地平線の太陽:ヒエログリフ

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Aker

古代メソポタミアにおいて、ASHという言葉は、「地平線」や「太陽」の神を示す言葉である。これは太陽と大地を一体化させて神とみなす思想といえる。一方、古代エジプトにおいては「アケル(Aker)」という地平線を神格化した神が存在する。この「神」と太陽との関係を考察してみたい。

アケル(Aker)について

アケルとは地平線を神格化した神で、「昨日(Sef)」と「明日(Duau)」という2頭のライオンに背負われた地平線に太陽が沈む図で現されるとされている。アケルは太陽が死んで地下世界に下っていくときに、境界の門を開ける役目を負っているというのである。ということは、おそらく太陽が昇る時にも同じ役割を果たす、とされているのであろう。太陽は「昨日」沈んで「明日」昇るもの、ということになるのであろうか。しかし、太陽が昨日の夕方沈んで、明日の朝昇るものであれば、その間の時間はすなわち「夜」ということになる。「夜」の間太陽は「山の下」に存在するものではないのだろうか。何故、アケルの背負う太陽が「山の上」に存在するのか、その点を考察してみたい。
おそらく、古代エジプトの人々は「一日」というものを日の出に始まって、日の入りに終わるものと考えていたのではないだろうか。太陽が頂点にある「正午」を「今日」とすれば、「昨日」とは「夜明け」であり、「明日」とは「日没時」ということになる。夜明けと日没に挟まれて山の上に存在する「太陽」とは、日中のことを意味するように思える。要するにアケルとは本来、日の出から日没までの「昼間」のことであったと考えられるのだが、日が出る時間と沈む時間が重要とされることから、日が昇る地点と日が沈む地点も重要視されるようになり、次第にその「地点」のことを指すようになったのだと思われる。
しかし、日が昇ったり沈んだりする地点は一定ではないため、それが拡大されて「太陽は地平線から昇り、地平線に下るもの」とされるようになり、アケルとは地平線のことである、とされるようになったのであろう。

アケル(Aker)は、エジプトハゲワシ(a)、カップ(k)、口(r)というヒエログリフから成っている。古代エジプトにおいて、太陽は「鳥のように空を飛ぶもの」とみなされ、かつ月と同様「水瓶のようなもの」とも考えられていたことが推察される。ただし、器に入れるものは飲み物だけではないため、料理した食物もカップには盛られることと思うのである。太陽を飲み込む「口」が肉食獣であるライオンの姿で現されると言うことは、「太陽」が「肉であるところの食物」として考えられていたともいえると思う。肉食獣が食べる食物は「肉」だからである。これを人間に例えるのであれば、主に肉を食べるのは牧畜民となるであろう。
すなわち、肉食獣としての「太陽を生み育てる神」は、太陽を育てて食べるための神であるといえる。牧畜民もそのような趣旨で家畜を育てるのである。そうすると、例えば万物が「大地の神」から生まれたものであり、かつ「大地の神」が「太陽神」であるから万物は「太陽に属するもの」であるとしても、その中には「動物といった知恵の劣る格下の太陽を食べる人」と「格上の太陽に食べられる宿命である家畜」というように、同じ「太陽神」から派生したものであっても、人と家畜との間には「食べるもの」と「食べられるもの」という明確な差が生じるようになると思われるのである。このように肉食的な牧畜民の太陽信仰の象徴といえるのが、肉食である「ライオン」という動物なのではないだろうか。
また、神が太陽を食べる場合、それは人と同じでいわゆる「口」から食べることになるのだと思われる。しかし、吐き出す場合にはそれはいったい「どの口」から出すのか、ということになる。例えば世界の中には、「ハイヌウェレ型神話」という言葉の元にもなった女神ハイヌウェレのように肛門から食物を出す神が存在する。そして、女神が太陽を生み出すと考えられる場合には、太陽は神の陰門から出てくる、ということになるであろう。いったい、古代エジプトの人々は獅子神のどの部分から太陽が出てくると考えていたのであろうか、ということになる。アケルの図像とヒエログリフを見る限り、昨日の獅子と明日の獅子の口の位置は同じ高さにあるし、ヒエログリフも同じ「口」で示される。地平線上で飲み込む「口」と吐き出す「口」の位置は同じ高さであると思われるので、おそらくアケルは、口から太陽を吐き出したのであろうと推察される。太陽を牧畜民的に「食物」とみなせば、どうやら毎朝昇ってくる太陽は、神の吐瀉物ともみなされていた、とそういうことになりそうである。

