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プロフィール
1.謎の水内大社
延喜式神名帳に、信濃国水内郡に「健御名方富命彦神別神社 名神大」と記載されたが、
その後所在がわからなくなっている、という神社があります。文献では、持統天皇5年(691年)に
天皇の命で信濃国に「水内神」を祀らせたとする記述(『日本書紀』持統天皇5年8月23日条。)があり、
これが文献上初見とされる。『延喜式』神名帳に「水内神」の記載はないが、健御名方富命彦神別神社が
水内郡唯一の大社であることから、この「水内神」は健御名方富命彦神別神社を指すと考えられている。
とのことです。(Wikipedia:健御名方富命彦神別神社(最終閲覧日:25-01-03))
水内大社に比定される健御名方富命彦神別神社は、信州新町、長野市箱清水(善光寺とほぼ同位置)、
飯山市、と犀川・千曲川沿いに3社あります。どれが「水内大社」なのかはっきりしない、ということに
なっていますが、私は3社とも水内大社であって、川の上流域から上社・中社・下社という関係だった
のではないか、と考えています。信州新町の神社には斎宮という地名が残っており、かつては
丹後・竹野神社の斎宮神社のように斎宮が詰めていた神社でもあったのかもしれないと思っています。
善光寺の大本願は尼さんのお寺ですが、もしかしたらかつて斎宮が神社に詰めていた名残が大本願なのかも
しれないと思います。
ただし、健御名方富命彦神別神社の祭神といえる「健御名方富命別神」は諏訪大社の「健御名方富命」の
子神であって、おそらく水内郡の開拓神扱いであったのだと思いますが、詳しい事績もなく、詳細な伝承が
残されていません。
古代において、長野県で有力な豪族は金刺氏でした。諏訪大社上社を擁する諏訪氏は長野県内では有力な豪族
でしたが、「健御名方富命は反逆の神である」と記紀神話にあり、それに連動して当主は信濃国の外に出ない
という風習があったので、当然朝廷への出仕もありませんでした。金刺氏は長野県全域に展開し、水内郡の
健御名方富命彦神別神社、更科郡の須々岐水神社、諏訪大社下社などの創設に関わった人々と思われます。
こちらは朝廷への出仕を行っていましたし、「金刺」という名字も功績によって賜ったものです。
正式な系譜の上で金刺氏は「健御名方富命別神」の子孫ではなく、神武天皇の長男である神八井耳命の
子孫とされる多氏の末裔とされています。
金刺氏の直接の祖神で、初代の信濃国造と言われる建五百建命は、埴科郡(現在の千曲市)にある須々岐水神社の
境内内の祝神社に祀られています。近くにある雨宮坐日吉神社は「金刺大領」の館跡という伝承があったとも
言われており(雨宮坐日吉神社、信州考古学探検隊(最終閲覧日:25-01-03))、千曲市も金刺氏に縁の深い地域です。
埴科郡の金刺氏は、このように記紀神話に沿って祭神を祀っているのに、水内郡では何故、有力な神社に
健御名方富命別神が祀られているのでしょうか。途中で、氏族全体で祖神を変更したのであれば、それに
併せて祭神も変えてしまえば良かったのに、と思います。何らかの事情で本来の祭神を残しておくのであれば、
そちらの由緒や縁起が残っていても良さそうなものです。善光寺も同様です。古くから善光寺と共にある

Creation date 25/01/03-15:11 / Last modified 25/01/05-16:02


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