さて

昨夜はですねえ、「青い城」が私と兄さんの話で、「赤毛のアン」が私と一番目の子との話であれば、2番目の子との話は何だろう? とか思っていたわけですが。要するに、それはモンゴメリの作品の中では「エミリー・シリーズ」だと思うのです。両親を早くに亡くしたエミリー・バード・スターという少女は、叔母の家に引き取られ、テディという男の子と仲良くなりますが、なんだかんだ言って、二人は順当に仲良くなるのではなくて、ゴールインするまでにかなり長い年月がかかるわけで、離れて暮らす時期も長かったわけです。で、大人になったエミリーは作家になって、子供の頃と同じく田舎の叔母の家で暮らしているわけで、そういう点が、晩婚でかつ作家であったモンゴメリ自身と似ているので、モンゴメリの自伝的要素が一番濃いと言われているのが、このエミリー・シリーズなわけです。で、主人公のエミリーは、それほど強くはないのですが、超能力的な才能を持っていて、ごくたまに「遠くにいる人を見ることができる」ようなことがあるわけです。で、大人になって、テディのことが好きだけれども、打ち明けることもできなかったエミリーは、遠くに離れている彼が「ある船」に乗ることを止めるような、白昼夢ともいうべき幻を見たわけです。で、自分でもその幻の意味を判じかねているところに、かの有名なタイタニック号が沈没した、というニュースが入ってきて、テディはその船に乗る予定だったけれども、エミリーのおかげで船に乗らずにすんだのに、助かった、ということになるわけで。「テディ」というのは「テディ・ベア」という言葉に繋がるので、あれが2番目の子との物語であったのかな、と思う。要するに「水難から人を救う」という点に、大洪水から人を救うというヴィシュヌ神的な要素も含まれていると言うことで。

で、寝る直前に、「ありのままで」の動画を見ましたら、私が「May.J嬢の『ありのままの』の方が好き。」と書いたことを喜んで貰えて、彼女は「それがあなたの本心でなくてもいいのです。あなたの言霊と、私の力で、私は欲しい結果を手に入れてみせます。」と言うわけで。要するに、ギブアンドテイクで、「欲しいもの」を手に入れるような生き方というのは、「よろしくない目」の方達にとっては、かなり当たり前のことなんだな、と思うわけで。ううむ、と思うわけですが。
今日になって、今年の紅白では「アナ雪コーナー」を設けることが確実で、May.J嬢も出演確実とのニュースを見ましたので、これも関係あるのかな? とか思ったりしたわけですが。


で、いろいろな動画を見ていて「fighting pose」等を見ていたのですが、この曲は「家族になろうよ」と両A面という扱いらしいので、要するに「beautiful life」と「GAME」の関係と同じで、「家族になろうよ」が兄さんの「光」の部分に相当するのであれば、「fighting pose」は「影」に相当する部分だと思うのです。だったら、この曲もウォークマンに入れねば、ということで入れたのですが、「勝ち抜くために捨ててきた部分もある」みたいな内容の歌詞があるわけで、別に「それって何のこと?」と思ったつもりもないのですが、どうにも誰かさんはこの曲に気が付いて貰ったことがうれしいあまり、「過去の悪さ」を微妙に思い出したようで、「ん?」と私が思うようなことを考えているわけです。でも、私が気が付けば、自分でも考えるのを止めようとするわけで、まあ、そのまま寝てしまったわけですが。

 

