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− | 『史記』五帝本紀には、「依鬼神以制義、治氣以教化、絜誠以祭祀」とあり、'''[[鬼神]]を信奉しており、物忌みして祭祀を執り行った帝''' | + | 『史記』五帝本紀には、「依鬼神以制義、治氣以教化、絜誠以祭祀」とあり、'''[[鬼神]]を信奉しており、物忌みして祭祀を執り行った帝'''として記される<ref group="私注">古代中国は少なくとも[[大渓文化]]の頃からの人身御供の文化がある。[[鬼神]]を信奉した、ということは人身御供を立てた、という意味ではないだろうか。</ref>。また、「靜淵以有謀、疏通而知事」とあり、物事に通じ、物静かで奥ゆかしい人柄であるとされている。 |
顓頊は、人々が神と関わる事を厭い、孫の重と黎に命じて天へ通ずる道を閉ざさせ、'''神と人との別を設けさせた'''という<ref>袁珂, 993-04-01, 中国の神話伝説〈上〉, 青土社, isbn:479175221X, page146</ref><ref group="私注">これは祭祀の独占といえないだろうか。</ref>。 | 顓頊は、人々が神と関わる事を厭い、孫の重と黎に命じて天へ通ずる道を閉ざさせ、'''神と人との別を設けさせた'''という<ref>袁珂, 993-04-01, 中国の神話伝説〈上〉, 青土社, isbn:479175221X, page146</ref><ref group="私注">これは祭祀の独占といえないだろうか。</ref>。 | ||
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+ | 日本神話の須佐之男が農業技術・土木技術・医療技術の神とされる一方で、「川の神」を倒し神権と技術権の独占を行ったことは、顓頊三代の事業と一致し、須佐之男が中国の顓頊三代に相当する神であることを示してると考える。建築に関する[[人身御供]]([[人柱]])を求める思想が、須佐之男信仰に基づくものであることが分かるし、おそらく古代中国では顓頊を通した[[炎帝神農|炎帝]]信仰と[[炎帝神農|炎帝]]がその代表格である[[鬼神]]信仰に基づくものであることが推察される。 | ||
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+ | * [[伊邪那岐命]]:異界と人間界との間に境界を設けた。 | ||
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2022年10月18日 (火) 07:38時点における最新版
顓頊(せんぎょく、ピンイン:Zhuānxū)は、『史記』に記される帝王。高陽に都して高陽氏と称したと言われている。五帝の一人で、黄帝の後を継いで帝位に就いた。在位78年と言われている。
概要[編集]
父は昌意、母は蜀山氏の女の昌僕である。昌意は黄帝の子なので顓頊は黄帝の孫となる。子に窮蝉(舜の六世の祖)、五世の孫(『漢書』律暦志による。『史記』夏本紀では子)に鯀(禹の父)がいる。帝位を嚳に譲る。末裔に女脩、その孫に大費がおり、中国を統一した秦、戦国時代の趙はこの子孫と伝えられる。また『史記』楚世家では、春秋戦国時代の楚の祖先は顓頊であるとする。
『史記』 五帝本紀
- 帝顓頊高陽者、黄帝之孫而昌意之子也。靜淵以有謀、疏通而知事;養材以任地、載時以象天、依鬼神以制義、治氣以教化、絜誠以祭祀。北至於幽陵、南至於交阯、西至於流沙、東至於蟠木。動靜之物、大小之神、日月所照、莫不砥屬。
『史記』五帝本紀には、「依鬼神以制義、治氣以教化、絜誠以祭祀」とあり、鬼神を信奉しており、物忌みして祭祀を執り行った帝として記される[私注 1]。また、「靜淵以有謀、疏通而知事」とあり、物事に通じ、物静かで奥ゆかしい人柄であるとされている。
顓頊は、人々が神と関わる事を厭い、孫の重と黎に命じて天へ通ずる道を閉ざさせ、神と人との別を設けさせたという[1][私注 2]。
顓頊と高句麗の関係[編集]
『三国史記』高句麗本紀第六や『三国史記』百済本紀第六によると、高句麗王は、中国黄帝の孫である高陽氏、中国黄帝の曾孫である高辛氏の子孫を称していた[2][3][4][5][6]。
