本日の日誌

本日は、夕方ぐらいから雨が降ったので、お外組はそれまで仕事をして。夕方は書類の整理とかをちょっとして。私の方は、なんとかノルマをこなしたのでした。


で、朝から「漁撈民の信仰を知りたければ、パプア・ニューギニアの民話を読むように。」と言われて、斜め読みしてみたわけで。パプア・ニューギニアはオーストラリアの北、インドネシアの東にある島々だから、地理的には台湾、沖縄にまあ、近いのかな? と思う。で、読んで見たら、


ココヤシの実は、男の人の首で、食べると、食べた人の胃袋の中で予言をする、ってあった@@。


それから、女の人がバラバラにされて、その首を芋と一緒に蒸したら、予言をした、ってあった@@。


それで、7番目の兄さんに、「鳴釜神事の原型がどこにあるのか、それで分かったでしょ?」と言われる気がするわけで。食べたものが、体内で予言をするのは、ギリシャ神話で、ゼウスが妻であるメーティスを食べたら、メーティスがゼウスの体内で予言を始めた、というのと同じ話、蒸した首が予言をするのは、鳴釜神事と同じ話、と言われるわけで。要するに、それは芋や木の実を食べたら、そうなるって話でもありますよねえ? なんで、芋を食べたら、芋が予言をしてくれるのですかね? と思う。


そうしたら、漁撈民の神話では、海水が女神で、淡水が男神なので。魚も地面も、そこから生えるものも、全ては淡水と海水の交わりから生まれたものである。だから、女神は海の女神であり、男神は雨水をもたらす天の神、あるいは川の神、ということになる。植物に例えると、地面の上に生えるものは、ペニスに相当するから男性である。一方、芋類は地面の中で育つものなので、地面そのものも含めて、体内で子供を育てるもの、ということで女性に相当する。地面そのものは男性も女性も生み出すし、男も女も死ねば土に帰るので、両性具有である。魚は本来的には、両性具有であったはず。貝はちょっと特殊であって、女性器に似た貝は女性であり、そうでないものは男性で現された、と言われる気がするわけで@@。


でも、乙姫様って、そもそも蛇じゃなくて、亀なんじゃないの? と思う。そうしたら、「古代中国に玄武っているでしょ。玄武は、亀と蛇が交わっている神です。要するに、古代の人々は亀と蛇の区別がついていなくて、三日月の時は蛇であり、満月の時は亀であり、両方とも同じものだと考えていたから、それが玄武です。」と言われる気がするわけで@@。漁撈民は、漁の結果で食事事情が左右されるので、広範囲で狩りと採集を行う大陸の狩猟民よりも、食料の供給が不安定でした。だから、世界最古の「農耕」とか「栽培」というものは漁撈民が始めたものなわけです。で、彼らは植物は男性、芋は女性、収穫物(実)は「人の首」だと考えていました。木は実を落としても死なない。だから、人も首を切っても死なない、と考えていました。そして、「月」とは、大地から切り離された「首」だと考えていました。月は、大地に隠れたり昇ったりしますが、大地から切り離されても死なない。欠けても、また満ちてくる神秘の存在です。しかも、魚の繁殖とは大いに関係のある存在であるので、人々は魚の運命も、それを食べる人々の運命も「月は知っている」と考えていました。人々は、大地から育つ、植物の「首」を食べるわけですが、植物の親である「大地の首」が「月」なわけですから、子供である「植物の首」である「収穫物」は、親と同じもの、すなわち「月」でもある、ということになります。植物そのものは、大地でもあり、「月の体」でもあるのです。そうすると、人間も同じ事で、「体=大地」、「首=月」ということになります。切り落とした人の首が予言を吐く、というのは、「切り落とされた首」=「月そのもの」ということで、切り落とされて、純粋な首になることで、生首は人々の運命を知る存在となる、と考えられていたからです。それが、生物として生きているのか、死んでいるのか、生なのか、火が入っているのか、ということはどうもいいわけです。と言われる気がするわけで@@。


