昨日の夜はなんだか夢を見て。久しぶりに石井のライブを見に行ったのだけれども、箱がなんだか小さくて。で、石井がカズレーザーの衣装みたいな真っ赤な服を着て踊っていて。で、全然面白くないので、途中退席する客が大勢いて。私も面白くなかったので、途中で抜け出して、駅か何か?でファン友達と「どうしちゃったんだろうねー?」とおしゃべりする、という夢を見て。
だいたい、「先祖を神にみたてて祀る」というのは、ただお祀りしてるだけではなくて、「祭祀で先祖の霊を呼び戻して、宣託を求める。」ということなわけです。今でも、お盆とかに「先祖の霊が戻ってくる」とかって言うし。だから、次第に先史時代から、古代の中国の王たちはこれが昂じて「先祖を生き返らせる」ことを企み始めるわけです。「生まれ変わる」といったら、ある意味、別の人間になって生まれ変わってくることを指すわけですが、「生き返る」って言ったら、死んだ人そのものが戻ってくることを指すわけで。「生まれ変わる」ことと「生き返る」ことは違うことです。でも、それは先祖がどうの、というよりは「自分が死にたくない、死んでも生き返りたい」ということだったのだと思う。いくつになっても、「自分だけは死なない」と意味不明に思い込んでいる人はいるしー;。で、そういう人達は、「生き返り」の象徴としてセミなんかを信仰していました。あとは、さなぎになって休眠したあとに成虫になる昆虫とか。そういうものを、「死んで生き返ったもの」だと思っていたわけです。だから、「蝶」なんかは神話的には「死んで生き返ったもの」=「あの世から帰ってきたもの」の象徴なわけです。「あの世から帰ってきたもの」こそが、生も死も超越した「永遠」で「絶対的」な英雄なのです。だから、スキタイの王族とか、古代エジプトの人々は、死ぬと死体をミイラにしました。自分が生き返るときに、体がないと生き返れないからです。古代中国の皇帝たちは、ミイラになる代わりに「不老不死の薬」を探し求めました。「生き返る」間すら、無駄だと思ってた。でも、死んだ人が生き返るわけはないし、「生き返り」の本質とは何? と思う。「生まれ変わり」の方は、「死んだら他の者に生まれ変わる」ということだから、概念としては単純で分かりやすい、と思うわけです。「生き返り」とは、昔の人が「死」というものをよく理解していなくて、休眠した昆虫が活動し出すとか、何かの拍子に気絶した人が目を覚ます、とかそういうことから始まったのかもしれないけれども、本当に死んでしまった人は、腐るし、絶対に生き返ったりしない。そうすると、「生き返る」ということは、要は「子供を自分と同じに育てること」と言われる気がするわけで@@。「自分の好きなように育てる」のではなくて「自分と同じように育てること」と言われる気がするわけで@@。だって、子供が「自分と同じ」に育ったら、その人の思想とか生き方とか考え方は、当人が死んでも「永遠」でしょ? と言われる気がするわけで@@。だから、イザナギを受け継ぐ子は代々の「イザナギ」と同じになるように育てられる。スサノオをを受け継ぐ子は代々の「スサノオ」と同じになるように育てられる。ツキヨミを受け継ぐ子は、以下同文、と言われる気がするわけで@@。そうしたら、イザナギもスサノオもツキヨミも永遠の存在でしょ? と言われる気がするわけで。要するに、2番目の子は「スサノオ」になるように育てられていて、「生き返ったスサノオ」という扱いなんですよねえ? と思う。だから、先代のスサノオの「生まれ変わり」であるかどうかは関係ない。「スサノオ」のように育てばいいだけだから。でも、この場合の「スサノオ」というのは、「死んで生首だけになった豚」のことなんじゃん? あらゆるものをガツガツ食べて、意味不明なことを怒鳴るけれども、自分ではまともに動くこともできない@@。
要するに、「総本家」、代々の「イザナギの生き返り」にとっては、「誰かの生まれ変わり」で、生まれた時から人生経験とか、そこからくる自分の考えとか持ってる人は、逆に「思い通りに育てられない」から邪魔なんじゃんねえ? と思う。でも、「神」として生まれた子供は、死ぬまでその役目から退位できない、というのが世界共通の不文律らしいので@@。だって、誰もが「狂気のユーピテルですら、寿命が尽きるまでは退位させることはできない。なぜなら彼は「真の神」だから。」と言う気がするわけで。だから、総本家もそうだけれども、私のことは退位させられないので、「自分から自滅しろ」って方向に持って行こうとするわけで-;。
