目から派生した文字:甲骨文字

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古代中国、特に巴蜀文化においては、「目」とは祖神である「太陽の目」でもあり「川の太母(西王母)の目」でもあり、神話的要素が非常に強いものであることが分かった。ここで、「目」という甲骨文字から派生した文字をいくつか考察してみたい。「見」、「親」、「蛙」、「黽」、「蜀」という文字がそうであることは既に明らかになっている。また「目」が含まれる文字や、「日」という文字も同様であろう。

光と炎

図1は、甲骨文字の「光」である。また、図2はトンパ文字の「蛙」の1例であるが、「目」を強調する場合、これらの文字のように中央を主に突出させる場合があり、それは「火が燃え立つ」ということの象徴として現されるようである。また、甲骨文字の「光」は、座っている人物、すなわち「女性」の姿で現されている。これは古代中国の人々が、太陽とは「燃える炎の目」であると考えていたためで、それが輝く様を現した図が「光」という文字になったのであろう。
図3は甲骨文字の「火」である。これは図1と見比べると、人の体が下につくものが「光」であり、目だけのものが「火」であることが分かる。「光」と「火」の関係は、「見」と「目」の関係によく似ている。人の体が下につくものと、つかないものとで別々の似たような意味を持つ文字に分かれているのである。
「炎」という文字は「火」を上下に並べた文字であるので、これも「目」から派生している文字といえる。

雨他

図5は「雨」という文字を現す甲骨文字である。「日」という文字が横向きになり、その下に水がしたたりおちている様子が描かれており、古代中国の人々が雨とは太陽の底が抜けて降ってくるものであると考えていたらしい、と分かる。図6はトンパ文字で「雨降り」を示す文字であるが、そこにも「天空」の底のようなものが抜けて、そこから雨が降ってくると考えられていたことが分かる。一方、三星堆遺跡から出土した巴蜀文字には図4のように「日」という文字の左横の縦棒が抜けた文字が存在する。その文字には「目」が付いており、「蛙」のように見える。巴蜀文化における「蛙」は「太陽」のことで、それは「目」あるいは「日」ということでもある。要するにこのように、太陽の端が欠けることがあり、そのような時に雨が降るし、「アメカンムリ」で現される天候現象が生じると考えられていたのであろう。それは、図7のようにヒッタイトを始めとして西洋や中東地域における天候神と同じで、雨や雷が太陽から生じるという思想である。

日、白等

図8、9は甲骨文字の「日」である。「目」という文字と比較すると、真ん中の四角が略されて、一本の横棒で現されるようになった図であると考えられる。また、図10は甲骨文字の「白」である。「白」という文字は、「日」という文字の上部が突出して形成された文字といえる。また、そこから「皇」という文字は「日の王」という意味であることも分かる。
そして、甲骨文字の「臣」という文字も「目」から派生している。これは「しっかりと目を開いて物事を良く見ている人(要するに「賢い人」)」という意味であるようである。これは家臣であろうと、君主であろうと「賢くてしっかりしている人が良い」という思想の現れではないだろうか。

食に関すること

図13、14は皀(ヒュウあるいはキュウ)という文字の甲骨文字である。形から、「目」の象形を縦にしたものから派生していることが分かる。よって、「皀」が含まれる漢字も「目」から発生したものといえる。その1例が「食」という字である(図16)。図16は「皀」の上に傘のようなものが被っている図で現される。トンパ文字の「食」(図16)を見ると、食物を入れた器に盛られたものを食べようとして、「口」を大きく強調して描いたものがトンパ文字の「食」であると分かる。甲骨文字の「食」に見られる上部の「傘」様の象形もおそらく「口」を意識したものなのであろう。
そして「皀」が、食物を盛りつけた器の形で現されるのであれば、食物が盛られていない「皿」の字も「目」の象形から派生したものであることが分かる(図17~19)。また、似た象形から派生した文字として「豆」がある。
「皿」同様、「日」という文字の上部が欠落した文字に「口」がある。巴蜀文化において、女神の「口」は水源として「目」以上に大切な器官でもある。これもおそらく「目」という文字から派生したものであろう。

土等

「皿」という文字のように、一番下の横線だけが残り、その上に細長い目状の形の枠だけが描かれた「土」という甲骨文字も「目」から派生したものと思われる(図22)。トンパ文字における「土地」は漢字における「皿」と形が類似している。そもそも古代中国では「大地」というものは、上にものが載っている「器」のようなものだと考えられていたのではないだろうか。
甲骨文字の「山」は「火」という文字と類字している。巴蜀文化における「太陽」が「山の女神」でもあったことを考えると、「山」も「目」から派生した文字なのであろう。
また、「目状の形」の中身が残ったものが「且」という字になったものと考えられる(図25)。
「皿」や「口」と同様、上部が開いた形のものに、「甘」(図26)、「曰」(図27)があるのであろう。