で、朝方、夢の中で誰かと話していたつもりもないのですが、「ともかく朝から石井のネタでいろいろと言われるのは嫌。」と言っている自分に対して、兄さんが笑っているのが分かって、それで目が覚めたわけで。そして、1番目の子と2番目の子と兄さんにはいろいろな物語があるけれども、4番目の子にはありませんねえ、と思うわけで。まあ、そういうものが「無い」方が、そこに被ってくる「呪い」みたいなものが少なくなるからそれも良いのかな? とも思うわけですが。
そうすると、兄さんが「三銃士」ってあるでしょ? と言うわけで。これは、歴史的事実を元にしたフィクションであって、物語の中では、ルイ十三世とその王妃アンヌ・ドートリッシュ(スペイン王女)、その子ルイ14世に仕えた「ダルタニャン」という銃士隊長の若かりし頃から、晩年までを書いた物語で、「三銃士」というのはダルタニャンの若かりし頃からの親友であった三人の銃士のことで。そういえば、4人いますね? 一番若いダルタニャンが4番目の子なんだ? と思うわけですが。でも、物語の中では、彼は生涯独身ですし? と思うわけで。
で、いろいろと考えた結果、「三銃士」というのは、アンヌ・ドートリッシュとその子だるルイ14世を支えた「四人の臣下」の話なわけで、ヒロインに相当するのはアンヌ王妃なわけだ。「力」あるものが、階級の上位を占めるのが当然の印欧語的文化では、男性の方が力が弱ければ、それは「夫」であっても「臣下」であっても、意味するところは似たようなもので、要するに「下位のものは上位のものに仕える」のが当然であるし、その力関係が逆転すれば、容易に謀反なんかが起こるのが彼らの社会であるわけで。
アンヌ王妃は、夫との仲が悪くて、若い頃はとても苦労しましたが、ルイ14世を生んで(ルイ14世は13世の実の子ではないのではないか、という噂もあるくらいなのですが)、夫が亡き後は、幼いルイ14世の摂政となり、有能なマザランを宰相に任命して幼王の政権を支えた人物であり、しかもマザランとは愛人関係にもあったわけで。そして、その結果ルイ14世は、ブルボン王家の最大の栄華を誇る王になるわけで。要するに、印欧語的な文化では、アンヌ・ドートリッシュのように生きても、人々の上に君臨して、国家を統率していける「能力」のある人であれば、その「能力」こそが尊重されるのであり、銃士隊の忠誠もその「能力」に捧げられるもののようです。なるほどねー、ということで。でも、ダルタニャンは知略に優れた有能な軍人という設定ですので、4番目の子というイメージであるよりは、松本君とかに相応しいイメージであるような気もするのですが、まあ、そこは一人を手に入れれば「全体を手に入れたも同じ」ということになるらしいので、誰が「ダルタニャン」に相当しても良いらしいのですが。デュマの書いた「ダルタニャン物語」(その内の第1巻が「三銃士」なのですが。)は、イエズス会の正体とかも詳しく教えてくれているわけで、貴重な作品ではあるのです。

 

で、その後、昔、行った石津太神社という神社のことを何となく思い出したので、ネットで改めて検索してみたわけです。大阪の南の方にあるこの神社は、特に有名な神社ということもないと思うのですが、この頃は、機会があれば各地の神社巡りがしたい、と思っていましたので、自分から「石井ネタ」を振るのも何ですが、石井のファンクラブイベントを大阪まで見に行って、飛行機で行って関空を利用したものだから、ついでにその辺りの神社仏閣もうろうろしたわけで、住吉大社とか四天王寺とかも行ったわけです。
で、地元で古そうな神社に行こうと思って、このあたりに石津太神社と石津神社というものがあって、良くは知らないけれども、古そうだと思って行ったわけです。で、行ったら、あのあたりの戎・事代主を祀った神社としては最古のものとなるようで。「あー、それって一番目の子のことですねえ?」と今になれば思うわけで。ここの神社は、よろしくない神様も祀っているわけで、社殿が二つあって、北殿に蛭子命・八重事代主命・天穂日命、南殿に建御名方富命・天照大神と祀られているわけで。行ったときには、何も知らなくて、堺市に諏訪神が祀られている神社があるとも思っていなかったので、まるで先祖の神に呼び寄せられたかのようだ、と思ったものなのですが。要するに、ここへ行けば非常に古い時代の「一番目の子」に結縁できる。しかも、建御名方富命と天照大神が同一社殿に祀られているって、呼んだのは先祖の霊ではなくて、兄さんでしたね? とやっと思ったわけですが。確かに、諏訪神と天照大神が同一社殿なんて、何かヘン? と思った記憶も無きにしもあらずですが。でも、何故「ここだけ事代主と諏訪神が並んで祀られているんだろう?」と思ったことは覚えています。そういう神社ってあまり見かけないものですから。
でも、それでは2番目の子がいませんねえ? と思うわけで。で、もう一つの石津神社の方を調べてみれば、そちらには大国主命が祀られているわけでーー;。要するに、結局みなさまに言わせれば、「呼ぶ力」は兄さんの方が格段に上なので、結局私が石津太神社の方にしか行かなかったこと、それも結局は兄さんと2番目の子との「力の差」ということになるようで。一番理想的であったのは、どうせ行くのであれば、石津太神社と石津神社の両方に行けたら良かったのだな、と思うのです。