で、先週末はテレビでWANIMAを見る機会が多くて。西国の漁師の町に生まれた彼らであるので、大部分は伝統的な「漁労民」の子孫ですよねえ? 要するに「良渚の子供達」といえるんじゃないの? と思う。彼らの地元にあるでかい「えびす像」を見てげんなりするー;。そいつ、「蛭子」という名の通り「蛭」みたいな奴、と正直思う-;。頭がどこについているのかははっきりしませんが;。でも、なんだかわかりにくいわけですが、あのボーカルの子は、「蛙の目」の子だよねえ? 漁労民の目の子じゃないよね? とそういう気がするわけで。その彼が選ばれて成功しているのは、けっしてそういうことと関係ないわけではない、と思う。それにしても、熊本は駅に「くまもん」の首があるそうですし、なんか「どういうところなの?」と思う-;。「熊の首」というのは「豚の首」に熊を無理矢理習合させたものであると思う。それを言ったら、権堂の「首だけの獅子」も「豚の首」と「獅子」を無理矢理習合させてるものなのだと思う。で、それで、ふと「ブンブブーン」の紗栄子がゲストの回で、光ちゃんが、生菓子で「人の首」を2つ作って「呪い」とかって言ってたのを思い出して-;。7番目の兄さんの目には、2番目の子と、1番目の子は、そのように映っているのかと思った。でも、どちらも無理矢理「7番目の兄さんと習合しようとして」呪いのように取り付いてる。私のことも、呪って殺そうとしてる気がする-;。
でも、ともかく、1番目の子のことも、2番目の子のことも良く分からない。「そうなるように育てられた」ら、そうなるもんなの? 自分の頭で考えて「これは変」とかって思うことってないの? むしろ、そういう点では、私の方が「変わってる」の? といろいろ思うわけで。まあ、私には文姜のようには生きられないし、そういう気もない。「そうしろ」と言ってくる人は「死ね」とかそういう風に思うと思うわけで-;。
で、お外組はだいたいいつもと同じ通りで。ただし、午前中は買い出しに出かけて。
私は書証についてだいぶ書き終わったので。経過について、仕上げのまとめをしています。なんかもう50頁くらい、「書証」で書いてる気がするわけでー;。相手方が、本論とは関係のない書証を出してくるので。書面で認否する問題でもないけど、書証では釘を刺しておかないと、っていうのを書いていたらこんなになった気がするわけでー;。書面にはもっと纏めます。当たり前だけど-;。
本日は割とせっせと書類を書いて。今木くずについて書いているところで、もうちょっとで終わる。そうしたら、後は地盤の分類のことを書いたら、書証については完了、ということで。嵐のDVDを見ながら頑張ったのでした。
で、親にデュマの「ボルジア家」を貸したらずいぶん面白いらしくて。アレッサンドロ6世と息子のチェーザレはやりたい放題のしょうもない親子だったわけですが。でも、チェーザレの野心のおかげでイタリアは統一の道に進むわけで、イタリア統一の功労者としての側面もあるわけで。チェーザレと妹のルクレツィアとのただれた関係とか、ドラマチックな一族ではあるので、古来より多くの作家が彼らを書くことに挑んだわけですが。母親はあんまりボルジア一族のことは知らなかったらしい。あたくしは漫画で読んで知っていました(笑)。川原泉とか氷栗優とか。彼らの常軌を逸してる生き方は、少女漫画のテーマとしても好まれるかと。で、「日本でいうと、いつの時代のことなのか?」と聞かれたので、だいたい室町の頃だろう、とは思ったのですが、高校生用の最新の世界史の図説を買って、そこにけっこう詳しい年表も載っているので、調べてみたら、室町時代もけっこう末の方で、戦国時代に入りかかっている時期でした。漠然と15世紀くらいの人かと思っていたら、15~16世紀にかけての人だった。高校の教科書って、改めて今見るとすごい詳しいなー、と思います。これを完璧に覚えていたら、それだけで「知識人」になれると思う。だから、本来的な意味から言ったら、「高校」っていうのは、一般的な意味での「高等教育」を広くまんべんなく学ぶところで、「大学」というのはそれを土台にして更に専門性を深めるところ、なんだと思う。でも、今の高校生は、大学入試もあるし「勉強、勉強」ってそればっかりで、勉強して知識を深めることの楽しさとか、意義とかは逆に縁遠くなってるのかもなー、と思ったのでした。
で、お外組はだいたいいつもと同じ感じであって。雨が降って? 写真を撮るのを忘れてしまいました-;。
一昨日は、あとは、毎年、年に1度の恒例の稲垣君の「本怖」を最近見て。夜中に海岸で机を燃やす話とかは、幽霊も怖いけど、幽霊よりも怖い人間の不良に襲われる可能性とかを考えてしまうわけで-;。そのリスクの方が大事なんじゃないの? 女の人が夜中にそんなとこ行っちゃ駄目、と思うわけで-;。だいたい、兄さん達には、「妻神はしつこい地縛霊とかも追い払ってしまう体質だから、幽霊とか見たくてもみれないでしょ。」と言われる気がするわけで@@。それもどうなの? と思う。どうも私は生きた「お祓いマシーン」であるらしくて-;。
それから、丁4について、「何を書くべき」って日記に書いたら、速攻で「マニュアルを一通り見てみるように」と言われる気がするので、見てみたら、「どのような考察をして、どの調査法で調査したら妥当であったのかを書くように。」と言われる気がするわけで@@。すげー、速攻だー、と思う。建築について、いろいろと言われるときには、「いたジャン」でわざわざ「明治大学建築科を出てます」って自己紹介してた伊野尾っちを思い出すわけで。建築科って建築関連の法律も習うのですよねえ、まあ医学部も関連法律はちょこっとはかじるわけですが、と思う。明日、適当に抜粋して書証に纏めたいと思います。
