本日の日誌

毎日、いろいろとあるわけです。今日は、午前中お買い物に行って、午後はちょっと作業をして。で、買い物に行っている間に、注文した本が来て。今回は「世界神話辞典」という本を2種類買ったわけです。1冊は、神様の名前の辞書みたいな本。もう1種類は、類似した神話を集めた本。で、要するに、基礎資料の民話とか神話は大量に集めたので、今度はそれをどうやって研究するのかを学ばないといけないらしくて。まあ、「研究者」だからねえ? と思う。そうして分類法とか、分類の考え方とかを学ばないといけないらしい。


で、夕方遅くに工務店の方からの書面が来たので、チェックだけ軽くする。こっちは、専門家詐欺とかじゃなくて、「論文で都合のいいとこだけつまみ食い作戦」であるらしい-;。というか、そっちの出した論文から、私も自分の都合の良いところを引用して出したらそれでいいんじゃないの? という親切設計な気がするわけで@@。ともかく、こういう手間暇をかけることに何の意味があるのか? と思うわけで。で、なんか変な証拠集なので、証拠説明書を探したら、「無い」しー;。


で、昼間、買った本をさわりだけ読んでみて。日本神話のことが書いてあって。イザナミはカグツチを産んでヤケドして死ぬわけですが。その際に吐いたものとか、大便とか、尿とかからも神様が生まれたって古事記に書いてある、とあって。それで、あれ? と思って。便とか、そういうものが、何か違うものに変化するのは、「ハイヌウェレ型神話」ですよねえ? と思う。須佐之男に殺されるオオゲツヒメは、ハイヌウェレ神話と良く比較される。でも、イザナミのことをハイヌウェレとは誰も言わないですよねえ? なんで? と思う。そうすると、「処女の娘を生け贄に捧げる」ということは、「神の妻になる」ということでもある。河伯の妻となると称して若い娘を川に投げ込むように、と言われる気がするわけで。そういう神話や伝承はたくさんある。でも、イザナミの場合は、妻であるわけで、死ぬことは夫との別離を意味します。しかも、ヤケドして死ぬわけだから、要は「焼き殺される」ということ、と言われる気がするわけで@@。イザナミが焼け死んで夫は悲しむけれども、その立場が変わるわけではありません。そういう神話は他に2つある。1つはインドのシヴァとサティーの物語であり、もう一つはラーマーヤナのシータの物語、と言われる気がするわけで。サティーは夫と父親との仲が悪いことを苦にして焼死自殺する。シータは、魔王にさらわれて夫に助け出されるけれども、不貞を疑われて火に飛び込む。物語では、潔白であったのでヤケドしなかったことになっているけれども、これが現実ならそういうことはあり得ない話だし、結局シータはその後この世から消え失せるようにしていなくなる。で、サティーの物語は、印欧語族の寡婦殉死の制度とも大きく結びついている。でも、古い時代の神話である、シータもそうだしイザナミもそうだけど、彼らは寡婦になったから死ぬのではないのです。夫は生きていても死ぬし、神話のサティーもそう。要するに「サティー」の制度は、本来不貞を疑われた女性が、「罪がなければ燃えないだろう」と言われて課された「刑罰」であって、それが「死んだ夫への貞節の証」へ変化したもの、と言われる気がするわけで@@。罪がなくても死ぬでしょ、火にくべられたら?? と思うわけで。でも、それが「炮烙」でしょ? と言われる気がするわけで@@。「炮烙」というのは、殷の紂王が有名だけれども、「罪のないものは死なないだろう」といって、人々がかけられた刑罰のことである。結局「サティー」の起源は貞操も含めて「罪なきものは焼け死なないだろう(特に太陽神の化身である者は)」とされて、特に母系の女性の指導者的な立場にある人達が、男系の王に焼き殺されたもの。更に、それを正当化するために、ハイヌウェレ的な神話を付加して、焼き畑を行う人達に主に女性指導者を焼き殺すようそそのかしたもの。用は、イザナミ神話、サティー、シータの物語は、起源は全て一つで、特にイザナミの神話は、「炮烙」の方便にハイヌウェレ型神話が付加されたものとして、貴重、と言われる気がするわけで@@。だから、これらの神話の起源は、良渚文化にあるけれども、根源的な「神話」はない。なぜなら、それは「神話」ではなくて「刑罰」だから、と言われる気がするわけで@@。誰か、自分の年くった母親とか妻を「用済み」だと思って殺した王がいたでしょ? と思う。そうすると、「自分の妻が気に入らないことをした、とそれだけのことで殺そうとしたじいさんがいたでしょ?」と言われる気がするわけで@@。5000年以上たっても、ろくでもない遺伝子は健在だし、と思う-;。そして、「なんで、それはあんまりだ、と思って苗族他、犬祖を持つ人々が良渚文化から離脱したのか分かるでしょ?」と言われる気がするわけで。何の罪もない人達を、「気に入らない」と言うだけで、王が「罪がなければ死なないだろう」と言って焼き殺したからでしょ? と思う。


