, 百鬼解読, 2006, 講談社, 講談社文庫, isbn:978-4-06-275484-2, pages237-243
  8. 中国神話伝説集、松村武雄編、教養文庫、社会思想社、1976、p13