昨夜は、ちょっと雨がポタポタ降っていて。で、朝には止んで。お外組は、家の西側の雨水の管の周囲にも、玉石がゴロゴロしているのを発見して。そこにも、石がたんまり埋められているんだろうな、と思う。
で、私の方は、なんだか夢を見て。古本屋で、なんだか読めそうもないボロボロの本を買って、自分が嬉しそうにしているわけで。ともかく、絶版になっているような中古本を買って、勉強しなさい、ということなのだと思う。だいたい、そういうものを読んで、「文章を良く読むくせ」もつけなさい、ということなんだろうなあ、と思う。しかも、ある程度は買わなければいけない、ということで。
作業の方は、書証が一通り揃ったので、出さなきゃいけない書類を2,3作らなければいけない。あとは、今まで、誰が何を書いてるのかもチェックしなければ、ということで。なにが、「後発的完成不能」なの、工事を業者がやらないんだから、いつまでたとうが完成しないに決まってるでしょうが、と思う。だいたい、書証を読むのに忙しくて、主張書面に何を書いたのか忘れちゃったし、と思う-;。
で、神話系の方は、「中国の神話伝説」という本と、カイトリーの解説本と、「トゥレンの子たちの運命」という「アイルランドの三大悲劇」の一つと言われる伝承を読んでいるわけで。「トゥレン」はおそらく17世紀頃に今の形に完成したとみえて、16世紀に巷に流行したアーサー王の伝承とか、ギリシア神話とかちょこちょこと含まれているアイルランドの英雄物語である。アイルランドは9世紀に、北欧からの侵入者の侵攻を受けた歴史があるとのことで、そういう歴史も投影されて、善玉はアイルランドの神々であるダーナ親族であり、悪玉はノルウェーからの侵略者であるフォモール神族である。でも、トゥレンは、ダーナ神族の中での、殺人とそれに対する賠償の物語でもある。トゥレンの子たちであるブリーンとその兄弟は、同族の豚のキアンを殺してしまい、キアンの息子ルーに対して、賠償のために様々な冒険をして各地から財宝をかき集めてこなければならない。ルーは、父親の死を「賠償」であがなえば許す、と口では言うけれども、本心で望んでいるのは復讐である。だから、ブリーンとその兄弟(といっても、この兄弟は犬なので、ブリーンの飼い犬と言う方が正確なわけなのですが)が、冒険の途中で死ねば良いと思っている。そして、その思惑の通り、ブリーンは賠償を果たしても、道中の傷が原因で死んでしまうので、それで「悲劇」なわけですが。でも、冒険の内容は、各地へ押しかけて「宝をよこせ」と言って暴れる、という分かりやすい、というか単純率直に冒険物語と言うよりも、暴力物語であるので。その暴れん坊ぶりと、悲劇に繋がる弱々しさとのギャップがなんか独特だー、と思うわけですが。でも、西方の刑罰には、「同害復讐法(眼には眼を)」というやつと、「贖罪法(賠償法)」の二種類があって、現代社会では死刑という制度もあるけれども、基本的には「賠償法」が原則である。特に民事では。これは印欧語族由来の法制度でもあるので、17世紀当時のアイルランドは、制度的には「賠償法」が当然となっているけれども、古い時代の「同害復讐法」の精神もまだ幅を効かせていて、「同害復讐法」と「賠償法」が矛盾のないように整合性を保ちつつ、「すりあわせ」が模索されていた時代だったんだな、と思う、というか、そういう社会的、歴史的考察もできるわけです。
で、中国の神話伝説の方は、微妙に赤っぽい序文とかあるわけですが、内容が豊富で面白いわけで。著者は、「黄帝は最初から神である」という考えの人であるので、そこは私と違うわけですが。ともかく、伝承では、黄帝とは「頭が4つあった」ということらしくて。それは「四方に眼を配れる人であった」ということなのかなあ、と思うわけですが、かの有名な孔子先生は「それは黄帝が四方に兵を送って、各地を平定した、ということだ」と述べたらしくて。孔子先生の言うことは、「崇神天皇の四道将軍の元ネタなんじゃないの?」と思う。頭が4つあったら、それはブラフマーでしょうが、と思うので、インドの方には孔子先生の影響は及ばなかったらしいのですが。
それから、西晋(三国志の後の国、女王卑弥呼が死んだ後くらいの時代の国)頃の書物には、「黄帝は死んで昇天し、死体が消えた」とかってあるらしくて。西晋は3~4世紀の国であるので。そのくだりは、キリスト教の影響でしょう。で、それがもっと時代が下ると、霊異記の聖徳太子の話に繋がるんじゃないの? と思う。というか、3世紀には、イエス・キリストの伝記が当たり前のように中国にまで到達していて、人はなんで、そんな大昔に世界のあちこちを歩き回ってたんだろう、と思う-;。だって、ほとんど自分で歩くしかないような時代じゃん? と思う。