イザナミもそうやって死んだ、と言われる気がするわけで@@。で、イザナギ・イザナミというのは原始的な陰陽思想でもあるので、イザナギが陽、イザナミが陰、と言われる気がするわけで。要するに、「医学書」とかそういうものは多くの人の死の上に成り立っているものだから「陰」、「民話」とか「神話」は生きている人が語り継いできたものだから「陽」ってことなんですよねえ? と思う。人は死んでも、民話は少しずつ形を変えて次の世代に受け継がれて生きていく。だから、「医学書」を1冊家に入れたら、少なくとも「民話の教科書」を1冊家に入れないといけない。でないと、最低限の釣り合いすらとれない、と言われる気がするわけで。要するに、民話の基礎資料は「症例報告」みたいなものであって、そういうものを纏めたものが教科書でしょ? と言われる気がするわけで。だいたい、今家に医学の教科書が2冊あるし、論文が一つある。前立腺癌の取扱規約が2冊と、それに関する論文が一つ。その「陰」の呪い、イザナミであることの呪いを解くには、同等の価値を持つ「人文系の教科書2冊」と基礎資料が必要、と言われる気がするわけで@@。そうすれば、「陽」の側に行ける。イザナミではなくて、イザナギとなる、と言われる気がするわけで@@。ともかく、買えと言われたものを買うと、今まで気がつかなかったことに気がつける。神話でも裁判でもそんな感じだから、買わざるを得ず、ということで、親に頼み込んで買うべき物を買って貰ったわけですがー;。人文系の成書で、医学書並みの値段がするものって、洒落にもならんでしょ。置く場所もないほど「でかい本」が来るぞ、と思うわけで-;。でも、前立腺癌でいやがらせした一番の目的は、家に「取扱規約」を入れることだったんですねえ? 入れたら、それだけ陰の方向に引っ張られるからね?? と思う。


そして、「神域を穢した者に、罪がなければ焼け死なないだろう、と言って火を放つことは良いことか? それとも悪いことか?」と聞かれる気がするわけで@@。それは、誰かにやれと言われて、やったことなんじゃないの? まあ、喜んでやってたのかもしれないけどさあ;;、と思う。しかも、それは焼き殺されなければならないほどの罪か? とも思う。一番の被害者が自分であったのだとしても是とはいえない。まずは、命じた者が有罪とされるべき案件である。どんな身分の者であっても、とそれだけのことです。私はそんなことしか言わない人間である。


ええと、あとはそれから忙しさに紛れてたわけですが、7月はまっすー、杉の木の兄さん、はっしー、のんちゃんのお誕生日があったのでした。おめでとうございます<(_ _)>。駄目なあたくしで申し訳でないです;。



Posted by bellis 00:00 | 日記 | comments (x) | trackback (x)
本日の日誌

今日は、設計士の従兄弟の代理人弁護士から書類が届きました。夕方頃(5時半~6時半くらい)に,近所の家でやたらと高校生くらい?の女子が2人大騒ぎしてたので、「なんだろう?」と思っていて。そこは以前にも、しつこくピアノをひいていて、うるさくしてた家であって。一応写真とか撮っておいて。夜、届いた書類をよく数えてみたら、書証が一つ足りませんでした。まあ、後で裁判所でコピーさせて貰えば良いわけですが。分かりやすい、「嫌がらせ」だと思うので、一応裁判所と相手の事務所にFAXも入れておきました。こちらが持ってない書証について取り調べされても嫌ですし。