昨日は夜、あまりにも眠くて日記が書けなくて。作業もあまり進まなくて、「なんでだろう?」と思ったら、「雨が降って水くみをやって疲れたからでしょ」と言われる気がするわけで-;。体力ないなー、自分、と思う;。そこで早く寝てしまいました。
というわけで、昨日はあまり書類は書かず、書証の整理をしていて。今日もそれを続けていて。で、昨日ようやく、Amazonに注文した本が届いて。その中に「紅山文化と檀君史話」という本があって。要は古代遼東半島に栄えた紅山文化とは、朝鮮の文化の起源であって、朝鮮の起源的神話である檀君神話に結びつけよう、という本である。だからだと思うけど、中国では「猪竜」として有名な古い時代の竜の「豚」の部分を強引に「熊」と言い張ってるわけで。「どう見てもそのでかい鼻は豚」と思うわけですが、ともかくこれを「熊にしてしまおうキャンペーン」な本である。ちょっと内容に癖が強い気がするわけですが、ともかく、紅山文化について書いてある本が少ないので-;。少なくとも、遺跡から出土した物品の写真は本物、と思うわけで。で、いろいろと各地の遺物とも比較されていて。で、中に「凌家灘太陽文様」という良渚文明と同じ頃に、長江の北側にあった凌家灘遺跡から出土した玉製の「太陽鳥」の写真が載っていて。で、その太陽鳥の頭は「鷹」なんだけど、翼が「豚」になっているわけで@@。「豚の太陽」の文様って始めて見たよ、というか、「豚で男性形で太陽神」っていったら、パプア・ニューギニアとかの、生け贄を求める人食いの太陽神とか、「島のケルト」の「豚のキアン」しか思いつかないのだけれども、「豚が太陽」というのは、れっきとした「漁撈民の思想」だよねえ? と思う。それが図示化されたものが、良渚とほぼ同じ文化を持っていたと思われる遺跡から出てきてるなら、良渚でも同じ神を信仰していた、って思っていいよね? と思う。しかも、この変な太陽鳥の胸に描かれた「太陽」は「八芒星」である。要するに、「八芒星」とは「豚の太陽の象徴」だし「伏羲」の象徴だよね? と思う。で、いつ出版された本なんだろう? と思って見たら、今年の6月に出版されたばっかりの本だった・・・@@。でも、民話を知って、神話を知って、良渚文化とその周辺の歴史を知らなかったら、「豚の太陽」の文様を見ても、その意味は理解できなかったであろう、と思う。だから、この「豚鳥」にたどり着くまでに、本にいくらつぎ込んだと思う? と正直思ったわけですが。おかげで、「蛙の王家」は「怒り狂いまくり」ということらしくて-;。
なんだか、父親は人の持っている本を探りまくるし、どこに置いてあるのかかまをかけてくるし-;。本が多くなってきたので、母親には本棚を持ってくることを言われたのですが、7番目の兄さんには、服を整理するための段ボールも持ってくるように。そろそろ西側はちゃんとしてきたので、他の2人もそのくらい持ち込んでも大丈夫でしょ、と言われる気がするわけで。
で、昨日は雨が降ったので、お外組の仕事はお休みであって。今年は台風が、短い期間で次々ときたなー、と思います。でもまあ、我が家には大禍はなかったわけで。で、それ以外は嵐の20周年DVDが届いたので、昨日からずっと見ていて。
そして、今日は一応朝から作業をして。書証の整理がまだ続いて。そして、丁4号証まで書き終わって。これで、甲号証に書いて、経過を纏めれば、後は書面に整理するだけだー、と思う。
お外組は、まだ水くみがけっこう必要なようであって。
あとはたまたま見たテレビ番組に寺田心君が出ていて、もう小学校5年生だって言っていたので。子供が大きくなるのは早いなー、もう二桁の年になってるんだねえ、と思う。
だけど、良渚の「太陽鳥」って、なんであんな「翼が豚」とか変な鳥なんだろう? と思う。だいたい、そもそも「太陽」とは「虎」のことで、「鳥」は太陽神に食事を運ぶ召使いだったはず。良渚の前身であった河姆渡では、鳥が太陽であったわけではなくて、鳥が太陽を運ぶ役目を担っていたはず、と思う。そうすると、「それは神が殺されたからでしょ?」と言われる気がするわけで@@。
河姆渡も末期の方というか、「母系の稲作社会」は、「太陽(虎、女神)」であって、それに仕える「鳥」とか「豚」とかもっと後には「牛」とか、草食動物が女神の召使いでもあり、餌でもあったわけで。で、稲作民と一緒に暮らしていた漁撈民は、「魚の神」を信じていたけれども、その「魚」は「ウナギ」とか「蛇」とかも同じように見なされることがあって。要は水性の動物とか、そういう感じであって。で、漁撈民は、第1子を殺して神に捧げる、といえば聞こえはいい? かもしれないけれども、ともかく第1子にあたる嬰児を殺して食べてしまう習慣があって。そして、漁撈民の神々も、太陽女神に従うものとされていたのだと思う。
