本日の日誌

本日も、ときどき、でもしっかりと雨が降って。お外組もあんまり作業ができなくて。


自分の方は、住宅供給公社に依頼していた書類が届いたわけですが、なぜかコピー代の請求書が入っていなくて。大盤振る舞いだね、と思う。というか、何にそんなに危機感を抱いているの? と思う。そうしたら、「この間持って言った書類に、もう書証番号がふってあったでしょ。それは、専門家とかに見せる気が無くて、自分で何かを、それを使って主張する気、ということだし、自分できちんと図面が読めてる証拠でしょ。しかも、もう何を主張するのかも、決めている証拠、ということになるから、嫌がるんでしょ。」と言われる気がするわけで。だって、専門家に相談するようなことなんかないでしょ? と思う。


で、資料を整理して、建築士の従兄弟が、なんだか「建築士の意見書」とかいうのを出してきて、そこに近隣の地盤調査結果とか出してきていて。「それを見て、今までの地歴の調査と併せて、地盤の状態を考察できるか?」と7番目の兄さんに言われる気がするわけで。だいたい、うちの近所は、シルトが多いんじゃないかと思う。でも、扇状地であったところに開発がされているから、どこまでが元の自然のままの地盤で、どこからが造成されているのかが分からないので、よっぽどの近隣でない限り、単純な比較はできない。というか、そもそもそういう問題じゃなくて、N値と地耐力とか、そういう辺りで出鱈目が書いてある気がするんですけど?? と思う-;。パイセンも微妙なことやってるなー、と思う。でも、そういう出鱈目三昧に気が付くことが大事なのだと思う。


で、どうやら外では茶色警備員達にいやがらせしようとしているみたいで。餌場の周囲でわざと子供が騒いで、雀を虐めるわけです。雨が降ってる中、小さい子供を執拗に走らせたりして、そっちの方も虐待じゃん? と思う。まあ、でも自分ちの敷地内なら何をしようが「プライバシー」ですからね。で、隣の家との境界近くにあった「めかき菜」が倒されていて。たいした雨が降っていないから、わざとやられたのだと思う。昨日、隣のおばさんがこれみよがしに草むしりみたいなことをしていたし。「どうしましょうかね?」と思う。そうしたら、「何でも証拠に写真を撮っておくように。」と言われる気がするわけで。ま、それが基本なわけです。


で、昔家に「図説 日本の歴史」という本があって。「図説」というものは大事。文章で読んでも理解しにくいことを、目で見て理解することは大事、と言われる気がするわけで。良い本なので、途中までしか家にないので、残りを買うように言われて。で、買ったわけですが。昔は1冊1800円とかして。今は、送料込みで全巻揃って3000円であって。でも、これけっこう「力の強い」本である気がして。家に入ってから、両耳の「上」が押されるように感じて、ちょっと痛いです。で、兄さん達には「日本の歴史」を学んだら、「世界の歴史」も知らねばならない、と言われる気がするわけで。「何故?」と思う。そうしたら、「日本ではキリシタン弾圧のことが歴史に出てくるだけだけれども、それのみではローマ教会の本質はわかりにくい。ローマ教会を知るには、世界の歴史を知らなければならない。彼らの暗黒の歴史とは、十字軍、魔女狩り、奴隷貿易でしょ。」と言われる気がするわけで。人を人とも思わず、他人の財産を奪うことをなんとも思っていない歴史がそこにある。そういうことが、「キリスト教」の名前の元に正当化されてきたけれども、ローマ教会そのものが「キリスト教」の皮を被ったローマ主義そのもの、ということで。宗教を利用した略奪主義です。でも、彼らは各地の人々の風俗や民俗を良く良く研究しているから、人々は操られやすくなる。


古代中国では、人が昇仙するのに、自ら火に飛び込んで、煙と共に天に昇る、という伝承があって。これは、火葬の風習と大いに関係があって、遊牧民の間にそういう習慣があったわけです。それのみでなく、「焼かれて天の国へ行く」ということは、「天の国」とは「燃える太陽の主宰する国」でもあって、「人」とは「太陽神の子供」でもある、というような思想があるのだと思う。だから、死んだら焼かれて、天の太陽の元に戻って太陽と一体化して、また再生を目指す、というような思想があったのだと思う。で、古代中国では「刑罰」としての「火刑」はあまり流行らなくて、昇仙の伝承は伝承として、そういう風習も一般化はしなかった。生きたまま人を焼いたら死ぬのが普通であるので、昇仙した人が「実際にいた」とは考えにくい。


