本日の日誌

本日は、買い物に出かけたので、お外組も私も、「お仕事」は、それ以外の時間、ということで。でも、ちょっと遅くまで頑張って、ノルマは何とかこなせました。買い物に行くので、半分くらいしか作業できないかと思ってたけど良かったです。でも、インクとか紙を大量に買ったので、お金はけっこう使ってしまいましたー;。


朝、昨日のブンブブーンを見ながらご飯を食べて、うとうとしていたら、7番目の兄さんが夢に現れて、「あなたみたいな人には、自分のような男がそばについていて守っていないと駄目でしょ。」と言われる夢を見て。目が覚めて、「いいこと言うなー、もっと言って。」と思って。で、お昼寝の時には、夢に木村君が現れて、なんだかどこかに電話をかけるような夢で。目が覚めて、木村君の夢なんて珍しいー、と思ったのですが。夜の7時近くになって、そういえば、今日は二宮君と木村君の映画が放送される日だー、と気がついて。昼間の夢はこのことの暗示だったのかー、後輩に優しい木村君だー、と思って。WOWOWだったので、再放送がもう1回あるので、そちらの方を録画予約しておきました。


で、7番目の兄さんには、「漁撈民の神話には、浦島太郎があるでしょ。」と言われる気がするわけで。そもそも、漁撈民の魚の豊穣に関わる「月の太母」とは、トーテムが蛇です。それがウミヘビなのか、島々を泳いで渡る陸の蛇なのかははっきりしません。どうせ、古代の人にはその2つの区別もあまりついてません。で、月は満ちかけするので、細いときは普通の蛇の姿だし、満月の時は獲物を食べてお腹が膨らんでいる蛇の姿、と言われる気がするわけで@@。漁撈民が、海の祭祀で、生け贄を細切れにして海に投げ込むのは、母なる蛇神に餌を与えて、その見返りに海の幸の豊穣を願うものでもあるし、兄弟である魚に餌を与えて、さらなる豊穣を願うものでもある。「竜宮城の乙姫」というのも、「月の女神」の一つです。浦島太郎が、乙姫に婿入りする、というのは、太郎を乙姫の餌に捧げる、ということです。犠牲の祭祀で「初子」を神に捧げる習慣が、かなり拾い範囲であったことが、太郎の名前からもうかがえます。で、昔の人は「個」という概念があまりないので、命は一人に一つずつあって、死んだら、その命は終わる、とは考えませんでした。それに、食べる者と、食べられるものとの区別もあんまりついていません。よって、漁撈民は魚を食べるから、人間は魚でもあり、魚は人間でもあるわけです。太郎を殺して魚の餌にしたら、太郎はそれで終わり、とは考えません。太郎を魚の餌にしたのだから、魚が「浦島太郎」になるのです。婿入りした太郎が、人の世界に戻ってくる、というのは、「魚になって戻ってくる」と、そういうことです。でも、魚は人に食べられるものだから、あっという間に食べられてしまいます。それが「年を取る」ということなのです。魚の肉の一部を食べないで、海に帰して他の魚に食べさせれば、その魚も「浦島太郎」を食べたのだから、「浦島太郎」になります。だから、そうやって魚を増やしていけば、海の中は「浦島太郎」だらけで、何百万匹にも「浦島太郎」が増えることになるよね、と言って、7番目の兄さんが笑う気がするわけで@@。相方の兄さんの方は「ご飯を食べながら、そういう話を笑いながらされたら、気分が悪くなって魚を食べる気が失せるでしょ。」と言う気がするわけでー;。だから、漁撈民の文化が強く残っている丹後半島では、月の女神信仰も、浦島太郎の伝承も強く残っている。そして、漁撈民の最古層の「魚の豊穣」に関する神話と儀礼は、本来は「浦島太郎型」のものであって、それが農耕が始まると、ハイヌウェレ型のものに移行するのです。だから、ハイヌウェレ型神話の祭祀や神話を、「古栽培民の神話」みたいに言ってありがたがってるのが変な話で、漁撈民の神話の形態からいえば、「浦島太郎」の方が更に古い時代の神話を反映しているもの、と言われる気がするわけで。


でも、7番目の兄さんは、なんでそういうことに詳しいのですかね? と思う。そうすると、「それは統治するためでしょ。自分とは異なる人々を円滑に統治していくためには、彼らが何を考えて生きているのかを知らなければならないから。で、そういうノウハウは、大名家でも富の王家でも、独自のものをちゃんと持ってるでしょ。」と言われる気がするわけで@@。兄さんも、そういったことに興味・関心の強い自分は、そうやって「理屈づけ」してるんですよねえ? と思う。兄さんも、そういうところが性格的にやや変なんじゃないの? と思うわけですが。でも、大抵の人には、「妻神が、そういう話を聞いて気分が悪くなったりしない人なら、それで問題ないでしょ。」と言われる気がするわけでー;。幸か不幸か、私もそういう話であんまり気分が悪くなるタイプではありませんー;。でも、浦島太郎みたいな祭祀をやれ、と言われれば、断固反対ーーーって思うけどさ、と思う-;。要するに、古代の人ほど、「個人」という意識が薄いし、「個々の命の一つ一つが大切」とはあんまり考えないで、太郎を殺してばらせばばらすほど、生きた太郎自身が増えていく、って考えてたんですねえ? と思う。でも、これを理解することが、「生け贄を捧げること」というものの根本的な考え方をを理解することであることは分かる。それを止めるとしても、どう説得したら相手が納得するのか、そういうことを知るためにも、本質的な考え方の理解は必要なわけです。



Posted by bellis 01:14 | 日記 | comments (x) | trackback (x)