一方、虎の太陽女神を頂く人々も、虎が猛獣であるからして、他人を生け贄にする習慣があった、というか、首狩りの習慣があったわけで。おそらく、稲作による急激な人口の増加とか、天災等で人々の生活が成り立たなくなった時に、同族、異民族を含めて「人の生け贄」の習慣が顕著化したのではないのか、という気がするわけで。それは、周辺の他部族、特に「狩られる側」の反発を買うので、「狩られる側」の人々は「黄帝」を中心として長江流域に攻め込んだのだと思う。そして、遊牧民を中心に発展した「父系」の文化を持ち込むと共に、「虎の太陽女神」への信仰を禁止し、弾圧したのだと思う。そして女神に対する人身御供は禁止され、女神の夫であった「草食獣」の神も殺された。それが、蚩尤や饕餮であって、その体はバラバラにされて、各地に埋められた、とかいうわけで。そして、「女神」の後継であった女性には「黄帝」が新たな夫として入り込み、「父系」の統治を始めたのだと思う。そうやって政略結婚で政治的支配を確立しようとしたわけだ。
でも、その子孫達は、「人身御供は禁止」という教えを守る気はあんまりなかったわけで。でも、だからといって、「虎の太陽女神」への信仰を露骨に戻すこともなかった。というか、そもそも女神の夫である「豚の王」としての蚩尤は、女神の代理人として人々を統治する役目を負っていたし、「女神の声を聴くシャーマン」としても君臨していたのだと思う。だから、「女神の子孫」として「男系の王」として立った人は、同族が代々引き継いできた「神の声を聞くシャーマン」としての役割も引き継いだ。一方、「生け贄を求める悪しき神」を倒して「父親」の「黄帝」のことも無視できないから、「黄帝の跡取り」としての「王権」も引き継いだ。そして、表向き「虎の太陽女神」を信仰することができないので、最初はカモフラージュとして「召使いである鳥神と豚神(蛇神)」を習合させて、「彼らが太陽を保護する神々」とでもして、その代理人が「王である」とでもしていたのだと思う。でも「王」は「太陽女神の息子」でもあるので、しまいに「自らが鳥と豚の太陽神(すなわち竜神)」と名乗るようになったのだと思う。確か古代エジプトのファラオも、最初は「自分が太陽神の代理人」だと言っていたけど、しまいには「自分が太陽神の化身」と言うようになったわけで。そして、「虎の太陽女神」に捧げていた「生け贄」を「鳥と豚の太陽神」に捧げるようになった。それで、「豚の神に豚を捧げる」ような奇妙な祭祀が始まるわけで。「豚の太陽神」は、元々「虎の太陽神」を乗っ取って置き換えただけのものだから、神も、生け贄も、どちらも「豚」というような奇妙なことになってる、と言われる気がするわけで@@。「鳥の太陽神」は、この豚神と最初から習合していたものだから、今、世界中の古代遺跡とかで、「太陽鳥」としてシンボル化されているものは、みんな本来は「太陽の召使い」であったものが、「太陽神」の地位を乗っ取った「偽物の神」だから、と言われる気がするわけで@@。
だから、「太陽鳥」とされているものは、全部ただの鳥ではなくて、その本質は「豚」と言われる気がするわけで@@。でも、蚩尤は殺されてしまっているし、「黄帝」を子孫に持つ人々は、あくまでも蚩尤は、先祖の英雄に殺されたままでいてくれなければならない。だから、竜の原型である「猪竜
」というのは、「猪」の頭は「首を切り落とした猪」で「死んだ太陽」のこと。「竜」の「尾」は「下半身だけの竜」で「死んだ水神」のこと、と言われる気がするわけで@@。そして、王たちは、先祖の神に生け贄を捧げると、先祖の霊を下ろすことができて、その言葉を聞くことができる、と考えられていた。だから、祭祀では一番大きくて立派な雄豚が生け贄に捧げられた。しかも、そういう「死霊の神」に「黄帝」も習合させてしまって、「黄帝」とは「豚神」を殺すものであるので、そこに豚を生け贄に捧げることを正当化した。だから、豚とは、黄泉の国から死んだ先祖の霊を呼びもどす「重要な媒介」と考えられるようにもなった。王族は豚神の子孫でもあるので、豚は人であり、人は豚でもあるわけです。そして、豚神の子孫である王が、神を黄泉の国から呼び戻す力があるとされた。
でも、こういう考え方が、周囲に拡がるにつれて、「豚神」の存在は隠されるようになりました。なぜなら、部族によって豚よりも羊を重要視するところもあるし、牛の方を重要視するところもあるので。豚がどうでもいいと思っている人達には、豚は神になり得ないからです。だから、「牛」の方が重要視されるところでは、「豚神」は「牛神」に置き換えられました。古代エジプトとかメソポタミアとかです。彼らは本来的には、妻であり猛獣である太陽女神を守る存在でしたが、しまいには自分自身が「太陽神に相当する主神」として君臨するようになった。だから、太陽鳥(豚+蛇神)信仰の人達の「神」は全て「死霊」だから、と言われる気がするわけで@@。なぜなら、黄帝が神を殺して黄泉の国に追放したから、人々は神を呼び出してその声を聞くのに、特別なシャーマンが必要となった。