で、一応「建築士」と名の付く判子付きの「意見書」とか出てきたわけですが。「瑕疵担保保険会社が工事監理をしてる」なんて、書いてある時点で駄目でしょ(他にも駄目な点はいくつもあるー;)、と思う。しかも、建築士の登録番号とか、所属建築士会とか、勤務先とか全然書いてない、といううさんくささなわけで。まあ、まず「該当者」がいるかどうか探さないと。というか、いなかったら完全に「真性が黒」になっちゃうし、と思うわけで。普通、意見書や陳述書は、「証人尋問」予定者が出すもんじゃないの? と思う。やれやれ。やるなら証人に呼んで、法廷で大嘘つかせるくらい腹くくらんと? とか思う? というか、やるかもしんないけど。そこの事務所は、下っ端に任せてられなくて、上司が代理人弁護士になるらしいです。高校のパイセンだし、と思う。


で、お外組の母親と姉の方も、だいたいいつもと同じ仕事をして。


夜には、「VS嵐」がお休みで、見るバラエティーがなくなっちゃったので、まっすーのドラマを見る。主役は唐沢寿明、真木よう子で、なんだか渋い配役だと思う。これは録画だと分からないけど、「嵐にしやがれ」の次の番組なので。土曜日10時っていったら、ちょっと前まで勝利君が主人公のかわいらしいドラマとかやってたのに、だいぶ雰囲気が変わったし、と思う。まっすーの、微妙な台詞棒読み、大根っぷりは初々しくて可愛いと思う。で、話の内容は刑事物で、「他の人には聞こえない音が聞こえる真木よう子」と、「ハマの狂犬と呼ばれる警部補の唐沢寿明」が二人で難事件に挑む、という話である。たぶん。で、まっすーは、「ハマの狂犬」を兄貴と慕う若い刑事の役だし。だいたい、こんな設定の辺りでドン引きする-;。まっすーが「兄貴」と慕う「犬」って「誰のことやねん? 槃瓠のこと?」と突っ込みが入るわけで-;。まっすーって、私が思っている以上に、某特定の人への偏愛と敬愛が強いぞ、と思う。でもって、「狂犬」の唐沢寿明が、上司のキム兄に「お前、あの女の犬になるのか?」と聞かれる場面があったりして更にドン引きする-;。しかも、真木よう子という人の出るドラマは初めて見る気がするわけですが、なんだか、その人に「千年王国とは何か?」「犬を家来にして何をするつもりなのか?」とか聞かれる気がするわけで@@。この人も名のある部族の「神」である立場らしいのですが。


どうも、ゴミもどんどん掘られつつあって、出入り口が開きつつあって。しかも、フォントとか本とか必要な物品が大量に家の中に入って、なんだか今までとはちょっと違う、というか、「本当に外に出られるんだな」と感じることが多いわけですが。でも、なんだか思ってたのと違う、というか、「千年王国」とか、「犬を家来に」とか、なんなのその、「黙示録」と「桃太郎」を足して2で割ったような話は?? と思うわけで-;。7番目の兄さんには、「「伝説の人の生まれ変わり」っていうと、みんな好き勝手なことを言うので、あまり気にせず適当に聞き流しておくように。」と言われる気がするわけですが。でも、最近、そんなことしか聞かれない気がするわけで;。あたくしは、「同じ高校で文系と理系なら、理系の方が頭が上」とか、そんなことしか思わない俗物でござる;。適当なイメージで「イエス・キリスト像」を押しつけるのやめて-;、と思うわけですが-;;。なんだか、変な一日だったのでした。



Posted by bellis 01:30 | 日記 | comments (x) | trackback (x)
本日の日誌

今日は、お手紙を出しに行って。午後少し書類も書いて。


お外組は、15cmくらいの木の枝とか出ていて。坑道自体は、ようやく東西にまっすぐになって。まだ、ビニールの棒のようなものが埋まっているらしいです。



Posted by bellis 00:23 | 日記 | comments (x) | trackback (x)
本日の日誌

今日は、そろそろ貧血も回復してきたので、なるべく通常運転に戻そう、ということで、午前中買い物に行って、防犯カメラの中身をチェックして、午後は書類もちょっと書く。


で、お昼寝している時にちょっと夢を見て。なんだか自分がどこかの学校にいて、図書館で本を読んで、何かの会議に参加して出されたものを他の人の代わりにパクパク食べる、みたいな夢で。本を読んで勉強しなさい、ということなんだろうな、と思う。だいたい、自分ちがそろそろ図書館みたいである。