それから、神武天皇は、兄が長髄彦に殺されて、そして王になった、と言われている。でも、これはロムルスとレムスと同じで、「兄弟の片方が死んで、王権を手に入れる」というパターンです。そして、このパターンは西欧で発達した物語だから、いきなり「神武の東征」に唐突に現れることが不自然なのであって。西方の文物に明るく、「二人兄弟」の話を知っている誰かが、この話を作った可能性が高いと思うわけです。しかも、神武は、熊野の山の中で、熊に出会って、気を失って、目が覚めたら特別な剣を手に入れたことになっている。これは、神話的には、「熊に喰われて熊として生き返った」という話な気がするわけで。食べられたものに化生するのは、漁撈民の神話ですが、熊はそもそも北方民のトーテムであって、「不自然さ」を感じるわけです。しかも、そういう死と再生の過程で、特別な武器を手に入れるとか、西欧の神話ですか、近くてもゲイ神話ですよね? と思うわけで。しかも、中国の神話を読むと、黄帝は「有熊氏」と名乗ったとかで、熊トーテムの人であったことが示唆されている。しかも、南北朝時代に書かれた「神道集」には、「神武の子である綏靖天皇には、食人の趣味があり朝夕に7人もの人々を食べて周囲を恐怖に陥れたため、人々は「近く火の雨が降る」との虚言を弄し天皇を岩屋に幽閉して難を逃れたという」と、あるとのことで。ザッハークですか? と思うわけで。
結局、洋の東西の「故事」に詳しい何者かが、神武を黄帝になぞらえ、綏靖をその子になぞらえ、そういった「物語」を残そうとしてますよね? と思う。しかも、単純に「神武=黄帝」とする伝承が自然発生的に発生しているのであれば、その「熊トーテムである」という精神よりも、事績の方が普通に「英雄神話」として伝播するはずであるので、「精神的なもの」だけが不自然に移植されている、ということは、「神武の熊野を通った東征」そのものが、何者かの「創作」ですよね? そもそも、大規模な戦闘なんてなかったでしょ、考古学的にもそういう証拠は出てきてないし、と思う。7番目の兄さんには、「神武の熊化生の話は、自分が書いたんで」って言われる気がするわけで@@。「うへえ」と思う。「神道集」にも関わってるでしょ、南北朝って高師直が活躍した時代だし? と思う-;。
で、思うけれども、紀元前2世紀ぐらいに、この国にやってきた弥生の人々は、単なる田舎者ではなくて、当時としては文明の最先端の中国からやってきた一級の武人であり、文化人であった人達であって、単に武力で押さえつけて人を支配する、とかそういう単純な人達ではなくて、政治的な駆け引きとか、交渉術とか、現代人と変わらず、したたかに抜かりなくできる人達であったのだと思う。自分達の神話とか伝承も、「政治的にどう利用したら良いのか」って追求できるような人達だったのだと思う。というわけで、7世紀の「したたかまみれ」で、政治的な意図が満載の「古事記」と、17世紀の単純に「同害復讐法」と「賠償法」との間で揺れ動く暴力物語との、精神的な成熟度としたたかさの「差」は何? と思う。まあ、それはともかく、古代中国の故事というのは、私達が思っているよりも、古事記とかの中にパクられていると思うわけで。そういうことを読み解くためにも、中国の古典の勉強は大事なんだなあ、と思ったのでした。
後は、古代中国のゲイの伝承の中には、河伯を射て、その妻と結婚した、みたいな話があって。古代中国の河伯とは、河の神に、毎年娘を「妻」として生け贄に捧げて、治水を祈るという人食いの神であって。その祭りは、大規模に、支配者が好んで行うものであったわけです。何故、支配者がこの祭祀を好むのか。そういうことは、綺麗事だけの神話では決して語られない、赤っぽい学者様でも、中国の文化を愛する人だと書きたくない事に入るのかもしれませんが。漁撈民の伝承には、娘は生娘のままでは、まともな「妻」とはなれない、とされている。正式な結婚の前には、誰かが破瓜しなければ、正しい結婚生活は行えない、とされているわけで、「夜這い」とかの習慣もその延長上にあるわけだから。河伯の妻にされる前の娘が、祭祀の中で、殺される前にどんな悲惨な目に合わされたのか、何故男性の為政者がこの祭祀を好んだのか、ということは、「赤」がお好きな現代の学者サマでも公然と書けないことなんだ? 内容がろくでもなさすぎて? と微妙に毒が出るわけですが。