『逸周書』「王会解」は、古代中国の少数民族とその分布について述べたものであり、晋の孔晁による注がつけられているが、「高夷」について「高夷東北夷高句麗」と注しており、高句麗を高夷族の子孫としている。このことから中国学界は、高句麗の先祖である高夷族と高陽氏を接続させ、高夷族の起源を高陽氏に確定、「卵生神話、鳥羽冠(鳥の羽で飾られた帽子 )の風習、鬼神 (朝鮮)(Gwisin)思想などが共通している」として、高句麗を高陽氏の子孫と主張する[7]。中国学界はもう一つの証拠として『晋書』「慕容雲載記」を挙げており、慕容雲の祖父である高和は高句麗族であるが、高陽氏の末裔であるため高姓を名乗り、慕容雲の本来の名前は「高雲」という記事である。中国学界は、「高陽氏→高夷族→高句麗族」と連結させ、高句麗の祖先は高夷族であり、さらに遡ると高陽氏とみている[7][私注 3]。
私的考察[編集]
の三代は伝説上の人物であって、特に創作性の高い三代ではないか、と思う。
その理由のまず第一は、この三代の変遷が、「伏羲-炎帝(神農)-黄帝」の王権入れ替わり神話をなぞらえているのではないか、と思われるからである。伏羲は八卦等、祭祀の基本、方向性を決めた存在で、顓頊が新伏羲に相当する。鯀は新炎帝といえ、農耕の神とされながら何か失策があって黄帝に倒された炎帝の姿を投影している。鯀も治水事業を行いながら横死している。とすれば、炎帝と鯀は彼らそのものが鬼神として信仰の対象となり得る。また鯀は魚(水生生物)と白馬がトーテムである。馬と魚は龍の原型ともいえるので、鯀には治水神というだけでなく、龍神、水神の性質も含まれ、鯀が河伯そのものといっても良い立場である。その性質は禹にも引き継がれるが、禹の治水は成功する。その成功は黄帝になぞらえられ、禹は新黄帝といえる。
鯀と禹は親子とされているため、先祖信仰かつ鬼神信仰という点で、禹は鯀に対する祭祀を行うべき立場である。黄帝と炎帝の立場と比較すれば、彼らは兄弟である、と言われたり、黄帝は最後の炎帝の臣下のように描かれているし、黄帝が炎帝を倒したのだから、黄帝が炎帝の政治や祭祀を引き継ぐ立場にはないことは明らかである。炎帝の政治の何か間違っている部分を正すことが黄帝の役割である。その点が黄帝と禹の違いである。
また禹は祭祀を独占し確立させた顓頊を次ぐべき立場でもある。顓頊の祭祀権の独占はやがて殷の祭祀権・王権の独占へと移っていくことは明らかである。それと共に一般庶民にとっても身分や家柄による「職能」の発生へと繋がらないだろうか。みな、行うべき職業を確定されるからこそ、祭祀権・王権の独占も可能となるといえる。禹はそのような政治を受け継ぐ立場でもある。
よって、「顓頊 - 鯀 - 禹」三代は、伏羲 - 炎帝と確立してきた祭祀権の確立、治水・開墾技術・農業技術・医療技術の独占等に対し、その後に来る黄帝が反逆するのではなく、黄帝の子孫がそれを受け継ぐことこそが正当である、と主張するために創作された三代であると考える。これを顓頊三代と呼ぶことにする。もちろん顓頊のモデルとなった実在の人物はいると思われる。
彼らの目的は、自らが「河伯」と名乗ること。そして他の「河伯」といえる勢力を倒して、神権を独占することだったと思われる。共工や無支祁はそのために「悪者にされて」倒されたスケープゴートとは言えないだろうか。そして特に倒された中に「母神たる女神」がいたとすればそれは「親殺し」といえるものではないだろうか。そして彼らは、日光感精説話にあるように「太陽」の子孫と言える。新炎帝とも言うべき鯀の子孫だからである。また黄帝の子孫も名乗る。新黄帝ともいうべき禹の子孫だからである。要するに、顓頊三代は、彼らの子孫が炎帝と黄帝の両方の子孫を名乗り、全ての祭祀権と王権が自らのものである、と主張するために作られた人工的な三代といえるのではないだろうか。そして彼らが鬼神信仰を確立させたのであれば、鬼神に対する人身御供も確立させたのではないだろうか。
日本神話の須佐之男が農業技術・土木技術・医療技術の神とされる一方で、「川の神」を倒し神権と技術権の独占を行ったことは、顓頊三代の事業と一致し、須佐之男が中国の顓頊三代に相当する神であることを示してると考える。建築に関する人身御供(人柱)を求める思想が、須佐之男信仰に基づくものであることが分かるし、おそらく古代中国では顓頊を通した炎帝信仰と炎帝がその代表格である鬼神信仰に基づくものであることが推察される。
関連項目[編集]
私的注釈[編集]
参照[編集]
- ↑ 袁珂, 993-04-01, 中国の神話伝説〈上〉, 青土社, isbn:479175221X, page146
