城背渓文化

提供: Bellis Wiki3
ナビゲーションに移動 検索に移動
太陽神石刻。1999年湖北省秭帰県東門頭遺跡出土。高さ105cm、幅20cm,厚さ12cm。湖北文物考古研究所蔵。[1]。紀元前6000年頃?(石刻の右側の絵文字のようなものの詳細は不明)
伏羲氏と女媧氏。
女媧が天、伏羲が地を示す。

B7000?~B6000?。揚子江中流域の古代文化。大渓文化の前身。

当初は遺物の類似性から彭頭山文化に包括されていた。 土器胎土中からイネの籾殻が検出された。 湖北省襄樊市宜城県で1983年に発見された標式遺跡の城背渓遺跡は前期に属し、宜昌市枝江県の枝城北遺跡は後期の遺跡とされる[2]

太陽神石刻[編集]

細長い板状の石に、特異な姿をした人物像が刻まれ、その頭上には光り輝く太陽が象徴的に彫られている。また、人物の腰のあたりには、左右二つずつ円が彫られる。これはこの人物が「生まれた」とされる岩あるいはヒョウタンを現すものかもしれないと思う。この人物には「尾」のようなものがある。これについては神話的には主に3つの説があると考える。

  • ウナギ:インドネシア、ヴェマーレ族の神話に、大洪水は「ウナギ」が起こした、とある。
  • 蛇:伏羲には蛇の尾がついている。大洪水を生き残った神である。
  • 男根:台湾の伝承には巨大な男根を持つ巨人が出てくる。大洪水に関連している巨人である。

いずれも「大洪水」の神話に関する存在なので、元は一つの「同じもの」なのだけれども、ウナギと蛇と男根では、少なくとも現代的な感覚では乖離が大きいと感じるので3つに分ける。現代の中国神話から見れば「伏羲の蛇の尾」というのが一番の正解と考える。頭上に太陽を頂き、周囲に星々が散りばめられている構図は、神話に見られる伏羲・女媧図に非常に似ているのではないだろうか。「太陽神石刻」は「天の太陽と地のダロン(後の伏羲)」と考える。そしてこの頃はまだ「女媧」という概念が発生していなかったと思われる。彼女の原型は人物像の頭上に輝く「太陽」であって「白(バイ)」と呼ばれていたのではないだろうか。図の太陽そのものが後のミャオ族神話の「バロン」であり、そこから中国神話の女媧が発生していると考える。この頃はまだ母系の文化だったので「男性の上位に女性(太陽)がきて、男性が女性を支える」と考えられていた社会だったのだろう。

ここに刻まれた人物は「太陽神」であると考えられ、城背渓文化の人々はこの石刻を使って、天に祈りをささげていたのであろう。中国における太陽崇拝の起源を探る上でも興味ふかい。出所:「世界四大文明・中国文明展」[3]

との説があるが、この次にくる大渓文化で楓の木が重要視されるようになり、この巨人神がギリシア神話のアトラースのように「世界を支える岩の神」から「世界樹(楓香樹)」へと、その頃に変化したように思う。「世界樹(楓香樹)」の神と言えば蚩尤(デーヴァ)なので、この巨人神の名はまだ伏羲には移行しておらず、蚩尤(デーヴァ)、すなわち苗族的には「ダロ」とでも呼ばれていたのではないかと思う。名前に「白(バイ)」という言葉が含まれなければ、彼はまだ時代的には「太陽神」とみなされる立場ではなかったと考える。タイのミャオ族の精霊信仰では、精霊は基本的にダー (Dab) と呼ばれる、とのことなので

資料が乏しくて良く分からないのだが、城背渓文化がある程度社会の階層化が進んだ社会であれば、「軍事専門職」のような階級が発生しており、それに熊トーテムが伴っていた可能性があるが、正確なところは分からない。

ということで、「太陽神石刻」の人物は「ダロ」という名で、アトラースのように「死して岩となり世界を支える巨人」とするのが一番正解に近いと考える。熊トーテムが発生していれば、彼の名は「ダロン」と考えられ、後の苗族の祖・ダロンへとつながるだろう。よって「太陽神石刻」は「太陽女神(バイ)とダロの図」であって、後の中国神話でいうところの「伏羲・女媧図」と考える。

そして、また資料が少ないので分からないのだが、この神が「赤ん坊を食べた」りしていたかは謎である。どうもこの後くらいから赤ん坊を中心に「人肉食」の文化が台頭してきたように感じる。それはいったん禁じられたものが、再び復活してきたものなのではないだろうか。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

参照[編集]