6月の悪夢
-- 2014-06-29 Sunday
20年前の6月27日に「松本サリン事件」があって、私の同級生が一人亡くなったわけです。当時、私は学3(要するに医学部の5年生ということ)で、事件のあった日は講義も休講になって、当初は何が原因なのかも分からずに、全体にピリピリした空気が漂っていたように思います。で、2コマ目の時間に、学3も学4の講義室に集められて、学4のクラス長が、泣きながら彼女の死を報告してた。あまりにも、突然過ぎて衝撃的な事件でした。(なんで、学4の彼女が私の同級生なのかというと、私が1年だぶってるからなわけですが)
ここ1ヶ月くらい、ハンナハンナに取り組んで、類話を考察して、どうも自分でも良く分からない点があって、なかなか前に進まなくて。で、アップして気が付いたわけです。6月27日っていうのは、だいたい夏至から5~6日のところにくるんじゃないのか、と。それが神話的に示唆することはただ一つ、曰「タンムーズの葬式」。
あの時、あの教室にいて、沈痛な面持ちをしていた人たち、泣いてた人たち、彼らは、もしこの世に「神」というものが実在するのだとしたら、その時神に何を願ったのだろうかと思う。タンムーズの死に嘆き悲しむふりをする人たちのように、死神の復活を望んだのか、それとも正義を願ったのか。それは私には分からない。私は「神」というものの存在は基本的には、信じる人ではなかったし、その後のマスコミと警察の迷走ぶりはまだ知らない段階だったから、もっと単純に「法治国家」というものの理性を信頼していたし、その内容に自分が口を挟めるような立場ではないと思っていた。そういうことは警察や司法に任せるべき問題だと思ってたし、民主主義とは、間違ったことがあれば、たとえ一人であっても、法律に則って誰に対しても正統に権利を主張できるもの、であると「悟る」ようになったのはもっと後のことで、だいたいあの時、私個人に何か主張できる「権利」みたいなものがあるとも思っていなかったし。だって、死んだのは私ではないのだし、彼女の死を悼むことはできても、彼女に変わってその権利を主張することはできない。
かくして、泉水ちゃんの時と同様に、死は私の近くを足早に駆け抜けていき、その後の警察やメディアの動きも含めて、「世の中ってこんなことが起き得るんだ!」という深い衝撃だけが残ったわけで。私の受けた衝撃と、その時に感じた孤独感を知っている人はいたかもしれないけれども、直接に私が話せた人はいなかった気がするわけで。当時、信大病院は、あの騒ぎの中、自分のところの学生以外は受け入れない、みたいなことをやっていて、確か一命を取り留めた同級生も、民間の病院に入院していたように思う。
私がこの件に関して、同級生達の言葉で印象に残っているのは、とある人が、同じクラスの某K氏が、事件の後、怯えて泊まりに来て困った、と愚痴をこぼしてたことと、誰かが、信大病院の姿勢を批判するようなことを言ってたことだけだった。実際、患者の治療を断るような真似しておいて、治療法を纏めるような場にだけ、主人公面して仕切ろうとする当時の信大病院の姿勢はどういうものかとは、私も思っていました。(でも、この「誰か」というのが、どうもちょっと正確に思い出せないというかーー;。大人しそうな人だけれど、時々こういう鋭いまっとうなこと言う人が言ったような気がするのですけれどね、違ってたらゴメンね、という感じなわけで。福山君の海月っぽい「暁」とか聴いて思うこととか無いですよ。それはきっと気のせいかとーー;。)
そして、20年たって、とかく最近の世の中は、神話的に暗喩的に思えて、どうも私にとっての「世の中」とはそういうものなのであろう、と悟るようになったわけですが、先週も先々週もMステには泉水ちゃん絡みのVTRが流れていて、「揺れる想い」も「負けないで」も好きな曲ですけれども、なんで今更泉水ちゃんなんだろう? とは思ったわけで。今の彼女の曲には「死の臭い」がどうしてもつきまとうように思うからです。それで気が付いたのですけれども、夏至の時期に彼女の曲を流すことにも「暗喩的な意味」があるのかも、ということに。泉水ちゃんの死に、何か暗喩的な意味があったのだとしたら、人々はそこに何を見たのだろうかと思う。
かつて、すぐそばにあった「理不尽な死」に対して、何の反応も無かった者が、怒りに目覚めた時に、そこにいたのは「正義と平和を愛するアテーナー」であったのか、覇王アレクサンドロス3世の胸に輝くのが相応しい「破壊と死の女神メドゥーサ」であったのか。でも、本当はそのどちらでも無いのだと思う。
「死が穢れ」というけれども、死は誰にでも訪れるもので、自然なもので「穢れ」なんていうのがおかしいのだと思う。神を「死神」にしたいから、「理不尽な死」を捧げるのだというのならば、それはその「死」が穢れているのではない、何の罪も無い人をそんなことに利用しようとする者の性根こそが「穢れて」いるのです。理不尽なことに怒りを覚え、正義を求めて、理性と理論で戦うことができるもの、それが「人間」だと思うから、ただ、そのように人としてありたい、と思うだけです。でもまあ、世の中にはいろいろな「目」があるということも分かってきた昨今ですので。そういうものに惑わされずに人としてあることも大切なのだな、と思います。