- ↑ 金光林, 2014, A Comparison of the Korean and Japanese Approaches to Foreign Family Names|newspaper=Journal of cultural interaction in East Asia, 東アジア文化交渉学会, http://www.sciea.org/wp-content/uploads/2014/05/03_JIN.pdf, language:en, format:PDF, page30, https://web.archive.org/web/20160327222247/http://www.sciea.org/wp-content/uploads/2014/05/03_JIN.pdf, 2016-03-27
- ↑ http://db.history.go.kr/item/level.do?setId=1&itemId=sg&synonym=off&chinessChar=on&position=0&levelId=sg_028_0020_0430, 三國史記 卷第二十八 百濟本紀 第六, 国史編纂委員会, https://web.archive.org/web/20170906135037/http://db.history.go.kr/item/level.do?setId=1&itemId=sg&synonym=off&chinessChar=on&position=0&levelId=sg_028_0020_0430, 2017-09-06
- ↑ http://db.history.go.kr/item/level.do?sort=levelId&dir=ASC&start=1&limit=20&page=1&setId=2&prevPage=0&prevLimit=&itemId=sg&types=&synonym=off&chinessChar=on&levelId=sg_018_0050_0170&position=1, 三國史記 卷第十八 髙句麗本紀 第六, 国史編纂委員会, https://web.archive.org/web/20170906134738/http://db.history.go.kr/item/level.do?sort=levelId&dir=ASC&start=1&limit=20&page=1&setId=2&prevPage=0&prevLimit=&itemId=sg&types=&synonym=off&chinessChar=on&levelId=sg_018_0050_0170&position=1, 2017-09-06
- ↑ http://terms.naver.com/entry.nhn?docId=1642804&cid=49625&categoryId=49800&mobile#TABLE_OF_CONTENT18, 의자왕 義慈王, 韓国人文古典研究所, https://web.archive.org/web/20210829203730/https://terms.naver.com/entry.naver?docId=1642804&mobile=&cid=49615&categoryId=49800, 2021-08-29
- ↑ https://terms.naver.com/entry.naver?docId=1642754&mobile&cid=49615&categoryId=49799, 광개토왕 廣開土王, 韓国人文古典研究所, https://web.archive.org/web/20210829205717/https://terms.naver.com/entry.naver?docId=1642754&mobile=&cid=49615&categoryId=49799, 2021-08-29
- ↑ 7.0 7.1 https://www.khan.co.kr/culture/culture-general/article/201410081001581, "고구려는 조기 중국의 소수민족정권입니다.”, 京郷新聞, 2014-10-08, https://web.archive.org/web/20211014140335/https://www.khan.co.kr/culture/culture-general/article/201410081001581, 2021-10-14