天石門別八倉比売神社
天石門別八倉比売神社(あめのいわとわけやくらひめじんじゃ)は、徳島県徳島市国府町西矢野にある神社。式内大社・阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」の論社の1つ[1]。旧社格は県社。
鎮座する杉尾山自体を神体とする。
目次
祭神[編集]
- 大日靈女命(おおひるめのみこと) - 天照御大神の別名であるとする
歴史[編集]
創建の年代は不詳であるが、社伝には天照大神の葬儀の様子が記されている。はじめは気延山(標高212.2m)の山頂にあったが、後に気延山南麓尾根の杉尾山の標高110m付近に鎮座した。安永2年(1773年)に書かれた文書には、鎮座から2150年と記されており、逆算すると紀元前378年(孝安天皇15年)となる。
承和8年(841年)に正五位下の神階を授けられ、元暦2年(1185年)に最高位の正一位となった。江戸時代には阿波国を治めた蜂須賀氏が当社を崇敬した。寛保年間(1741年 - 1743年)に杉尾大明神と称し、明治3年(1870年)に現社名に改めた。
天照御大神の葬儀[編集]
当八倉比賣大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の先導伊魔離神、葬儀委員長大地主神(オオクニヌシノカミ)、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記され、八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。(境内案内板から引用)[2]
天石門別八倉比賣神社略記[編集]
当社は鎮座される杉尾山(すぎのおやま)自体を御神体として崇め奉る。
江戸時代に神陵の一部を削り、拝殿本殿を造営、奥の院の神陵を拝する。これは柳田國男(民俗学者)の「山宮考」によるまでもなく、最も古い神社様式である。
奥の院は、海抜116メートルの丘尾切断型(きゅうびせつだんがた)の柄鏡状(えかがみじょう)に前方部が長く伸びた古墳であり、後円部頂上に五角形の祭壇が青石の木口積(こぐちづみ)で築かれている。その青石の祠には、砂岩の鶴石亀石を組み合わせた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴している。
また、杉尾山麓の左右には陪塚(ばいしょう)を従がえており、杉尾山より峯続きの山頂海抜212メートルの気延山(きのべやま)一帯にある200余りの古墳群の中でも最大の古墳となっている。
当社に伝わる古文書『八倉比賣大神御本記(やくらひめおおかみごほんき)』には、天照大神の葬儀執行の詳細な記録があり、先導は伊魔離神(いまりのかみ)、葬儀委員長は大地主神(おおくにぬしのかみ)、木股神(きまたがみ)、松熊(まつくま)二神、神衣を縫った広浜神(ひろはまのかみ)と記載され、八百萬神(やおよろずのかみ)のカグラは「嘘楽」と表記し、葬儀であることを示している。
また、銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮やかに踊り、水の女神との習合を示していた。古代学者の折口信夫は天照大神を三種に分けて論じ、「阿波における天照大神は、水の女神に属する」として、「最も威力ある神霊」を示唆しているとしたが、これは余りにも知られていない。なお、当社より下付する神符には「火付せ八倉比賣神宮」と明記されている。
鎮座の年代は定かではないが、安永二年(1773)三月の古文書にある「気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五(2105)年を経ぬ」の記録から逆算すれば、起源前332年(孝安天皇61年)に当たる。しかも、その伝承時期が安永二年よりも遡ると仮定すれば、鎮座年代はさらに遡ると推測される※(由緒書およびWikipediaの内容には計算違いがあるため、ここで修正しています)。
また、当社は正一位杉尾大明神、天石門別 八倉比売神社(あまのいわとわけ やくらひめじんじゃ)などと史書に見えるが、本殿には出雲宿禰千家某(いづものすくねせんげなにがし)の謹書(きんしょ)になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の扁額が秘蔵され、さきの神符と合せて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。