で、夜には潤ちゃんの「永遠のニシパ」を見る。だいたい、昔は、上役が威張ってた、とかそんな上辺のことはどうでも良いわけで。(そもそも明治維新は民主主義を目指したものではないし)どんな時代でも、時代を動かそうとしてきた人達はいるし、その内のいくたりかは実際に時代を動かしていた、とそれだけのことである。威張って動かしてたのか、這いつくばって動かしてたのか、そんなことは知らんがな、というだけである。


ちょっと前に、「日本伝説体系 山陰編」という本を、「買って欲しい」と言われたから買ったわけで。伝説と民話とどこが違うのか、と、まずそういう話になるわけですが、伝説というのは、主に具体的な地名とか、橋や建物とか、そういうものに関わるものを「伝説」という気がするわけで。民話はもっと広くて、「単なる昔話」で、特定の土地とかに関わらない漠然とした話もその中に含まれる。で、山陰の伝説には、「オオゲツヒメ」に関して、記紀神話にはない伝承が残されている。それによると、オオゲツヒメが殺されて、頭から馬が、体から五穀が生まれたのだけれども、オオゲツヒメには沙姫という小さな娘がいて、母親を殺された沙姫は五穀の種を持って人界に降り、各地を開拓して歩いた、という話である。(あるいは開拓に相応しい地を探して選んだ、という話)


女神が殺されて、作物になる、というのはハイヌウェレだけれども、この小さな「沙姫」というのは何? と思う。明らかにハイヌウェレ型神話には「ない要素」である。


菅江真澄の旅日記は、御頭祭についての記述があって、小さな男の子が柱に縛り付けられて殺されそうになる、という祭祀がある、と書かれている。殺されそうになる手前で、国司の使いが乗り込んできて、男の子を助けるところで祭りは終わるわけですが。これが、かつて男の子を殺した生け贄の祭祀の名残であることは明らかである。


で、ニシパに繋がるわけですが。だいたい、アイヌの人達が木を削って作るイナウは、本土式にいえば「御幣」のことでしょう? と思うわけで。彼らは、イオマンテといって、熊をある程度育てて、殺す「熊送り」の祭祀を行うし、この祭祀は「飼い熊型熊送り儀礼」(飼熊送り)と呼ばれて、北海道、樺太(サハリン)から黒竜江(アムール川)流域のハバロフスクあたりに分布し、北海道には樺太から入ってきたのだろう、と言われている。黒竜江は、中国東北部と、ロシアとの国境を流れる川であって、上流はモンゴルとの国境を流れてる。この文化を持つ人々は5世紀には北海道に入ってきてた。で、熊送りの祭祀は12世紀頃に始められたらしいのですが。この祭祀の思想は、熊を殺して天に送ると、また肉や皮を持って戻ってくる、という思想である。漁撈民の、「魚の豊穣のために人の生け贄を捧げると大漁をもたらす」という思想が熊を食料とする人々の間に、中国沿岸を通って中国東北部にまで広がり、魚が熊に置き換わった思想なのだと思う。でも、熊トーテムの人々は、これとは別に、熊と共に暮らした人が、時を経て戻ってくる、という思想も持ってる。だから、「熊の神が戻ってくる」という思想は、漠然と大漁が期待される、という以上に、もっと現実的、具体的にそう考えているわけです。


同様に、縄文時代の本州は、漁撈民の思想と、北方の熊信仰の人々の信仰が衝突・習合しており、御頭祭もそうしてできた祭祀といえる。イオマンテでは、広場に引き出した熊を杭につないで、矢を射かけたりしていじめた末に殺すわけで、御頭祭とイオマンテは、殺す対象が人間の子供なのか、熊の子供なのか、というだけで、似通った祭祀なのではないかと思う。要するに、殺された子供は、更に「良き首長」の姿となって戻ってくる、のだと信じられていたのだと思う。


それが、もうちょっと時代が下って、農業が主力の時代に、再構成されたのが沙姫の伝承であると思う。沙姫は「殺されて戻ってきた神」の象徴であると思う。もはや、「戻ってきた神」そのものが神話の主体となっている点は、それを「黙示録」というかどうかは別として「原始キリスト教」の影響があるかもしれない、と思う。