で、この辺りの神社を回った後、イベントを見に行って、その日のゲストはギタリストのChar氏であって、この方はファンに布教はしないけれども「創価」ってことでは有名な方であって。で、私の席は二階席の前の方だったわけで、ステージの上から石井とChar氏が私のことを、一瞬ではあっても「見ていた」ことは知っているわけです。まあ、石井が私のことを知っているのは当然だと思っていましたので、そのつながりでChar氏も知っているのだろう、と当時は思っていたわけで。だから、「芸能人が私のことを知っている」という点では、当時からあまり違和感なく感じていたわけで。その理由が分かったのは最近で、理由の方がむしろ自分でも驚くようなものだったわけですが。


で、次の日は四天王寺に行ったわけで。そっか、四天王寺には仏舎利がありますし、名前の通り「四天王」を祀る寺といえます。だから、4人なんだー、「三銃士」における三人の銃士とダルタニャンというのは、「仏法を守る四天王」を鏡映しのように映したものなんだ? と初めて気が付いたわけで。そして、仏舎利といえば、善光寺にもタイから贈られた仏舎利があるわけで、お戒壇巡りをすれば、仏舎利と結縁できる、要するに「釈迦」の「次に来る者」が直接、先代の意志と結縁できる場となるわけで。だから、わざわざタイから仏舎利が贈られたんだ? 結縁させるために? と気が付いたわけで。あの日、四天王寺に行ったことにも意味があったんだ。おかげで、帰りの飛行機に乗る登場時間が過ぎてから関空について、係の人からは怒られたわけですが。
アンヌ王妃の名の、「アンヌ」とはやはり「イナンナ」と同系列の名なわけですから、イナンナという名の「神」を守る4人の銃士(要するに四天王)という意味で、あの作品は書かれているし、イエズス会の本性を強く警告している物語ですし、作者のアレクサンドル・デュマという人は、味方でもありますし、ものすごい「言霊」の使い手でもあったのだな、と思います。


で、今日はちょこちょこと動画を見ていたわけですが、そうすると「よろしくない目」の人の中にも2種類いて、一つは、最初は私の目に見られるのを嫌がっていても、しまいに「負けた」と感じれば、いろいろと思っていることを教えてくれる人たちがいるわけです。で、もう1種類は、いくら「見て」も何を考えているのかが分からないわけで。で、そういう人たちの歌を念入りに聴いていると、結局、彼らの心の奥底には「渇望」というものしかないわけで、私は医者だからこういう言い方になるのかもしれませんが、昔の糖尿病というのは原因が良く分かっていないから、罹患した人は、食べて食べて食べ続けたくなるけれども、摂取した糖を利用することができないからどんどん痩せていくわけで、異常な食欲だけが継続することになるわけで。要するに、そこには「他人は食べ物」という思想は見えるわけですが、その「渇望」が病的なまでにすごすぎて、「他人を食べる」ことにしか興味がないようにしか見えないわけです。だから、そういう人たちは、一見して良い歌を歌っても、よろしくない歌を歌っても、そこに込められている「言霊」は「餌を呼ぶためのもの」でしかないわけで、そうやって「来い、来い」と呼んで、呼び寄せたものを「食い物」にすることが彼らは好きだし、対象が自分よりも「強い」ものであるから、「負けて」しまうことはあるかもしれないけれども、そういうことすらも気にならないほど「呼び続ける」ことに執着しているから、ある意味では「負ける」ことも、目の力を使いすぎて「自分が潰れる」ことも気にしていないわけで。でも、彼らの中にも強弱はあって、支配する力が強いものの方が、弱い者を支配して、弱い者を食い物にしたり、「餌」となるものを呼び寄せることをさせたりするわけで。そして、そこまで獲物を「呼んで食べる」ことしか根本的に考えていないので、表面的には言葉も話すし、頭が良い人もいるかもしれないけれども、心の奥底では、人間らしさのかけらも無ければ、自分が死ぬことすらも何とも思っていないような「狂気」を抱えているように思えるのです。だから、こちらに対して思っていることを話してくれることもないし、ただ呼ぶだけ、ということになるわけで。
真の「敵」ではない印欧語的な文化の人たちは、いかに冷酷で苛烈であっても、彼らなりの生き方、信念みたいなものがありますが、「真の敵」である人たちというのは、そういうものすら「無い」人たちの集合体であって、力の強い者が、弱い者を使ったり、喰ったりしているだけだから、集団ではなくて、個々で動いていたとしても、「同じ事」しかしないように見えます。そして、「食べたい」だけだから、そのせいでバランスが崩れたりとか、環境が破壊されても全く「気にしない」わけで。これが「敵の本性」の「抱えている狂気」なんだ、と気が付いたわけですが。