「月」という文字が付加された場合

上図は、「アケル」あるいは「アッシュ」という言葉に「月」を意味する言葉が付加されたものである。エジプトではそのまま「アケル」と読み、楔形文字では「アッシュ(USH)」あるいは「バッド(BAD)」と読む。いずれも意味としては「(大地も含む)太陽と月」ということになろう。
楔形文字は2つの文字を連結して一文字とする場合に、元の文字2つを併せた読み方をする場合がある。「BAD」という読み方がされる場合、「月」を意味する言葉は、右側に付加された横向きの三角形のことを指す。この横向きの三角形は「Winkelhaken(鎌)」と呼ばれている。その部分の読み方は「月」を意味するので「D」ということになる。そうすると、残された「BA」という子音は「ASH」という楔形文字と同じ形の部分に割り振られることになる。すると、実際に使用例があるか否かは別として、「ASH」という楔形文字は「BA」とも読み得ることになる。それはヒエログリフに治すと主に「脚(b)」を示す文字となるのである。
その名に「B」という子音が付く古代エジプトの「大地の神」に「ゲブ」がいるため、この神についても考察を行いたいと考える。

ゲブ(Geb)について

大地の神ゲブ(Geb)
古代エジプト人の「太陽」全体の想像図

ヘリオポリス神話におけるゲブは、大地の神であり、天空の女神ヌトの夫とされ、ゲブは地面に横たわった姿で描かれる。そもそもアケルは、ゲブの一部で有るとも考えられていたとのことであるので、ゲブとアケルは元々近い関係にある神々であったと思われる。そのヒエログリフは以下の通りである。

エジプトのヒエログリフの中で、「鳥」を示す文字は子音の「g」が充てられて、様々な文字が存在するが、どうやら「b」のつく神には「鵞鳥」のヒエログリフが使われると定められていたようで、これがこの神の特徴となる。この慣習はエジプト以外にも広がっており、例えばヒンドゥー教の神ブラウマー(Brahma)の乗り物は「鵞鳥」であった。
ゲブ(Geb)の「G」は英語の「great」に相当する。とすると、この神の真の名は「b」という言葉のみとなり、その子音が古代エジプトにおいては「大地の神の象徴」であったのだと考える他はない。それが楔形文字の「ASH」や「BA」と同じく「太陽」という意味であったとすると、太陽神をも意味することになる。そして、


アケル = アッシュ = バー = ゲブ


と同じ意味の言葉を並べていくと、最終的にアケルとゲブは同じもので、「太陽を生み出す大地と太陽そのもの」を神格化したものということになる。おそらく古代エジプトの人々は、当初「大地」としての役割をゲブに振り分け、地平線から上の「太陽」としての役割をアケルに振り分けていたのであろうが、太陽そのものである太陽神ラー等が独立した神として有力となってくると、獅子神であるアケルの「口」が持つ「門」としての意味が強調され、「地平線の神」という位置に落ち着くこととなったのであろう。

月の口

古代エジプト人の「太陽」全体の想像図

アケルとゲブがもともと同じものである場合、そこに「月」という文字が付加されるとはいかなることなのか、ということになる。それは「生み出す口」も大地そのものも「太陽」に属するが、食べる「口」だけが「月」となるということではないだろうか。特に「肉」を食べる牧畜民にとって、肉を食べる「口」だけが「月」というのはどういう意味なのであろう。ともかく、まずこのように「太陽」に「月」が付加された場合、「月」は自らは何も生み出さないけれども、「食べる」ことだけは行う、ということになる。
しかし、古代エジプトにおいては、ウアジェト女神のように「月神」であるところの「地母神信仰」も盛んであり、この女神がナイル川と同じものと考えられていたとすれば、少なくとも古代エジプトにおいては「月神」は「何も生み出さないで食べるだけ」の神とはいえなさそうである。では、古代エジプトにおいて、牧畜民的な「肉を食べる口が月」であるとされる太陽の「神」の「月」の部分がどのように働いていたのかをみてみることとしたい。