要するに、イオマンテ、御頭祭、沙姫の思想には、直接の伝播関係がないとしても、連続性があり、いずれも漁撈民と熊トーテムの人々の思想が習合した結果である。彼らの中では、「送った神」は「戻ってくる神」でもある。アイヌの人々が、何故過酷な弾圧を受け、「絶滅政策」の憂き目を見ることになったのかといえば、結局その思想が邪魔だ、ということに尽きる。沙姫の伝承や御頭祭は、本州では出雲系の有力な氏族がかろうじて守り抜いてきたが、それでも千年以上前には既に正史からはじき出されてる存在である。蛙の王家にとっては、「死んだ神」は「戻って来ない存在」である。だから、もし「戻ってくる神」がいたら、それは「存在しないもの」「あり得ないもの」「あってはならないもの」である、ってそれだけのことである。


では、ここにいる私は「存在しないもの」なの? 「存在するもの」なの? ということになるわけですが。そろそろ、家の部屋の扉を塞いでいる石やゴミも取れだしているので、だんだん「存在する」方向になりつつあるのだと思う。ということで、どうやってこの世に「存在する」のか、ということになるわけですが、ともかく「医者なんて最底辺の人間がやる、死体を扱う汚い仕事」なので、そんな風に「存在しないように」というのが全体的な、特に上の方の一致した意見なのだと思う。まあ、「目」を見ても、だいたいみんなまともな思考をしてなくて、いっちゃった人間ばっかりだし、と思うわけで。(でも、学歴偏重社会であるので、もうちょっと脳みその軽い庶民階級の人は、上の方とはちょっと違う考え方をしてるのも事実な気がする。「自分とこの大姥様は、国立大学を出た本物の医者だし」って鼻を高くしてる人達もいるよね?? 諏訪の衆とかね?? と思うわけですが-;)というわけで、「人々の気持ちが分かる人文系の研究者になって」「存在するように」ということなのだと思う。


というわけで、医学書を買ったように、人文系の教科書を買え、というのが最近の課題らしくて。学者どころか図書館でしょ。「世界神話伝説体系」なんて個人で買うような本じゃないし?? と思うわけですが-;。


で、話はニシパに戻るわけですが、武四郎がアイヌの少年を養子にして教育を受けさせた、とかそういう辺りがフィクションであるらしいので。「頑張って一生懸命養子の子を育ててる」ってそういう事でしょ、と思う。というか、私の養子のちびっ子は「英語ができない蛙のお母ちゃんに、あんたが英語を教えてあげるように」と言われて、英語を勉強してるらしいー;。「頼りにしてるー」と援護射撃してるわけですが。やる気を出させるのは大切なことなんだなー、と思うわけです-;。



Posted by bellis 01:21 | 日記 | comments (x) | trackback (x)
本日の日誌

今日は、じいさんの病院でござる。


じいさんは、前立腺癌で長らく通院しているわけで。カソデックスで、長らく良好な結果が得られていたわけです。幸運なことに。そうしたら、3ヶ月前に、どっかの病院のドクターが、


「もう完治したから来なくていい。薬も出さない。」


と仰ったわけです。そんときに、あたくしは付き添っていなかったわけで。じいさんとばあさん二人の時に、そういうこと言いやがったわけ。我が家の「かかりつけ医」であるあたくしを差し置いて何言ってやがる、癌に「完治」なんてあるわけねーだろ、と思う。で、じいさんが「行かなくてもいい、というのもあれなんで検査くらいして貰いたい。」と言って、ばあさんも「半年後くらいでどうでしょう?」と言ったらしくて、半年後に検査ということになったわけです。で、家に帰ってきた家人から、それを聞かされたあたくしが激怒したわけです。


治療方針を変える時には、注意深い経過観察をするのは当たり前である。半年も放置ってどういうことだ、3ヶ月後に再検査しろい、と思う。だいたい、経過観察なんだから、抗がん剤を切るなら、最初の1年半くらいは3ヶ月に1回検査、その次の1年半は半年に1回の検査、その次は1年に1回で、最低5年は追いかけるものでしょうが、と思う。「癌」だし。というわけで、病院に「せめて3ヶ月後に検査して貰いたいんですけど?」と電話したら、看護師が「完治しました」って医師法違反な発言を繰り返す、「先生とお話できませんか?」と言ったら「どっか行っていません」とかって言うわけで。で、ともかく3ヶ月後に予約を入れたわけです。そうしたら、9時半からの診察だから、7時半に来い、と言われたわけで(呆)。