古代阿波の地形を復元する鳴門市より大きく磯が和田、早渕の辺まで、輪に入りくんだ湾の奥に当社は位置する。そのため、天照大神のイミナを「撞賢木厳御魂天疎日向津比賣(つきさかきいつのみたまあまざかるひうらつひめ)」と申し上げるのも決して偶然ではない。
なお、本殿より西北五丁余に五角の天乃真名井(あめのまない)がある。元文年間(1736~1741年)まで十二段の神饌田(しんせんでん)の泉であった。現在大泉神として祀っている。
当祭神が、日本中の大典であったことは古文書『阿波国徴古雑抄(あわこくちょうこざっしょう)』が証明している。延久二年(1070)六月二八日の太政官符で、八倉比賣神の「祈年月次祭(きねんつきなめさい)は邦国之大典也(ほうこくのたいてんなり)」として奉幣を怠った阿波国司を厳しく叱っているのを見ても、神威の並々でないことが感得され、日本一社矢野神山の実感が迫ってくるのである[3]。
天石門別八倉比賣大神御本記[編集]
古の天地の初めの時、高天原に現れた神の名を天之御中主神(アメノミナカヌシ)という。
次に国が浮いた脂のように漂っているときに、葦の芽が生えるように生まれた神を國常立尊(クニノトコタチ)という。
その後 生まれた神に伊邪那岐神(イザナギ)次に妹の伊邪那美神(イザナミ)がおり、この二柱の神によって国土や海原、および山川や諸々の神が産み出された後、伊邪那岐神が左の目を洗った時に生まれた神の名を日靈大神(ひるめのおおかみ)といい、またの名を八倉乃日靈大神(やくらのひめおおかみ)という。
最初に高天原で戦に備えた後、天石門別(あまのいわとわけ)の神に勅命を発して「今後、汝らは吾(われ)に代わって戦に備えよ。そして、汝らはこの『羽々矢(はばや)』と『御弓』を葦原中國(あしはらのなかつくに)に持って降り、良い場所に奉蔵せよ」と申された。また、吾(八倉乃日靈大神)も天降り、「『天羽々矢(あめのはばや)』と『天麻迦胡弓(あめのまかこゆみ)』を納めるのに相応しい場所である」と申された。
よって、二柱の神が高天原より弓矢を持って降りた。その時、二柱の神は天の中ほどに立ち「この矢の止まった所に奉蔵しよう」と言って矢を放った。その矢が落ちた場所を「矢達の丘」という(今は「矢陀羅尾」という)。
そして二柱の神は、この地に矢が落ちた事を覚えておくために「矢乃野(やのの)」と名付けて、その矢を奉蔵した倉を「矢乃御倉(やのみくら)」と呼んだ。また、その弓を奉蔵した地を「弓乃御倉(ゆみのみくら)」という。
そして、二柱の神(松熊二神※)はその後も此処に留り、御矢倉を御弓を守り続けた。
その後、比賣大神(八倉乃日靈大神)は天の八重雲を押し分け、伊津乃路(いつのち)を別けて天降った。最初は杉の小川の清き流れを見て「この川は深くて流れが早い」と申された。そのため、此処を「早渕の村」という。
このとき、大地主神(土宮)と木股神(御井神)が参上し、この河の魚を漁って献上した。すると、太神(八倉乃日靈大神)は「鰭(はた)の狭物と言うべき食物である」と申されたので、その河を「鮎喰川」という。
また、このとき(八倉乃日靈大神は)大地主(おおくにぬし)と木股神(きまたがみ)に「吾(われ)が住むのに相応しい場所に、汝らが案内せよ」と勅命を下すと、大地主神が答えて「ここより西方に朝日の真っ直ぐに刺し、夕日の日が照る気延の嶺があります。その地に先導しましょう」と申した。
すると、伊魔離神(いまりのかみ)という神が現れて、昼間に野で採れた五百の野薦(敷物?)や八十玉籖(玉串)など様々なものを献上した。それから、西方の杉の小山の麓に辿り着くと、天石門別が出迎えをした。
そこで、大神(八倉乃日靈大神)が「汝らは吾の言う通りにして待っていたのか?」と問うと、「はい、ここが神宣の通り御矢を納めた所でございます」と答えた。それを聞いた大神は褒辞を与えて、そこで一晩過ごした(このため「矢倉の郷」または「屋度利の社」という)。
なお、山坂を登って杉の小山を通って気延山に到ると、広浜神(ひろはまのかみ)が現れて時節の御衣を献上した。そのため、此処を「御衣足(みぞたり)」という。
ただちに気延の嶺の下津磐根(しもついわね)に宮柱と廣敷を立て、高天原を装って天上のように鎮座した(なお、「天石門(あまのいわと)」を押し開くため「天石門別(あまのいわとわけ)」という。八倉の郷に居る姫御神であるために「八倉比売(やくらひめ)」という)。