それだけでなくて、「死者を生き返らせる研究」が盛んになって、人々は「死んだ神」を生き返らせよう、とかそういうことも考えるようになりました。そして、シャーマン達にとっては、「一部の人は転生を繰り返して生まれ変わるけれども、他の人達の人生は一度きり」ということも我慢なりませんでした。神は、自分が黄泉の国から呼び出す存在なんだから、死んでてくれないと困るのです。一方シャーマンである自分たちは永遠に生きていたいわけ。そうして、「神の代理人」としてうまい汁を吸い続けたいわけで。だから、「神」に相当する子供が生まれると、「代理人」の言いなりになるように育てるわけで。一方は「頭」しかなくて、口で意味不明なことをガミガミ言うけれども、自分では何もできない子、もう一方は「尻尾」しかなくて頭がないので自分で何も考えられない子、ということで。そして、父系の「代理人」は、「頭」の子が本当は「蚩尤」であるのに、そこに無理矢理「黄帝」もこじつけて習合させているので、「黄帝」がかつてやったように「太陽女神」を「頭」の子に殺させようとしてる。何故なら、太陽女神を殺すのは黄帝の役目であるので。
でも、「黄帝」というのは、そもそも自分勝手に人を生け贄にするようなことを止めるために戦ったんじゃないの? ということで。しかも、当然「黄帝」の方が「ご先祖様」なのであって、子孫にこき使われるための召使いであるわけではない。だから、富の王家は「生きている黄帝」を擁して、人々が共存共栄できる世の中を模索し続けてきたわけで。
でも、「死んでいる神」の代理人って何か変じゃないの? と思う。そうすると、「そもそもローマ的キリスト教が「死んだイエス・キリスト」の代理人」が統治するというものでしょ?」と言われる気がするわけで@@。イエス・キリストがあー言った、こう言ったと言っても、実際に「本人がこう書いた確実な書物がある」とかってならない限り、実際にそう言ったのか、言ったとしても巷で言われているのと同じ意味で言ったのかは誰にも分からないわけで-;。現行の「キリスト教」とは多かれ少なかれ、そういうものである。でも、大名家は違う。代々の大名家が「神」として信奉しているものは「生きているイエス・キリスト」であって、彼らが興味を持つのも「生きているイエス・キリスト」が何を言ってるのか、言うのか、ってそういうことだから、と言われる気がするわけで@@。そもそも大名家は「黄帝」のことはそれほど高く評価していないわけで、「当人がいくら優れた人物でも、変な子孫を大量に残したいい例」くらいにしか思ってなさそうなわけで-;。大名家の偏愛と忠誠は「女王卑弥呼であったところのイエス・キリスト」にしかない、と言われる気がするわけで。
で、親も気づき始めたことだけれども、「裁判」というのは、「2番目の子との戦いである」という気がするわけで。でも、そうすると兄さん達から、「それだけじゃないでしょ。もう一人、何も言わず、何を考えてるのか分からないのがいるでしょ。」と言われる気がするわけで@@。要するに、片方が「何を言っているのか分からないけど文句ばっかり言ってる」2番目の子の代理人、であるなら、「何を考えてるのか分からない」方は1番目の子の代理人でしょ? と言われる気がするわけで-;。だいたい、いつも私にぶつけられるのはその二人、ということで-;。なんだろう、「蛇の尻尾」というよりも「なんかのヒモ」なんじゃないの? というか、どうも影が薄すぎて、1番目の子のことがますます良く分からない、と思うわけで-;。ともかく、変な裁判、気味の悪い裁判であるー;。でも、頑張って細かいことをつついているわけですー;。
台風21号が南海上から近づいてきています。でも、本土には来そうもないので、あんまり雨は降らない気がする。今は風がちょっと吹いています。雨も少し降っています。
昨日は、T商会に石を出しに行って。蛇の兄さんにお手紙を出して。一ヶ月くらい前に、某A薬局に、そこにおいていない喉につける薬を注文して、取り寄せて貰うことにしたわけです。そうしたら「2週間くらいしたら来ます」と言われて「入荷したら電話します」と言われたのですが、2週間しても電話が来ないので、行ってみたわけ。そうしたら、「まだ入ってません」と言われて。「入荷したら電話します」と再び言われて、そこから2週間くらい経つのですが、電話もなく「なしのつぶて」です。なので、親としびれを切らして、別の薬局で買ってしまいました。消耗品だから、入荷してくれればそれは買っても構わないのですが。でも、予定日に入荷できなかったら、普通その旨の連絡するもんじゃないの? と思う。ちょっと失礼だと思います。
で、帰ってきて疲れてしまって。昨日は書類をちょっと書いただけで寝てしまって。今日は、1日家にいたので、頑張ってけっこう書きました。丁2号証について、こちらも書証でいろいろと書いて。せっかく「宅地地盤調査マニュアル2014」が出たことだし、SWS試験についてもちょっと付け足しで書く? と思う。