目の中身から派生した文字

トンパ文字の「日」(図27)にあるように、「日」という文字の元となる象形には、円の中に十字や十字様の印が描かれている場合がある。そこから派生した文字をいくつか挙げてみたい。
古代中国では、太陽は植物の生育と大きく関連づけられて考えられていたため「木」という文字がまず相当すると考えられる(図28)。「果」という文字も同様である。これらは巴蜀文様で「太陽」の化身として描かれることもある(図29)。 「日」という文字の枠と中身のいずれもが残ったものが「田」という文字であると考えられる(図30)。そこから、「畠」、「畑」という文字も同様であることが分かる。トンパ文字の「田」は、「土」の上に植物(稲)が生えている姿で現され、「田」という文字が「土」という文字にも近いことが示唆されている。
また、祭祀に関連する「巫」という文字も、「日」という文字の中身から派生したと思われる。古代中国において最大の祖神は「太陽神」であるといえるので、神に仕える者も、太陽神に関する人物とみなされたのであろう。

目の外側から派生した文字

図34のように、太陽の周囲に光線の放射を付け加えて「日」を現す図が甲骨文字には存在していた。このような例をいくつか挙げてみると、下側に太陽光線が描かれるものに、甲骨文字の「妙」(図35)、巴蜀文字の「北」がまず挙げられる。上側に太陽光線が描かれるものには「省」(図36)、「眉」(図37)がある。「省」という文字には「よく見る」という意味もあるようで、目を見開いている図ともいえるのではないかと感じる。
図38、39は巴蜀文字に見られる文字で、「目」に関連する文字と思われる。図38は太陽光線が上方に伸びる図であり、図39は太陽光線が上下に万歳するかのような形で加えられている。

文字の歴史

賈湖契刻文字

最後に、古代中国における文字の歴史がどのくらい古いのかについて述べておきたい。黄河文明の中でも古い時代のものである裴李崗文化(はいりこうぶんか)の遺跡の一つである河南省の賈湖遺跡(かこいせき)(紀元前6600年)から、賈湖契刻文字(かこけいこくもじ)といわれる文字様の文様が発見されている。そこには、「目」「殳」「日」と読むことが可能な文様が刻まれている。「日」という文字が「目」から派生した文字であるとすると、この時代にはすでに「目」と「日」が別々の文字として成立していたことが示唆される。
賈湖遺跡(紀元前6600年)の特徴をいくつか挙げるとすると、まず、墓の副葬品に個人差が認められ、貧富の差、階級の差が出現し始めた社会であったことが特徴といえる。副葬品には

  • 岩を加工した装飾品
  • 亀甲
  • 鶴の骨で造った笛

などがあり、後に玉を珍重する文化の前身があったことが分かる。また、現代の日本にも残されているが、亀や鶴に「永世性」を求める文化がすでに誕生している。
豚や牛が家畜として飼われており、米やブドウなどを原料として酒もすでに作られていた。
同時期に長江中流域で栄えた彭頭山文化(ほうとうざんぶんか、現湖南省)では、すでに水稲耕作が行われており、集落からは最古級の環濠集落と考えられる構造が出土している。裴李崗文化と彭頭山文化は当然何らかの交流があったものと考えられるが、それだけでなく長江流域においては、集落を外敵から防衛する必要性も生じていたことが分かる。
以上のような時代背景を踏まえて、右図の賈湖契刻文字の解読と解釈を試みることとしたい。
まず、一番上の文字は、「目」の象形に下向きの太陽光線が2本ついているもののように思われる。下向きの太陽光線がついた「目」の文字は、甲骨文字では「妙」という文字の原型であるが、巴蜀文字では「北」という意味を持つ。そのため、この場合はどちらかの意味で使われているのではないかと思われる。
その次の文字は、人が武器様のものを振り上げている姿で描かれ、「殳(シュ、ほこ)」という甲骨文字の原型と思われる。「殳(シュ、ほこ)」という文字には、矛の柄、杖で人を撃ち殺す、という意味があり、「人を攻撃する」ことを示す文字といえる。この文字の人物は頭部が強調されておらず、長江文明というよりは、遼河・黄河文明の影響を受けて誕生した文字だと思われる。
一番下の文字は「日」という字と思われる。但し、これまでにも述べてきたように「日」という甲骨文字からは「土」「皿」といった感じも派生しているため、この賈湖契刻文字がどのような意味で使われているのかについては注意が必要であると感じる。
賈湖遺跡に住んでいた人々が、自らのことを指して「殳」と述べたのか、更に北方に住む人々のことを指して「殳」と呼んだのか、そこが一番疑問に感じる点であるが、一番上の文字には「北」という意味もあり得ることから、個人的には「北殳地」と読んで、北方に住む攻撃的な人々のことを指した文字ではないかと考えている。中国は古代から、北方の遊牧民の侵入と略奪に悩まされていた国であって「万里の長城」はそれに対する広大な防衛線であったから、「殳」という文字は元々そのような遊牧民達を示す言葉であったのであろう。しかし、遊牧民の侵入と定住、先住民との混血が進めば、中原の文化と遊牧民の文化が混合することは必至であり、農業を行いながらその一方で牧畜を行っていた黄河文明はそのようにして誕生したものだと考えられる。しかし、黄河よりも更に南にある長江流域では、古くからの中原の農業文化が強く残されており、「集落を堀で囲う」という後の時代の「万里の長城」にも繋がる防衛の文化がより早く誕生したのであろう。

関連項目

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