城背渓文化

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太陽神石刻。1999年湖北省秭帰県東門頭遺跡出土。高さ105cm、幅20cm,厚さ12cm。湖北文物考古研究所蔵。[1]。紀元前6000年頃?(石刻の右側の絵文字のようなものの詳細は不明)
伏羲氏と女媧氏。
女媧が天、伏羲が地を示す。

紀元前6500年頃~紀元前5000年頃。揚子江中流域の古代文化。大渓文化の前身。

当初は遺物の類似性から彭頭山文化に包括されていた。 土器胎土中からイネの籾殻が検出された。 湖北省襄樊市宜城県で1983年に発見された標式遺跡の城背渓遺跡は前期に属し、宜昌市枝江県の枝城北遺跡は後期の遺跡とされる[2]

科学的測定により、城背渓文化から出土した稲の花粉は、現代の稲の花粉の特徴と一致することが判明し、約8000年前の城背渓文化で発見された米粒は人工栽培稲に属すべきものであり、これは世界で最も古い人工栽培稲の一つであり、稲作栽培の起源を研究する上で極めて重要な意義を持つことが確認された[3]

動物の遺骸が比較的多く出土しており、その中でも牛骨、鹿骨、鹿角、魚骨が大部分を占めている。このほか、貝殻、スッポンの甲羅、ハマグリの殻なども見られる。城背渓遺跡の出土品には、原始的な紡績に用いられた紡輪や、漁労・狩猟に用いられた石質網墜などがあり、さらに大量の動物遺骸も存在することから、当時の人々の手工業、家畜・家禽飼養業、漁労・狩猟経済が既に一定の発展水準に達していたことが示唆される。骨器には骨針、骨錐、骨鍬、骨片などがある。

太陽神石刻[編集]

細長い板状の石に、特異な姿をした人物像が刻まれ、その頭上には光り輝く太陽が象徴的に彫られている。また、人物の腰のあたりには、左右二つずつ円が彫られる。これはこの人物が「生まれた」とされる岩あるいはヒョウタンを現すものかもしれないと思う。この人物には「尾」のようなものがある。

この人物が何と呼ばれていたのかは定かではないが、おそらく「太陽神」ではないと考える。考え得る名前で有力なものは、台湾原住民の神話から類推するに、クニュー(グミヤーに相当)、ハールス(伏羲、インド神話のプルシャに相当)、デナマイ(北欧神話のユミルに相当)、

少なくとも太陽や天体が小さく現されるほどの「神」なので「巨人神」といえる。たぶん、プーラン族の神グミヤーとか、台湾の伝承に出てくるクニューという巨人の名とか、日本語の「クマ」に類する名で呼ばれたのではないか、と考える。後の「熊トーテム」の神で、父系の王権思想の象徴ともなった神であろう。ただし、非常に早い段階から、この神の「熊」としてのトーテムを隠そうとする動きがあったように思う。そのため、この神の「尾」は熊のようには現されていないし、神そのものも熊のようではない。熊のトーテムが別のもの、例えば蛇などに仮託されていると考える。

神人の尾について[編集]

これについては神話的には主にいくつかの説があると考える。

  • ウナギ:インドネシア、ヴェマーレ族の神話に、大洪水は「ウナギ」が起こした、とある。
  • 伏羲には蛇の尾がついている。大洪水を生き残った神である。治水を行った禹も「毒蛇」である。
    • 男根:台湾の伝承には巨大な男根を持つ巨人が出てくる。大洪水に関連している巨人である。山東省の八神の思想の陽主神の起源といえる。

いずれも「大洪水」の神話に関する存在なので、元は一つの「同じもの」なのだけれども、ウナギと蛇と男根では、少なくとも現代的な感覚では乖離が大きいと感じる。現代の中国神話から見れば「伏羲の蛇の尾」というのが一番の正解と考える。頭上に太陽を頂き、周囲に星々が散りばめられている構図は、神話に見られる伏羲女媧図に非常に似ているのではないだろうか。「太陽神石刻」は「天の太陽女神とグミヤー(後の伏羲)」と考える。伏羲女媧図の原型といえよう。そしてこの頃はまだ「女媧」という概念が発生していなかったと思われる。彼女の原型は人物像の頭上に輝く「太陽」であって「白(バイ)」と呼ばれていたのではないだろうか。図の太陽そのものが後のミャオ族神話の「バロン」であり、そこから中国神話の女媧が発生していると考える。

  • 犬の「尾」:この神の父親のトーテムは「犬」だったと考える。おそらく母系あるいは母系氏族制の時代の神で、父側のトーテムは名乗っていないのだが、時代が下ると犬トーテムの神ともされることがある。伏羲にも犬神だったという伝承がある。

ここに刻まれた人物は「太陽神」であると考えられ、城背渓文化の人々はこの石刻を使って、天に祈りをささげていたのであろう。中国における太陽崇拝の起源を探る上でも興味ふかい。出所:「世界四大文明・中国文明展」[4]

との説があるが、この次にくる大渓文化で楓の木が重要視されるようになり、この巨人神がギリシア神話のアトラースのように「世界を支える岩の神」から「世界樹(楓香樹)」へと、その頃に変化したように思う。「世界樹(楓香樹)」の神と言えば蚩尤(デーヴァ)なので、この巨人神の名はまだ伏羲には移行しておらず、蚩尤(デーヴァ)、すなわち苗族的には「ダロ」とでも呼ばれていたのではないかと思う。名前に「白(バイ)」という言葉が含まれなければ、彼はまだ時代的には「太陽神」とみなされる立場ではなかったと考える。タイのミャオ族の精霊信仰では、精霊は基本的にダー (Dab) と呼ばれる、とのことなので

資料が乏しくて良く分からないのだが、城背渓文化がある程度社会の階層化が進んだ社会であれば、「軍事専門職」のような階級が発生しており、それに熊トーテムが伴っていた可能性があるが、正確なところは分からない。

ということで、「太陽神石刻」の人物は「ダロ」という名で、アトラースのように「死して岩となり世界を支える巨人」とするのが一番正解に近いと考える。熊トーテムが発生していれば、彼の名は「ダロン」と考えられ、後の苗族の祖・ダロンへとつながるだろう。よって「太陽神石刻」は「太陽女神(バイ)とダロの図」であって、後の中国神話でいうところの「伏羲・女媧図」と考える。

そして、また資料が少ないので分からないのだが、この神が「赤ん坊を食べた」りしていたかは謎である。どうもこの後くらいから赤ん坊を中心に「人肉食」の文化が台頭してきたように感じる。それはいったん禁じられたものが、再び復活してきたものなのではないだろうか。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

参照[編集]