で、お外組は、そろそろ地面も乾いてきたので、親も姉も通常運転に戻りつつあって。地面の下からけっこういろんなゴミが出てきています。
で、Amazonの方でも、どうも注文してから2週間以上、「なしのつぶて」の商品があって。4日くらい前に、なんだか「更に遅れる」というメールがあって、しかも代金が勝手にAmazonギフト券で返還されるとか、変な動きがあって。それで問い合わせをしてみたら、「発注が途中で止まっていた」とかって返事があってー;。そういうのが2件もあったので、いろいろと確認したら、在庫がなくて入荷の目処がたたない、とかっていう商品が連絡もなく放置?されていて。それも問い合わせをして、在庫がないものをキャンセルして、別の中古本屋で買い直して。これで、ようやく注文が動き出して、頼んだものが届くようになって。今回買った中で、一番興味深いと思ったのが「地図で読む世界史」という本で。歴史的なことも一部に載っているけど、世界史の中でも近現代史に重点を置いていて。学生の受験向きではなく、大人向けの教養本という感じで、項目ごとにじっくり読んだら面白いと思う。それから「とりかえばや物語」と「保元・平治物語」が来て。7番目の兄さんは、「とりかえばや」とか平安時代の物語文学を割と私に読ませたいらしいです。女性の読む物語ですし、平安時代は女性の社会的地位が高くて、政治的にも家庭的にも女性の発言権が強い時代なので。現代的な「女性が強くなきゃ!」みたいな、社会反抗的?な男女平等論とかそういうのではなくて、女性の地位が高いのが当たり前で、それが自然であった時代の文化を理解して、この国の真の文化や歴史を知って欲しい、と思ってるらしいです。でも、その割には「太平記」とか「軍記物」もけっこう入ってるんですけど?? と思う。そうすると、「それは大名家の趣味でしょ。陸奥話記から始まって足利氏まで、源氏の歴史は、源氏の嫡流と常に共にあった大名家の歴史そのものですよ。」と言われる気がするわけで@@。大名家は大名家で「武家の神様」に武家の歴史を知って欲しいらしいです。
で、今朝方はなんだか夢を見て。なんだか、自分がまだ学生で。どうも夢の中だと、高校と大学がごっちゃになってしまうわけですが。友達とお弁とうっを食べようとして、買いに行って。なんだか、文化祭みたいなことをやっていて、お弁当売り場にいつもと違ったものが売っていて、何を食べようか迷う夢で。で、お昼寝の時にも夢を見て。学校の中をなんだか自分がうろうろしていて。そうしたら図書室に迷い込んで。なんだか、本が整理されていなくて、あちこちに積み上げてあって。それを見て、「あー、なんで私は学生時代にこの本を読んでおかなかったんだろう?」と思う夢で。目が覚めて、「本が積み上げてある図書館」って自分の部屋のことだなあ、と思って。7番目の兄さんが読ませたい、と思ってる本が積んであるわけですが、じっくり読む暇は今もあんまりありませんー;。
で、昨日辺りから、なんだか周囲の敵意がものすごく強い気がして。車を運転していても、自転車に乗ったばあさんが、ふらふらと突然道路に飛び出してきたりしていて@@。で、入った薬屋さんで、めぐリズムのPOPがあって、翔君の写真が貼ってあって。ちょっとうれしくて。で、次に行ったホームセンターに入ったら、ふっと守達神が降臨してきて、「好きな人に会えて良かったね」って言われる気がして。周りを見回したら、ナノックスのPOPがあって、二宮君の写真が貼ってあって。守達神も優しいーー、と思う。で、家に帰って福山君のDVDを見ていたら、ふっと蛇の兄さんに「守達神がどんなに妻神のことを心配しているか」って言われる気がするわけで。なんとなく、兄さん達に気を遣って慰めて貰ってる気がするわけで。昼寝をしようとしてウォークマンを聴くと、ふっと「薄荷キャンデー」がかかったりして。少しずつ頑張ろう、と思うわけです。
本日は親の付き添いで病院に行ったので、作業は控えめであって。だいたい、家を建てる前の辺りまでの資料を揃えて。
病院の方は、それほど不安ではなかったけれども、なんとなく漠然と不安ではあって。昨日もヘリがけっこう出てたし。家を出る直前までKinKi-KidsのDVDを見てた。そうすると、7番目の兄さんに「良くも悪くも、病院のことはあなたが一番の得意分野でしょ。」と言われる気がするわけで。で、今回は、7番目の兄さんが降臨してきて、ずっと取り憑いていてくれたわけで。
どうも、ウロ部長サマが言うには、「PSAが上がってきたので、1年くらい薬を続けて、また薬を止めたい」とか「副作用が心配」とか言うわけで。10年以上もカソを飲んで来て副作用が特に出ていない(わけでもないけど、死ぬようなものはない。女性化乳房とかで普通は死なない)のに、何を心配するのか? とか、「副作用が心配なのなら、薬を止めるのではなくて、変える」なんじゃないの? とか思うわけですが、どうも「家族が希望するから抗がん剤を止めた」という方向に話を持っていきたいらしくて。「私に相談しないで、薬を止めないでください(あんたは信用できないから)。」と言ってやったら、「本当は薬はずっと飲み続けた方がいいんですけどね。」とかって言うわけで。何言ってやがる、サイコパスの殺人未遂鬼が、とか内心は思うわけですが-;。同業者に不安感をあおるようなこと言って、何の役に立つと思うのかが不明である。私が「取扱規約を持ってきて説明してください」って言い出さないうちにおとなしくしてた方が身のためだ、と思う。最近では、間欠療法も流行らないので。薬を止める理由は何もない。