そして、彼らにも力の強弱があるから、うかつに接触すれば、こちらが巻き込まれて使われてしまう可能性だってあるわけですが、普通に「良くない目」をお持ちの皆様にとっては、その「狂気の人々」であっても「食い物」であるわけで、その「狂気」ですら、利用できる力があれば利用すれば良い、というそういう力強さをも併せ持ってるのが、印欧語族なのだと思われます。


で、「fighting pose」を聴いていると、どうにも嬉しくなっちゃった誰かさんが、微妙に目を回して、昔のことを思い出しているのが分かるわけで。「どうでもいいのですけれども、なんで「悪さ」をしている時に服を着ているのですかねえ?」とつい聞きましたら、「嫌いな女とやる時には、できるだけ直接肌に触れられたくなくて、服を着ていた。」とか言われた気がするのですけれどもねえ? 潔癖症ですねえ??@@ というか、他に言葉が出てこないわけでーー;。


しかも、某ニュースサイトではですねえ、ASKA容疑者の愛人が、公判で赤裸々な性生活を語ったとかで、それによると部屋にベッドがあるのに、床にマットレスを敷いて、その上にバスタオルをかけて、いろいろといたしていたそうで。それが「まるで風俗店のようだ」とか、書いてあるわけで。へー、風俗店ってそういうものなんだ? っていうか、「風俗店通いを公言している云々」っていうネタも、そういえば、ありましたよねえ?? これも妨害の内の陽動ってやつですよねえ?? 敵の陽動もエグいですが、ご当人がしゃべることもなんかすごい気がするのは、私の気のせいですよねえ?? とか思うわけですがーー;。


それから、ニュースサイトに華原朋美ちゃんのニュースが載って、GLAYのTAKURO氏と東京駅で会って、彼女が「HOWEVER」をカバーしたので挨拶に行ったら、「お互いに生きていればいいことあるね。」と言われたとかで。これって、私が兄さんよりもTAKUROさんの方がミュージシャンとしては上だと思う、って言ったことと関係があるのかな、とか思ったわけですが。朋ちゃんもNHKホール等でコンサートツアーを行っている最中と言うことで、オレンジ色の衣装を着て、楽しそうに歌っている写真も見れてうれしかったですし、だいたいその程度の規模のツアーから始めるのが、今の朋ちゃんにとっても丁度良いのかな、と思うのです。なんだか大きな箱でライブをやるほど、ステージの上の人にかかる負担も大きそうですのでね。


あとは、サウジアラビアの聖地メッカ(Mecca)で、イスラム教の大巡礼「ハッジ(Hajj)」の最後を飾る「犠牲祭(イード・アル・アドハ、Eid al-Adha)」を迎えた、という記事が目立つわけで。カアバ神殿の写真と、「ハッジ3日目の犠牲祭では、悪魔に見立てた柱に向けて巡礼者らが石を投げるが、これは悪魔に抵抗するとの意志を示すものだ。」という記事が載っていたわけで。こういう記事がニュースサイトに載る年というのも珍しいように思います。きっと誰もが、「真の悪魔」の本性が見抜けるように、そして手紙も出せるように祈ってくれているのだと思う。「あなた方の上にも、平安がありますように。」と、今の私にはそうお返しすることしかできないのです。


手紙はまあ、出すでしょう。でないと、兄さんの周囲にいる方々に「平安」があるのかどうかが、確信が持てませんものでね(苦笑)。(しかも、こういう時には「WALK」がかかる時に、すごい強い気が込められているのが分かるわけで。あの裁判の記事を申し訳なく思って下さっている関係者の皆様も、きっと多いことなのだと思うのです。そういう方々のお気遣いも本当に有り難いことだと思うのです。)



Posted by bellis 18:09 | 日記 | comments (x) | trackback (x)