で、栽培ということを始めたのが、漁撈民であったので、彼らの信じる「生首(収穫物)を食べる信仰」は、農業の伝播と共に、世界中に広まりました。「農耕」ということは、それだけ食料の供給を安定化させる大きな技術革新でしたが、おかげで、人類は農耕の開始と共に、全てが「人の生首を食らう月」となる呪いをかけられてしまいました。だって、麦粒も米粒も、みんな「人の生首」なわけだし。人が麦や米を食べる限り、人は麦や米と同じものなのです。どうしようもありません。こういう農耕民の思想に、あまり染まらなかったのが、牧畜を選んだ人達でした。彼らも、「人は食べるものと同じもの」と考えてはいましたが、家畜の乳とか肉を重要視しますし、そもそも本来の遊牧民は、家畜の数を減らすのが嫌なので、あんまり家畜を殺したりもしません。だから、「生首を食べる」という思想に固執する理由が牧畜民にはありませんでした。だから、非常に早い段階から、農耕民の信仰は迷信だと思って、あんまり重要視していませんでした。


牧畜を行う遊牧民は、次第に農耕地帯に侵入して、略奪や定住を行うようになり、その結果として、階級社会も形成しますが、一方で農耕民と混血習合するようになります。そうすると、農耕民の「迷信」を解消しようとするような社会的な動きも起きますが、その一方で、遊牧民も農耕民の文化の影響を受けるようになります。要するに、「農耕儀礼」であったはずの「初子の犠牲」が、家畜の豊穣の儀礼にまで拡大されたりするようになる。そして、農耕民の間では、豊穣の祭祀であったはずの、人頭食が、それを迷信だと思っている支配者の間では、単なる「常食」として広まったりする。これは、それを聖なる儀式と考えている人々から見れば、まさに神と人に対する冒涜、ということになります。


農耕民の間では、人頭は、食べると太祖である月と同じものとなって、食べた者に予言をもたらしてくれる存在とされます。支配者達は、その考えを利用して、被支配者の頭を食べては、「自分が神の予言を受ける存在だから、自分が受けた予言の言うとおりにしろ」と言いました。実際に、予言なんて受けても受けなくても、そう言えば被支配者は「その通り」だと思って、おとなしく言うことをきくのだから、なんでも非常にやりやすくなります。おかげで、この「支配者」の子孫達は、支配する相手の考えを読んでは、「おまえの考えている通りにしたんだから、言うことを聞け。」と言うようになったし、それで足りなければ、集団で、「世の中というものはこういうものだ。」と洗脳して、「こういうものなんだから、言うことを聞け。」と言うようにもなりました。まあ、例えば、「水道工事は施主が申請するものなんだから、工事を完了させないのは施主が悪い」とか、そういう妙なことを言うわけです。工事をやんない業者が悪いんですよ? 業者に損害賠償を請求して何が悪いのか? で、足りなければ、「監督官庁の監督不足で行政訴訟を起こされたいですか?」という感じの本をいくつか目に付くところに置いておく必要がある、でなければ何を勝手に言うのか知れたものではない、ということでー;。


ということで、「穀物を食べる」ということは、「生首を食べること」と同じ事ではない。他人の生首を、生首は食べ物である、という理由で勝手に食べちゃ駄目、という動きは、政治的、法律的、宗教的に、様々に試みられてきたわけですが、なにせ「一番上」にいるのが、人の首も、猿の首も「自分の食べ物」だと思ってる連中だからタチが悪い、ということで。だから、2000年前であったなら、イエス・キリストに「何故、自分は残酷な羊飼いでなければならないのか。良き羊飼いであってはならないのか?」と聞かれたら、「羊の首は、単なる食物であるので、首刈りの役を命令された者が、それを厭おうと厭うまいとその役目は果たさなければならない。それが、人類が農耕を始めた時に、定められた「首」の運命だから。」と答えた、と7番目の兄さんは言うわけで。でも、イエス・キリストはその答えを知ることなく、「人とは全て、個々の人として公平であり、平等である」という運動を始めてしまった。その考えはローマに利用されもしたけれども、多くの賛同者もいる、ということで。そして、昔の人は、「生まれ変わり」とは、「単なる若返り」と考えていたので、イエス・キリストが生まれ変わった先で、「政治とはあらゆる人々の言葉に耳を傾けて行うべき」という考えで統治を行う女王となり、その女王の政治的な後継者が大名家である、とうことは、もはや世界中の人々が注目するところ、ということで。蛙の目の人々は、自らの遠祖である、黄帝や羌子牙を神のように崇めている。でも、大名家が同じように信奉しているのは、「若返ったイエス・キリスト」であるところの女王であるということで。大名家が、彼らの神と崇めているのは、富の王家の神ではなく、彼らの遠祖といえる女王である。それを、イエス・キリスト自身とみなすのか、別の人物であるとみなすのかは別として、大名家は長い間、彼らの神の信念を受け継いでやってきたわけで。だから、大名家が、富の王家の神である大国主を捨てて、彼らの「女王とその形式的な夫」を選ぶと言うことは、事実上の富の王家からの独立、謀反ということ、と言われる気がするわけでー;。