この夜、八百萬(やおよろず)の神々は集って宴(天エラキ楽?)を行った。その神々の集った所を「喜多志嶺(きたしみね)」という。また、その宴(嘘楽)に使った色々な物を納めた所を「加久志の谷(かくしのたに)」という。
そこで大神は「雲の居る 八倉の郷の 喜延山 下津岩根に 宮井そめとも」と歌を詠んだ。
その後、大泉神(おおいずみのかみ)が「天の真名井の水を玉の碗に汲み移させて、朝夕の食事を炊く水とする。また、小泉神田口の御田を献上して『御饌の御田(みけのみた)』とする。気延山は大日靈貴神の坐す所であるため『神山』とする」と勅命を発した。
これより後、二千百五年(2105)を経た小治田御宇元年龝八月(推古元年秋8月)に、大神(八倉乃日靈大神)は毛原美曽持(けはらみそもち)に託して曰く「吾(われ)の宮のある場所は遥か高く急峻である。このため、神主や祝部、巫(みこ)などが参詣するのに疲れてしまうだろう。杉の小山(杉尾山)は高くもなく、低くもなく、遠くもなく、近くもない、正に良い場所である。そのため、この嶺に遷座することにしよう。吾(われ)は以前、天より持ってきた瑞の赤珠(みずのあかたま)の印璽(しるし)を、杉の小山の嶺に深く埋めて、天の赭(あめのあかつち)で覆い納めた。その赭(あかつち)は、諸々の邪鬼、妖怪および諸々の者に『これは病も厭う奇妙なる験(しるし)である』と教え諭してある。」と申された。
赭(あかつち)の印璽と言って秘し崇め奉ったのはこれである。その印璽(みしるし)を埋めた所を「印璽の嶺(しるしのみね)」という(また「御石ノ峯」ともいう)。
このとき、神主や祝部らは大神の託した通りに遷座して奉ったという。しかし、神主らが「諸々の人々は、これを信じないだろう」と言うと、大神も「そうであろう」と申された。そして大神(八倉乃日靈大神)は「吾(われ)が御前の谷の水を逆に山の頂きから漑いで御田を作ろう、それを以って宮の食糧とせよ」と勅命を下した。
すると、一夜にして谷の水は逆流し、山の頭(いただき)に至った。そして田の穂はすぐに成熟し、その穂は八束に実って良い稲であった(その谷を「左迦志麿谷(さかしまだに)」といい、その田を「志留志田(しるしだ)」という)。そのため、神主や祝部、および多くの若者は、その神宣が事実であったことに畏怖・畏敬を念を抱いたという。
遷座したのは九月十三日である、よって、この日を以って御霊の現れし日として奉るのである。云々[4]
境内[編集]
- 一の鳥居
- 二の鳥居
- 摂社・箭執神社(やとりじんじゃ): 祭神は櫛岩窓命と豊岩窓命で、天石門別神とも云う。
- 摂社・松熊神社: 祭神は手力男命(たぢからお)と天宇受女命(あめのうずめ)
- 三の鳥居(木製): 本社境内への石段途中にある。
- 拝殿・本殿: 江戸時代に神陵の一部を削り造営、奥ノ院の神陵を拝する。
- 摂社・小祠
- 摂社・小祠
- 奥ノ院・五角形の磐座: 社殿裏手へ約100メートル、標高116メートルで、丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳で、後円部の頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれ、その上の青石の祠の中に砂岩の鶴石亀石を組み合わせた「つるぎ石」が祀られている。 一説には卑弥呼の墓であるという。
- 摂社・大泉神社: 境内より北西約500メートルの山中に「天の真名井」と呼ばれる五角形の井戸があり、傍らの石積みの祠に祀られている。天文年間までは十二段の神饌田の泉であった。
八倉比売を祀る神社[編集]
石刀神社(一宮市浅井町)[編集]
愛知県一宮市浅井町にある神社。尾張国中島郡の式内社「石刀神社」という説がある。崇神天皇の代、創建されたという。祭神は八倉比売神とされているが、現在も正式な社殿はなく、巨岩を神体としている。御神体の巨岩は、長さ約6尺、幅約4尺の漆黒の岩で、太陽の光で黄金色に輝くという。この岩は胴体岩ともいう。境外に約6尺四方の巨岩(尾岩)がある。祭祀対象が岩であることから、古代の崇拝の形態が残っているといえる。江戸時代は「黒岩天王」と称していたという。明治時代に石刀神社に改称したという[5]。
私的考察[編集]
「天石門別八倉比賣大神御本記」は偽書であるという説が有力だ、とのことだが、「偽書」の意味が不明と感じる。「歴史的事実を記していない」という点を「偽書」と呼ぶのであれば、古事記の神代の記述も偽書である。「伝承を記載したもの」を総じて「偽書」と定義するのであれば、グリム童話集も「偽書」と言わざるを得ないだろう。