ここ2年くらいで、急変した生活の中で、「最初」と「最後」という言葉とか、「ありがとう」という言葉とか、なんだかキーワード的な言葉をあちこちで見かけたわけですが、遂にその場所でも「最初」とか「最後」という言葉を見かけるようにもなったのだな、と思う。夏至の季節を乗り越えて、神が誰かの死を得て、復活するものなのだという思想こそが消えて欲しいものだと思います。何年の時を経ても、神とはそのようなものではあってはならないと、人としてそう思うだけだから。それだけのことです。
ここ1ヶ月くらい、ハンナハンナに取り組んで、類話を考察して、どうも自分でも良く分からない点があって、なかなか前に進まなくて。で、アップして気が付いたわけです。6月27日っていうのは、だいたい夏至から5~6日のところにくるんじゃないのか、と。それが神話的に示唆することはただ一つ、曰「タンムーズの葬式」。
あの時、あの教室にいて、沈痛な面持ちをしていた人たち、泣いてた人たち、彼らは、もしこの世に「神」というものが実在するのだとしたら、その時神に何を願ったのだろうかと思う。タンムーズの死に嘆き悲しむふりをする人たちのように、死神の復活を望んだのか、それとも正義を願ったのか。それは私には分からない。私は「神」というものの存在は基本的には、信じる人ではなかったし、その後のマスコミと警察の迷走ぶりはまだ知らない段階だったから、もっと単純に「法治国家」というものの理性を信頼していたし、その内容に自分が口を挟めるような立場ではないと思っていた。そういうことは警察や司法に任せるべき問題だと思ってたし、民主主義とは、間違ったことがあれば、たとえ一人であっても、法律に則って誰に対しても正統に権利を主張できるもの、であると「悟る」ようになったのはもっと後のことで、だいたいあの時、私個人に何か主張できる「権利」みたいなものがあるとも思っていなかったし。だって、死んだのは私ではないのだし、彼女の死を悼むことはできても、彼女に変わってその権利を主張することはできない。
かくして、泉水ちゃんの時と同様に、死は私の近くを足早に駆け抜けていき、その後の警察やメディアの動きも含めて、「世の中ってこんなことが起き得るんだ!」という深い衝撃だけが残ったわけで。私の受けた衝撃と、その時に感じた孤独感を知っている人はいたかもしれないけれども、直接に私が話せた人はいなかった気がするわけで。当時、信大病院は、あの騒ぎの中、自分のところの学生以外は受け入れない、みたいなことをやっていて、確か一命を取り留めた同級生も、民間の病院に入院していたように思う。
私がこの件に関して、同級生達の言葉で印象に残っているのは、とある人が、同じクラスの某K氏が、事件の後、怯えて泊まりに来て困った、と愚痴をこぼしてたことと、誰かが、信大病院の姿勢を批判するようなことを言ってたことだけだった。実際、患者の治療を断るような真似しておいて、治療法を纏めるような場にだけ、主人公面して仕切ろうとする当時の信大病院の姿勢はどういうものかとは、私も思っていました。(でも、この「誰か」というのが、どうもちょっと正確に思い出せないというかーー;。大人しそうな人だけれど、時々こういう鋭いまっとうなこと言う人が言ったような気がするのですけれどね、違ってたらゴメンね、という感じなわけで。福山君の海月っぽい「暁」とか聴いて思うこととか無いですよ。それはきっと気のせいかとーー;。)
そして、20年たって、とかく最近の世の中は、神話的に暗喩的に思えて、どうも私にとっての「世の中」とはそういうものなのであろう、と悟るようになったわけですが、先週も先々週もMステには泉水ちゃん絡みのVTRが流れていて、「揺れる想い」も「負けないで」も好きな曲ですけれども、なんで今更泉水ちゃんなんだろう? とは思ったわけで。今の彼女の曲には「死の臭い」がどうしてもつきまとうように思うからです。それで気が付いたのですけれども、夏至の時期に彼女の曲を流すことにも「暗喩的な意味」があるのかも、ということに。泉水ちゃんの死に、何か暗喩的な意味があったのだとしたら、人々はそこに何を見たのだろうかと思う。
かつて、すぐそばにあった「理不尽な死」に対して、何の反応も無かった者が、怒りに目覚めた時に、そこにいたのは「正義と平和を愛するアテーナー」であったのか、覇王アレクサンドロス3世の胸に輝くのが相応しい「破壊と死の女神メドゥーサ」であったのか。でも、本当はそのどちらでも無いのだと思う。
「死が穢れ」というけれども、死は誰にでも訪れるもので、自然なもので「穢れ」なんていうのがおかしいのだと思う。神を「死神」にしたいから、「理不尽な死」を捧げるのだというのならば、それはその「死」が穢れているのではない、何の罪も無い人をそんなことに利用しようとする者の性根こそが「穢れて」いるのです。理不尽なことに怒りを覚え、正義を求めて、理性と理論で戦うことができるもの、それが「人間」だと思うから、ただ、そのように人としてありたい、と思うだけです。でもまあ、世の中にはいろいろな「目」があるということも分かってきた昨今ですので。そういうものに惑わされずに人としてあることも大切なのだな、と思います。
ここ2年くらいで、急変した生活の中で、「最初」と「最後」という言葉とか、「ありがとう」という言葉とか、なんだかキーワード的な言葉をあちこちで見かけたわけですが、遂にその場所でも「最初」とか「最後」という言葉を見かけるようにもなったのだな、と思う。夏至の季節を乗り越えて、神が誰かの死を得て、復活するものなのだという思想こそが消えて欲しいものだと思います。何年の時を経ても、神とはそのようなものではあってはならないと、人としてそう思うだけだから。それだけのことです。