だから、無理矢理私にも「大国主」の名前が回ってきてるのでしょう? 大名家の「女王」と「大国主」が同じものであれば、双方は対立しようがないから。それに、富の王家が定めた「夫」と私が、結婚すれば、もはや「一族郎党」といえないほど、大名家と富の王家の仲が離れていたとしても、新たな「同盟関係」を結んだことになるわけだし?? と思う。でも、こういう話を7番目の兄さんとしていると、富の王家のおっちゃんも大名家のおっちゃんも、「そういう話には自分達は、余計な首を突っ込みたくないから、二人だけでやって。」と言う気がするわけでー;。要するに、今なら分かるけれども、「大国主」というのは、「黄帝」のことであるので。「黄帝」というのは、中国の王朝の「英雄先祖」といえる存在であるので、モデルになった実在の人物がいるはず。だから、「黄帝」の名前を貰うべき人は、もちろんそのご当人ということになる。その人が、今「生きて」いればだけれども。だから、他の人がその名前を貰いたいと思えば、元の持ち主と争うことになうし、その名前の持ってる「権力」を争うことにもなる。そして、その名前は蛙の王家の「最上位」に位置する名前だから、身分の低い富の王家の人々が、その取り分に口出しするような問題では、そもそもないし、下手に口を出すと後が怖い、ということらしくて。でも、7番目の兄さんは、「今の自分の身分からいえば、その名前だけ貰っても、意味がないことになりかねない。人がその才能だけで評価されるべき存在なら、自分の首を絞めかねない名前なんて必要はない。」と言う気がするわけで。なんというか、イエス・キリストが何故、女の子に生まれ変わりたかったのか、といえば、「神を生み出す目」を持つ太母になって、自らが「黄帝」になりたかったのかも、と思う。そうすれば、神に問うても答えて貰えなかった疑問に、自らが神になることで自分で答えを出せるでしょ? と思う。そうしたら、7番目の兄さんに「あなたは、そのくらいのことをやりそうな性格だよね。」と言われる気がするわけで。大国主の名前も、黄帝の名前も、兄さんと平和的に折半でよろしいのではないのですかねえ? 兄さんが、それで良いのであれば、と言うしかない。まあ、兄さんは「自分で言い出したことなのだから、嫌とは言わんでしょ。」と言う気がするわけですが。


でも、最近ちょっとずつ、福山君のドラマを見ているわけですが。要するに、そこそこ中堅の平に近い銀行員が、銀行の最上層部に位置する人々の腐敗・不正と戦う、というお話ですよねえ? と思う。普通は、トップの人達の腐敗や不正に、一介の平社員が挑むなんて無理な話なわけですが。これは、要するに、蛙の王家の腐敗と不正に挑むのは、諏訪神と大名家である、というアプローチなのですかねえ? と思う。幸運の女神が片岡氏に微笑めば良いと思う。でも、幸運の女神の方は、毎日自分の日記、日記、日記って、ノルマに追われる日々なわけなのですがー;。



Posted by bellis 02:00 | 日記 | comments (x) | trackback (x)