プロフィール2
我が家の先祖が尾張国(愛知県)からやって来たとして、いつ信州新町にやってきたのだろう? と思うのです。 室町時代の初期に、長野市周辺では一大事件がありました。 それは京都からやってきた守護の小笠原氏を、国人と呼ばれる 小領主の集団が無礼を理由に追い返したもので、これを世に言う 「大塔合戦」といいます。中世における地方の人々の台頭の始まりを 象徴する事件で、私が学生の頃には日本史の教科書にも載っていました。 これには信州新町(古名を荻野といいます)の国人も参加しています。 でも私が変だと思うのは、 参加者名簿に我が家の先祖の名前がない ということなのです。結束を誇る国人一揆衆の中に、名を連ねていなかったら 裏切り者扱いされても仕方ありません。それで お祭りに旗上げしない という言葉を思い出すのです。「旗上げしない」ということは、中世では 合戦の際にみな「旗を上げて」戦いますので、これは 合戦に参加しない という意味なのではないか、と。そういう家系だから、一揆の名簿に名が ないのです。でも、自分たちだけでこう言っていたら、昔であればなおのこと 「変な家」扱いは避けられません。ということは我が家は 「あの家は合戦には参加しないけれども、有力な家」 と、自分たちでも思っていたし、周囲からも広くそれで認められていたのでは ないでしょうか、と想像するわけです。だから、合戦に参加しなくても「変な家」 扱いもされないし、有力者扱いもしてもらえていたのです。 みんなが知っていたのであれば、別にそのことを家の中の秘伝扱いにする必要は ないんじゃないでしょうか。 室町時代を遡って、平安末期に参りましょう。そろそろ貴族の時代が終わって、 武家が台頭してくる時代です。この頃の信州新町には少し異変がありました。 信州新町には水内大社の論社である健御名方富命彦神別神社があります。このあたりは 犀川という川のほとりにあり、平安末期までは川を使った水上交通の拠点でたいへん 栄えていました。でも、どういう理由からか平安末期頃から衰退してしまったのです。 そして、中世に入ってからは、山間部にある信州新町は修験道が盛んな地域になっていきます。 健御名方富命彦神別神社の近くにある延命寺というお寺は歴史が古く、開基は金刺氏と 伝わっています。健御名方富命彦神別神社には、金刺氏の祖神が祀られていますので、 神社とお寺を併せて、古代の信州新町は水内を中心にして金刺氏の拠点の一つだったと 考えます。金刺氏は長野県の有力豪族で、古代においては県内のあちこちに拠点がありました。 信州新町もそのうちの一つだったのです。 平安末期には「平氏打倒」を合い言葉に東国の源氏が旗上げしました。中でも有名なのは 鎌倉幕府を興した源頼朝と、その従兄弟の源義仲です。諏訪大社の上社は頼朝側について、 鎌倉時代を通して鎌倉幕府の重臣であり忠臣でした。一方、諏訪大社の下社は義仲側でした。 源義仲は現在の埼玉県の生まれなのですが、ごく小さいうちに父親を亡くして、木曽に引き取られ 木曽で育ちました。長じると旗上げを画策するわけですが、木曽から塩尻に向かい、 松本を避けるようにして諏訪側から、東信に抜け、まず丸子町あたりに拠点を置いたようです。 そこで力を蓄え、東信の豪族達を配下に加えて、千曲川沿いに下流に進軍し、新潟県に抜けて 北陸を西に昔、京都へ攻め上りました。でも、そこで最終的に頼朝の軍に敗れ、義仲は死にます。 Creation date 25/01/05-15:48 / Last modified 25/01/05-16:02 |