大地の神が何故男性なのかについて

例えば、古代ギリシャの地母神ガイア、アナトリアの地母神キュベレー、シュメールのニンフルサグというように、古代の地中海周辺世界の「大地の神」には女神が多い。これは女性が子供を産むからこそ、それを大地の神に例えて「母なる大地」とし、大地が様々な豊穣を生み出してくれるもの、と考えれば理解しやすいと感じる。「産む能力」を持つのが女性だからこそ、様々な豊穣を生み出す女神も女性なのである。では、何故古代エジプトの人々は「大地の神」に男性神を採用し、そのことに矛盾を感じなかったのであろうか。
それはおそらく、ヒエログリフが示す通り、太陽や月が「水瓶」のようなものとみなされていたことと関係があると考える。女性の下半身から子供が産み出されるのは女性のみの特質かもしれない。では、男性の下半身から出されるものは、何なのか。それは「小水」である。おそらく、古代の人々、特に牧畜民は自ら屠殺した家畜を食用にしており、経験的に動物の体の中には2個の半月状の臓器があり、そこから管が膀胱に繋がって、そこから更に尿が対外に排泄されるのだということを身近に知っていたのであろう。「尿」を産生する臓器こそが「腎臓」であり、世界を「人」に例えるのであれば、「半月状の腎臓」こそが「人の体内における月」であって、飲食を行えば尿意を頻繁に催すのと同じように、月神である川の神は、食事をして川の水を流すと考えられていたのであろう。
このような考え方をしていたので、古代エジプト人達は、大地の神も、月神も「男性神」であって矛盾を感じていなかったのだと思われるのである。要するに、ナイルの川の水は羊頭クヌム神の「小水」であるからこそ、その流れを管理するのもこの神の役目と考えられていたのであろう。すなわち、上エジプトに男性の月神が多いということは、上エジプトに動物の内臓の構造を熟知していた牧畜民が多く暮らしていたのだ、と考えられるのである。
要するに牧畜民的に「食べる口が月」とみなされる信仰を持つ人々にとっては、彼ら自身が太陽神の生み出したものであり、その肉体が「太陽」であったとしても、「食べて排泄する器官」の全ては「月」に属するものであったのである。神から排泄されたものが水様物であれば、「月」や「太陽」は水様性の物質ということになり、固形物であれば「月」や「太陽」も固形物である、ということになる。そのような神の排泄した排泄物や吐瀉物を食べる代わりに、人間も自らの排泄物や吐瀉物を神に戻していた。要するに牧畜民の思想とは、「神の排泄物である人間が同じ神の排泄物を食べて自らも排泄行為を行い、やがては死んで排泄物に戻る」という、いわば「排泄物信仰」ともいうべきものであったのである。
しかし、このような信仰に基づくと、しまいには口や内臓だけでなく、肉体も「排泄物や腐るもの」とされて「月」に属するものとされるようになるのではないだろうか。人の全身が「月」とみなされるようになれば、人も大地の神も全てが「排泄物」とみなされるようになり、世界は汚物まみれということになってしまう。要するに、
「世界は汚物まみれであって当然」
という思想が生まれることとなってしまうのである。このような思想が生じると、環境との共存や共栄が大切である、という思想が失われてしまうのではないだろうか。何故なら、世界は「汚れていて」当然なのであり、それこそが神の本来の姿なのだからである。
しかし、古代エジプトの信仰においては、そこまで月信仰は徹底せず、口や内臓部分だけが「月」であるというような中庸的な考えで信仰は確立され、人々の保護者としての豊穣をもたらす太陽神信仰も盛んであったと思われるのである。男性である大地の神「ゲブ」の姿は月信仰に偏りながらも、太陽神に対する信仰がまだまだ有力であったという証拠でもあるのではないだろうか。

ゲブとヌトとシュー

ゲブとヌトとシュー

ヘリオポリス神話における、ゲブとその妻ヌトとシューの関係は右図のようになる。大地の神ゲブの上に天空の女神ヌトが広がり、両者の境界をシューが支えている。古代エジプトにおけるアケルが、楔形文字のアッシュと同じものであるとすると、天地の境界を分けるシュー神もまたアッシュやアケルと同じ性質を持つ神であり、性質的にはゲブとアケルというよりは、シューとアケルの方が近いといえることに気が付く。どちらも「天地の境界を定める神」であるからである。
また、ゲブとアケルが本来「同じもの」であって、「大地と昼間」を指すものであったとしたら、古代エジプトの人々にとって「夜」とはどのようなものであったのであろうか、ということになる。ヘリオポリス神話におけるゲブの妻ヌトは本来「月」の女神であって、ウアジェト女神の一形態といえる。彼女の姿には星がちりばめられ、彼女が「昼の天空」の神ではなく「夜の天空」の神であることがわかる。すなわち、古代エジプト的に考えれば「一日」の内に属さない「夜」は、闇の時間、ヌトの時間、ウアジェトの時間といえたのであろう。
また、排泄物と解釈されようとも男性神が万物を生み出す能力を有することになり、突き詰めれば人間ですら「排泄物を出す排泄物」な存在でしかないのであれば、女性神は食べて排泄物を出すだけの存在となってしまい、「子供を産む」という行為ですら排泄行為にしかならないということになってしまうのである。こうすると、男性優位的な思想の基に、神は男性神だけあれば用が足りるということになってしまう。そして人間も同様なのである。自分の分身である子供が欲しければ、その時だけ女に食べさせて排泄させれば良い、それ以外に女の存在価値は無い、ということになる。
このような思想が広がるようになっても、古くから蛇地母神女神の信仰が盛んであった古代エジプトの人々は自分達の川の女神を見捨てることはなかったようである。食べて排泄するだけの存在に過ぎなくなったかつての地母神女神達は、新たに「王権の保護者」としての役割を背負うこととなり、そのように作り替えられていった。王達も自ら働かずに食べて排泄するだけの存在ともいえ、エジプト全土で敬われて、かつ自分達と同じ性質傾向を持つようになった蛇女神達を保護者に迎えることは、王権者にとっても好ましいことであるからである。保護者である神が食べて排泄するだけの存在であれば、王もそのような存在であって基本的には構わない。もちろん、実際には何も行わないわけではなく、政治も司法も軍事も行わなければならなかったであろうが、王権の発生と発達によって、素朴な蛇の太母もまた様々な姿と名を得て、新たな神々として再編されていったのではないだろうか。

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