飯石神社

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飯石神社(いいしじんじゃ)は島根県島根県雲南市にある神社である。式内社、出雲國飯石郡飯石神社に比定される。

飯石神社(雲南市三刀屋町多久和)[編集]

神祇官社。主祭神は伊毘志都幣命(いひしつべのみこと)。斐伊川の支流、三刀屋川のさらに支流、飯石川沿いにある。かつては伊毘志と言われていたが、神亀三年、飯石と改めた土地である。川の下流には「加茂」という地名が見える。

『神国島根』によると、伊毘志都幣命は、天照大神の御子・天穂日命の御子神。またの名を天夷鳥命、武夷鳥命、天熊大人、大背飯三熊大人、武三熊大人、稲背脛命、武日照命などという。出雲国造家の租にして、出雲伊波比神とも称される神。命の天降られた磐石を御神体とし、二重の玉垣で囲み本殿 にかえている。出雲風土記によれば飯石郡、飯石郷の地名起源を、この地 に「伊毘志都幣命が坐すためである。」と記している。

飯石神社(雲南市三刀屋町六重)[編集]

不在神祇官社。主祭神は伊毘志都幣命(いひしつべのみこと)。「元社地に鋤に似た磐がある。この磐をもって本郡全域にわたり開拓、農耕の偉業を成し遂げられた。 [1]

今石神社(飯南町下赤名)[編集]

石次地区にある関連する神社。主祭神は伊毘志都幣命(いひしつべのみこと)。

岩鋤
今石神社の御霊代であるこの岩は、伊毘志都幣命が大磐石を鋤にして飯石の開拓を行ったと伝えられる飯石郡三刀屋町の飯石神社の御霊代の岩と同じく、全国的にも珍しい開拓のモニュメントである。
『出雲国風土記』に言う「石次野(いしすきの)」「石鉄川(いしすきがわ)」の名はここから出ており、それぞれここ一帯とこの川のことを言う。(境内内由書書きより[2]

神戸川上流にある糘塚古墳(すくもづかこふん)(島根県飯石郡飯南町上赤名)には野見宿禰の墓との説がある。 島根県飯南町上赤名谷には「野見野」という地名が残る[3]

出雲国風土記に見る「鐵(まがね)」[編集]

出雲国風土記には、飯石郡の波多小川(神戸川水系)および飯石小川(斐伊川水系)を記した部分に、鉄に関する記述が認めらる。

  • 「波多小川。源は郡家の西南二十四里なる志許斐山より出で、北に流れて須佐川に入る。鐵あり。」
  • 「飯石川。源は郡家の正東十二里なる佐久禮山より出で、北に流れて三刀屋川に入る。鐵あり。」

また、仁多郡条には、横田郷、三処郷、布施郷、および三澤郷の4つの郷を指して、「以上の諸々の郷より出す所の鐵、堅くして、尤も雑具を造るに堪ふ」との記述がある。「鐵」とは鉄を指します。これらの記述から、当時、出雲国には川から採取した砂鉄から鉄を作り、鉄器に加工する技術が存在し、田畑の耕作や収穫に使われる農具や日用具などが生産されていたことがわかる[4]

伊毘志都幣命[編集]

伊毘志都幣命は『出雲国風土記』にのみ登場する神である。一説には農耕拓殖の女神といわれているが、風土記にも性別の記述はなく、今ひとつ明らかでない。多久和の飯石神社の由緒書には、

伊毘志都幣命は天照大神(あまてらすおおみかみ)の第2子・天穂日命(あまのほひのみこと)の御子・天夷鳥命( あめのひなどりのみこと)のことで、別名・武夷鳥命(たけひなどりのみこと)と同一神であるとされている。また、出雲国造家の祖神・出雲伊波比(いずものいわひ)神とも称されており、 今も飯石神社の例大祭(毎年11月4日)には、出雲大社の宮司が参向し、奉幣が執り行われている。

とあるとのこと[5]

私的考察[編集]

「開拓を行った女神」といえば、岩見の乙子狭姫を連想させる。乙子狭姫は赤雁の背に乗って(おそらく天から)やって来た、とされるが伊毘志都幣命は天夷鳥命の別名とも言われ、鳥神でもあったことを連想させる。乙子狭姫は伊毘志都幣命が民間伝承化したもので、かつ大宜都比売の神話と組み合わされたものかもしれないと考える。

ただし、現在では伊毘志都幣命は野見宿禰と、渡来系氏族の技術でもたらされた古代出雲の製鉄産業と関連づけられる傾向が強いように思う。「石鉄川(いしすきがわ)」という地名にも「鉄」という文字が使われている。もしかしたら、飯南町の今石神社も本来は「飯石神社」だったのではないか、と想像するが、この地には「野見」という地名が残っており「伊毘志都幣命の子孫を名乗る野見氏」がいて、その直接の祖神的存在が野見宿禰だったのではないだろうか。彼が「土師氏の祖」とされるようになったのは野見氏が出雲を出て後のことであり、出雲にいた時には、製鉄を行う渡来人を束ねる立場にいたのが野見氏だったのではないか、と考える。

伝承では、野見宿禰当麻蹴速を倒し、葛城を領地としたと伝わる。おそらく、出雲にいた時は野見氏は

天穂日命 → 伊毘志都幣命 →→ 野見氏祖神(野見宿禰

という系図を持っており、そのまま葛城に進出したために残されたのが、為志神社(奈良県葛城市林堂)なのではないだろうか。為志神社の鎮座地は葛城氏が束ねていた渡来系技術者集団の居住地である[6]。出雲の時代から渡来系技術者を束ねていた野見氏が葛城で、その体制を引き継ぎながら祖神を祀る為志神社を建立したのではないか。そして、ここで氏族の名前を「葛木氏」と改め、系図も

高御産巣日神 →→ 陶津耳命 →→ 剣根命

のように、高御産巣日神あるいは神産巣日神をはじめとして、剣根命を祖神とするものに書き換えたと思われる。「陶津耳命」という名からも「陶器」に関する氏族であることがうかがえる。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 飯石神社、島根県神社庁(最終閲覧日:25-02-14)
  2. 今石神社・『出雲国風土記』の古社を発見!、神秘と感動の絶景を探し歩いて(最終閲覧日:25-02-15)
  3. 出雲国風土記にまつわる史跡、飯南町HP(最終閲覧日:25-02-15)
  4. 出雲国風土記に見る「鐵」、出雲國たたら風土記(最終閲覧日:25-02-16)
  5. 飯石神社、巨石巡礼(最終閲覧日:25-02-17)
  6. 爲志神社 (改定)、かむながらの道 ~天地悠久~(最終閲覧日:25-01-16)