当社ともう一つの「一宮」の論社である上一宮大粟神社の伝承と併せて、
「太陽女神が亡くなって、月の女神あるいは水神女神に変じた。」
という伝承が根底にあったものと推察される。水神女神とは、丹生都比売あるいは広瀬大社の若宇加能売命といえる。でも、もっと普通に
「ハイヌウェレ(太陽女神)が亡くなって、月の女神あるいは芋の女神に変じた。」
と短く分かりやすい話にしてくれれば良かったのに、と個人的には思ってしまう。四国は日本の中では南の方に位置するので、古くから芋に関してハイヌウェレ的な神話が強くあったのではないか、とも思うし、そのような神話の上にこの伝承は立脚していると思う。
天照大神と天石門別が矢を放って聖地を定める点は、天道日女命が息子の天香山命に矢を射させた、という丹後半島の伝承と共通する。また、天石門別は天照大神を助け付き従っているのだから、天照大神と天石門別の関係は、丹生都比売と高野御子神の関係に似ている。日本では、「太陽女神とそれを(洞窟から)助け出した若者」は「母息子」として語られることが多いようである。
ただし、苗族の民話に「囚われの女性を若者が助けて結婚する」という話があり、グローバル的にはこれは「ラプンツェル」の類話なので、物部氏系の氏族がこの2神の関係を「母子」としている方が全体から見ればやや特殊なのである。そして、古事記に至ると、天照大御神と手力男命は「母子」の関係ですらなくなってしまう。
ともかく、古代の徳島は、神々の名前を別に書き換えて、それまでの神話を整理して統合したり、分離したり、拡張したり、という作業も行っていたところ、と述べるしかない。当地でまず
「太陽女神が死んで月の女神(でなければ豊受のような豊穣の女神)や水神女神に変化した。」
という総合的な神話を作った上で、これを2つに分離して、一つは「八倉比売は天照大御神」という伝承にし、もう一つは「八倉比売は大宜都比売」という伝承にしたものと思われる。併せれば
「天照大御神は大宜都比売である」
となって、八倉比売はいらなくなるのだが、彼女がいないと作り替えもできなかったので、便宜的に作り出した女神だったのだといえるのではないだろうか。こうして作り替えられた天照大御神と大宜都比売(言い換えれば豊受大神)は、中央にフィードバックされて各地に拡がり、伊勢の内宮と外宮に新たに再編されて祀られることになるのだが、それに関わっているのも阿波忌部氏ではないだろうか。
ということで、八倉比売と天石門別命の伝承は、夫婦神であった彼らを、母子神へ、そして全くの赤の他人へと書き換えるための伝承だったと考える。
それでも管理人は、天照大御神と手力男命、言い換えればラプンツェルと彼女の王子様が「夫婦であった」という伝承の片鱗を日本の国内に見いだすことができて嬉しく思う。
また、管理人はこの八倉比売というのは、「八坂刀売」という名の女神にも変化しているのではないかと考える。阿波忌部氏とは「神話を作り出す役目」も負っていたかもしれないと考える。死したる八倉比売を女王・卑弥呼になぞらえるのであれば、卑弥呼とは太陽女神になぞらえられた女性である、ということを阿波では認識していた可能性もあるように感じる。
参考文献[編集]
- Wikipedia:天石門別八倉比売神社(最終閲覧日:25-02-06)
- 天石門別 八倉比売神社 [徳島県]、人文研究見聞録(最終閲覧日:25-02-07):天石門別八倉比賣神社略記、天石門別八倉比賣大神御本記はこちらから写させて頂きました。長い文章を丁寧に書き起こされていて素晴らしいと思いますし、たいへん感謝いたします。
外部リンク[編集]
- 八倉比売神社 徳島県観光情報サイト 阿波ナビ
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ↑ 他の論社は上一宮大粟神社、一宮神社。
- ↑ 徳島県徳島市|天石門別八倉比売神社は神聖な山に鎮座する、奥の院に不思議な祭壇がある神社、とくしま御朱印なび、kanakana
- ↑ 天石門別 八倉比売神社 [徳島県]、人文研究見聞録(最終閲覧日:25-02-07)
- ↑ 天石門別 八倉比売神社 [徳島県]、人文研究見聞録(最終閲覧日:25-02-07)
- ↑ Wikipedia:石刀神社(最終閲覧日:25-02-18)