だいたい、今は重要な主な病気は、みんな「プロトコル」って言って、学会規定の治療方針が決まってるものなので。それさえちゃんとわきまえていれば、ど素人よりもましなくらいの新人でも普通の処方箋くらいは書ける。医者の仕事は、そういう点では、90%の理論と10%の経験でできていると思うわけで。「こういう風に治療すべき」という「理屈」だけで9割は何もかもが決まる。残りの1割は、医者の手術の手技とか、経験則で分かっている微妙なこととか、そういうものであって。手技とかは、誰でも経験しないと身につかないから、それは経験を積むしかない。でないと、私みたいに、簡単な傷の縫合もできない医者ができあがるわけで(笑)。でも9割の「理屈」の方はそれなりに身についてるのよ、と思う。
でも、7番目の兄さんの「目の力」は、割と相性が良いというか、負担にならない気がするわけで。
あとは、Amazonが頼んだモノを連絡もなく送ってこなかったり、微妙に挙動が不審だと思うわけで。
台湾の伝承とか読んでいて思うけれども、地震とか津波を起こす神は、ウナギ(蛇でなきゃミミズ)でもあるし、人の姿にも化けられる神であると思う。これが「河の神」でもあるわけですが、人の姿をとる時には巨人であって、男根が蛇のように大きかったりする。で、特に思うわけですが、中国で豚を飼うようになると、重要な食料源である豚を神聖視して、「頭が豚で、尻尾が蛇」というような「合成神」を考え出すわけで。これが「竜」の始まりなわけです。で、「なんでも貪欲に食べてしまうその豚の頭」が「饕餮」である、と言われる気がするわけで。
だいたい、なんで、「饕餮」とは「頭だけの化け物」なのですかね? と思う。要するに、本来の「饕餮」とは、「河の神の代理人」であり、河伯に生け贄を捧げる代理人でもあるし、生け贄を受け取る代理人でもあるから、そうやって周辺の部族に生け贄を強要して圧迫すれば、自らが粛正されることになる。そうやって、饕餮は殺されて首にされてしまったので、その子孫達は「首になった饕餮」の子孫として、河の神に生け贄を捧げる儀式を続けてる。そうやって、生け贄の「祭り」と称して、人々から金を巻き上げ、自分だけがおいしい思いをすることをやめられないから、自らのために、「生首となった先祖」に生け贄を捧げ続けて、そうして先祖の神を利用している、と言われる気がするわけで@@。
「饕餮」とは、「蚩尤」とは、誰に殺されたのですかね? となれば、答えは「黄帝」となるわけですが。でも、「黄帝」であるところの「盤古」は、「死んで死体から太陽や月や大地ができた」と言われるし、「蚩尤」の方は「死んでバラバラにされた」という伝承があるわけで、残された伝承からは、盤古も蚩尤も似てるけど、違うモノなのか、同じものなのかはっきりしない、という感じになっている。
でも、あたしが思うに、台湾の伝承のウナギが化けた「巨人神」が「蚩尤(饕餮)」に相当するものだとすると、これは日本の伝承の中では、「ダイダラボッチ」と「須佐之男」に相当するものとなります。須佐之男は、織り姫に狼藉を働いて殺してしまう。これは台湾の巨人神と同じ性質です。そして、ダイダラボッチは開拓もするけれども、山を動かしたり勝手なことを気ままにやろうとする。これも、台湾の巨人神を同じ性質です。要するに、ダイダラボッチとは、ウナギであって、頭は豚であって、巨人神で「河伯」であるので、その子孫である「太田田井」を名乗る人々は「河の神の子孫」なわけです。だから「太田田井」の統領は、「河の神の代理人」であって、水害を起こさないために河の神に生け贄を捧げる祭祀を取り仕切る存在であるし、その祭りをやるための費用を人々から取り立てる権利も持ってる人なわけです。要するに「身分」ってそういうことなわけだ。で、ここで述べる「河の神」とは、「怒るとたたって、水害とか、津波(地震)を起こす神」なわけです。けっして、人々に良質の水を与えて、豊穣をもたらすための神ではなく、あくまでも「怒らせないようにするため」の神なわけ。だから、この神様は、お金を払えないような貧乏人には用がない神様なわけです-;。