で、本日は大垣病院の論文とか、取扱規約とか持参して、主治医様と色々お話をしようと思っていて。もう年でテストステロンが上がりそうもないから、薬を切って、様子をみましょう、というのなら分かるわけですが、「完治した」なんて言ったら、「診断書を書け」って、書けるものなら書いてみて、と言おうと思ったわけで。


そうしましたら、診察室に入って開口一番「PSAが上がってきてるから、治療を再開しましょう」と言われたわけでー;。3ヶ月で、0.22になってるし。と思う。まだ、精巣からテストステロンが出てるんだ、と身内でも思うわけですが-;。で、CABをやるとかやんないとかでちょっと医者の説明もぶれて。本当なら、正式な内分泌療法は、リュープリンとかの注射とカソデックスの内服療法の併用らしいのですが。今までは意図的な手抜きで、カソデックスの内服しかさせてなかったんだよね? ね? と思うわけで。あたくしもオーバードーズ(過剰医療)は好きではないので、結果さえちゃんと出てれば、ちょっとした手抜きくらいで目くじら立てるつもりはないわけですが。まあ、次にもPSAが下がってなかったら、CABをやりましょう、ということになって。カソデックスが効かなくなってPSAが上がったのではないので、服用を再開すれば大丈夫だとは思うわけですが。まあ、そうしましょう、とあたくしも賛成しまして。医者が電子カルテにも書き込んでたから、次に行ったら内容が消えていた、とかないであろう、とは思うわけですが。


それ見たことか、泌尿器科の部長よりも、臨床やったことのないあたくしの見立ての方が正しかった、と思うわけで。国立大学を出た医者なんて、まともな思考回路が残ってれば、みんなこんな感じで、高慢ちきの鼻が高いわけで。裁判所で裁判官だの、弁護士だのに嫌がらせさせるのとは話が違うの。これこそ私の専門分野だし、とこういうときだけ思う-;。まあ、でも、臨床経験がないから、教わったとおり、教科書通りのマニュアルなプロトコルしか考えないし、求めませんので。初心や基本は大切だなあ、と思うわけです。うちの母親は、「主治医があんなに低姿勢になっているところを始めて見た」と言っていたわけで。日頃、どんだけ威張ってたんだろう? 私のいないところで?? と思う。そこんところの泌尿器科とは、じいさんが癌になったときに、ぺーぺーの医者とやり合い、今回は部長様ともニアミス、ということで、なんかもう私は超有名人になってそうである。(耳鼻科の部長は大学時代にほんのちょこっとだけ付き合ったことのあるのだし、人間関係の狭い田舎なんて本当に嫌だ、と思うわけですが-;。)


で、家に帰って、昨日の翔君のブラックホールのテレビを見ていたら、「万が一の時の治療方針が、医者の言った通りで良いかどうか調べて確認しておきましょう」と、4番目の子に言われる気がするわけで。母親にも言いましたけれども、じいさんももういい年なので、明日になったら死んでるかもしれないし、それが寿命なら仕方ないし、なにがなんでも生かしておきたい、とかは思わないわけですが。でも、医者にわざわざ殺される必要もないので。そういうことは、家族としては阻止しようと思うわけです。というか、人としての良心として当たり前のことじゃん、それ、と思うわけです。それだけのことなのですが。


で、後は、最低限必要な本も揃ってきたので、そろそろ「買う必要があるもの」と「買っても良いもの」の線引きをしましょう、と言われる気がするわけで。「買っても良いもの」はおこづかいでちょっとずつ買ってもいいわけだから。というわけで、フォントも含めて、必要なものを計算して。だいたい、なんでも来月くらいでなんとかなるかな、と思うわけです。あとは、もう山海経とかマハーバーラタとか読んで勉強するわー、ちょっとずつ、と思うのです。でも、その前に裁判と穴掘りだからねー;。



Posted by bellis 19:24 | 日記 | comments (x) | trackback (x)