でも、印欧語族の社会に入って、こういう思想は、二つの狂気を生み出した。一つは、「サティー」という寡婦殉死の制度。もう一つは「魔女裁判」である。キリスト教では、「最後の審判」というものがあって、それまで肉体は保持されているべき、と考えられていたので、火刑は再生を阻む極刑とされていた。思想は変節していても、ラーマヤーナのシータが貞節を疑われた時に、身の潔白を訴えて、火に自ら飛び込んだように、「罪無き者は焼かれない」という思想がいずれかの時代にあったはず。それがねじ曲がって「罪ある者は焼き殺されなければならない」となっている気がするわけです。いずれも歪んだ太陽信仰のなれの果てであると思う。そもそも、「生きた人を燃やすこと」の禁止は旧約における「燔祭の禁止」から発生しているのだと思う。それが一神教が拡がる過程で、「最後の審判」と結びつけられて、「燃やされると再生できない」とされるようになり、本来「人(生きている者も死んでいる者も)は燃やしてはならない」という思想が逆転して、「重罪人は燃やすべし」となったのだと思う。でも、そもそも、「燔祭」は人を殺さないために禁止されたものであるので、罪人であろうが、なかろうが、殺したのでは本来の禁止の意味をなさないことになる。だから、「重罪人は燃やすべし」という意味不明な「思想の逆転」は、本来の趣旨を逸脱しているし、「罪人であれば火刑にして良い」という大義名分を与えることで、罪のない多くの者を殺す根拠とされた。まさに、罪無き者を焼殺する「燔祭」である。要するに、ローマ教会は禁止されているはずの「燔祭」を公然と行う口実のために「魔女狩り」をやってただけだし、殺された人々の財産を没収して教会や王侯は肥え太った。しかし、ユダヤ教、キリスト教にわたって禁止されている「人の燔祭」を出鱈目な口実をつけて実行してきた者が、真に「神の子ら」と言えるか? ということになるわけで。そうやって、禁止されていることを、いかにも当然みたいな口実だけ作り上げて、好き勝手にやるのがローマ教会のやり方であるし、蛙の王家のやり方でもある、とそういうことなのだと思う。


で、なんというか姉が「パプリカ」という曲を、さんざん「良い曲だ」とか言うわけで。え、だって、なんで「空」に種を蒔かなければならないの、種は地面に蒔くものでしょ? とか、「花が咲いたら」種を蒔かねばならないの、種は花を咲かせるために蒔くものでしょ? と思うわけで。この歌には、「目の前で意味不明にUターンする車」と同じで、「意味不明な逆転」を強く感じるわけ。そんな意味不明なことをしても、花も咲かず実もならない。何も良いことはない、のだけれども、聞きやすいメロディーに乗せて歌えば、「良い曲」みたいに聞こえたりする。でも、そういうことをすると、誰かどこかで得になる人が必ずいるんだー、だから、得になる人が、そういう意味不明なことを考え出しては世に広めようとする。昨年の「USA」とかもそうだけど、こういう「意味不明」なものを「良いもの」だと思うだけで、もう洗脳にはまってるのだと思う。「USA」の方は母親がけっこう関心を持っていたし、「パブリカ」の方は姉が関心を持っているし、変なうち、と思う。私の方は、7番目の兄さんの影響を受けて、どんどん理屈っぽくなっているところなので、ますます意味不明なものは相手にする気がなくなってるわけですが。家の敷地の中で、どこっでパン撒こうがプライバシーなので。それを意味不明に迷惑とかって言うなら、まずはそちらがかけている古い迷惑から対応するのが当然で妥当、ってそれだけのことですともさ。物事には順番ってものがあるのです。



Posted by bellis 00:27 | 日記 | comments (x) | trackback (x)