で、困るわけだけれども、そもそも「神」とか「宗教」という概念は、「人類」のものではないわけです。人類よりも先行していたネアンデルタール人は、人類よりも大柄で、脳の容積も大きく、弱い人を看病したり、死者を埋葬したり、熊を埋葬してなんらかの宗教的行為をしていたらしくて。要は「神」とか「宗教」という概念は、人類はネアンデルタール人から借りてきてるに過ぎないわけです。で、人類の先祖はネアンデルタール人とかなり混血していて、今の「現世人類」は4%くらいネアンデルタール人の遺伝子を持っていると言われている。だから、「弱者を思いやる」とか「神を敬う」とか、「弱い立場の人を思いやる神」というような概念は4%のネアンデルタール人のご先祖サマから貰った文化であって、残りの96%は、「自分だけ良ければいい」というそういうお猿さんだったらしくて。お猿さんが、ネアンデルタール人を真似で「神」というものを作っても、それはどうしても「弱い立場の人を思いやる神」ではなくて、「怒るとたたる神」になってしまうらしくて。人類は、「神」というものは、本来「怒るとたたる神」ではなかったはず、とは分かっているけれども、「弱い立場の人を思いやる神」というものの概念が自力では理解できないらしくて。なぜなら、人類そのものが、本当は「自分だけ良ければいい」という自分勝手なお猿さんで、繁殖力の高さで繁栄しているけれども、人口が増えすぎて困ると、「邪魔な者は殺せばいい」というような思考回路しか持ってない生き物だからなわけです。ネアンデルタール人の「弱者保護」の精神は、おそらく彼らが繁殖力の低い猿であって、人口は抑制ではなくて、増やす必要があったから発達したものであるのだと思う。神という概念も、宗教という概念も原因は「繁殖力の低さを補いたい」というところから来てたのではないのか、と思う。
というわけで、ネアンデルタール人4%、自分勝手な猿96%の子孫達は、96%の先祖達から貰った繁殖力の高さを誇っているけれども、その先祖達が持っていた自分勝手な本能だけでは、世界は成り立たない、弱い立場の人達への思いやりも必要だし、環境を守り維持するための努力と節操も必要だ、と分かっている人もけっこういるわけで。そういう人達は、本来の「神」の姿とは何なのか、「思いやり」とか「公平」とか「平等」とは何なのかを知って、それを自分たちの生きる参考にもしたいし、理想にもしたいわけです。でも、ネアンデルタール人そのものは、2万年前に滅びてしまって、今、純粋なネアンデルタール人はいない。ネアンデルタール人の本能と思想を理解したくても教えてくれる人がいないわけです。
でも、人間の中には「転生」を繰り返して、何千年も「生きている人」もいる。だから、元は「人類」ではなくて、「ネアンデルタール人」であったものが転生している人もいる。そういう人は、ネアンデルタール人の「目」を持っていて、ネアンデルタール人の本能と思想を持って生まれてくる。そういう子供を「人類にとっての宝」とみるのか、「怒るとたたる神」を否定して、その祭祀を邪魔する「邪魔者」とみるかで評価は真っ二つに分かれる、ということで。蛙の王家は「怒るとたたる神」を否定されると、うまい汁を吸う理由が失われるので、それは困ると思ってる。だから、蛙の王家は、「河の神」である「饕餮」と、「河の神」を殺して良い世界を作ろうとした「盤古」を似たようなものとする神話をわざと作って、区別がつかないようにごまかしてしまってる。日本の神話においてもそうであって、須佐之男は本来「河伯」であったはずなのに、「ヤマタノオロチ」を退治する神、としても意図的に作られている。須佐之男は「河伯」ともとれるし、「黄帝」とも取れる性質を意図的に持たされている。
要するに「黄帝」とは、「ネアンデルタール的な理想」の世の中を求める代表のような存在なのに、性質の悪い「河伯」と意図的にまぜこぜにすることで、どっちがどっちなのか区別がつかないように、わざと神話を作っているわけで。どういうわけか、そういうことをされると、私にも「河伯」であるところの2番目の子と、「黄帝」であるところの7番目の兄さんの、どちらを取るべきであるのか分からなくなる、ということらしくて。「河伯」が「たたる神」であるなら、あの大地震で原発を爆発させようとしたのも「河伯」なんじゃん? と思う。それを「止める」ことを選ぶ、ということは、結局7番目の兄さんを選んだのと同じ事、ということで。それで、色々と動き出したんだなあ、と思う。「神は愛の神である」と説いたイエス・キリスト、「弱者が自分の身を守るためには言葉の使い方を学ぶべきである」ということを突きつけたアリストテレス、「法とは弱者の保護のためにある」と断言したハンムラビ大王、これらの人々は全て「同じ人」であって、何万年も「生きている」ネアンデルタール人、と言われる気がするわけで@@。爆発しそうな原発に「水をかけろ」って言ったらネアンデルタール人の証なの? 医者に殺人を目論むのではなくて、まともな仕事をしろって言ったらネアンデルタール人なんかい??? と思うわけですが@@。ともかく、蛙の王家は、それは私が「ネアンデルタール人の生まれ変わり」であって、矯正なんかできないから邪魔、だと思ってるし、「河伯」は許さざれるべき存在だと思ってる7番目の兄さんも邪魔らしくて。変な話だ、と思う。でも、どうも現実らしいです。もって生まれた思想なんて、上っ面の教育とかで左右はできないです。それは分かります。