でも、くだらん生け贄の祭祀を止めさせて、娘を助けたゲイはさながら英雄ですよねえ? というか、ペルセウスそのものではないの、と思う。それなのに、結婚生活はあまり幸福ではなかったんだ? と思う。誰かさんには、「頭の悪い、話の分からない馬鹿な女はうんざり」と言われる気がするわけでー;。兄さんより、頭の良い女の人は、滅多にいないから、それは高望みが過ぎるってもんじゃないのですかねえ? と思うわけですが-;。
おとといは「音楽の日」であって。一応タイムテーブルを確認したら、深夜帯の部にABC-ZとジャニーズWESTが出ると書いてあったので、2時まで頑張って見て。そうしたら、朝になって、ふっと「自分達の描いた手書きの設計図も出すように」と言われる気がするわけで。それを言いたくて、兄さん達は昨日がんばってたのかー、と思って。のんちゃんと良ちゃんも、ちゃんと最後まで見て良かった、と思ったのでした。で、それ以外では、KinKi-Kidsの二人が、一部の最後まで残っていたわけですが、なにげに光一君の後ろに、手越くんとまっすーが張り付いていて、「立派だ-」と思うわけで。
で、昨日の作業は、雨が降ってぐちゃぐちゃしていたので、お外組は庭の整備をしていて。庭の南西の隅から、バケツ5杯分のタール状のものが混じった汚い土とか、アスファルトの小さな塊とか出てきて、「いつ入れたんだろう? フェンスを貼った直後かも。」と話していて。それ以外にも、砕石をためておいたところに、砕石しかないはずなのに、いつの間にか土がたまっていたりして、不審であって。
で、昨夜はなんだか冷えたらしくて、今朝、朝ご飯を食べたら、吐いたり下したりしてしまってー;。暑いので、電気毛布の温度を下げたら、寒かったらしくてー;。カイロを入れて、暖かくしていたらすぐに回復しました。
午前中は、家人は買い出しに出かけて。作業はバケツ4杯くらい貼り付けであって。私は、手書きの資料を整理して。で、例によって、家人の言動が変であって。原因は裁判が近いことと、買え、と言われた本を私がせっせと買ってるからだと思う。要するに、西欧の多神教の神々の中には、黄帝に相当する神を重要視するところもあるけれども、長江文明由来の人食いの男性の豚の太陽神を重んじるところも多くて、そういうところほど、根源的には「人食い」とか「人の生け贄」をなんとも思っていないのだと思う。西欧では、上流階級は農耕を行わないので、本来であれば農耕に関わるはずの「豚の太陽神」への信仰は、武力による豊穣、例えば、馬とか武器とか金銀財宝とかの豊穣に変化して、その後、特にキリスト教化で、古い時代の神々を信仰することが禁止されると、中世には古い神話が騎士物語とかに変化して、詩人の詩とか文芸の場で盛んに「物語」として語られて、あちこちで流行するようになるわけで。そうなると、古い時代の「豚の太陽神」は、主君を裏切ったり、若い英雄を死に追いやったりして、「悲劇」を引き起こす「立役者」みたいな地位で語られるようになる。これは、この太陽神が「怒りにまかせて気まぐれに祟りを起こす神」であり、起源を損ねると相手が君主でも祟るし、元は若者を生け贄にした神でもあることの名残なのだと思う。それが、アーサー王の王国を滅ぼす王の甥モリガン、シャルルマーニュ大帝のお気に入りの騎士ローランを死においやるオジエ、英雄ジークフリートを殺してニベルング族滅亡の原因を作るハゲネとかに投影されているのだと思う。彼らは大抵、王の近親であって、裏切り者である。「シャルルマーニュ伝説」では、大帝の息子もけっこうぼんくらなドラ息子だしー;。これだから、中世の騎士物語も読んで勉強するように、って言われるんだなー、と思う。黄帝の「ぼんくら」のドラ息子で、混血の「ルーグ」が、良渚文系の基盤を築いて、自ら「豚の太陽神のシャーマン」として君臨し、人食いでお馬鹿さんになってる農耕民を専制君主として支配したわけだ。でも、黄帝を尊敬している人達も大勢いたから、印欧語族には、黄帝に相当する神も、ドラ息子に相当する神もいっしょくたに伝播して、各氏族がどちらを選ぶかで、「神」としてどちらが優位なのかが分かる。だから、西欧における「キリスト教化」の意味とは、なんでも「天の父なる神と、その子キリスト」に纏めてしまって、本当は人々がどちらを選んでいるのかを、区別がつきにくくしてる。特に「よそ者」からは全然分からなくなるので、性格の悪い方は、それにつけこんで悪いことをやりやすくなる。
西欧の騎士物語とか読んで、うちの家系の「性格の悪さ加減」を勉強しろってことですかねえ、と思う。そして、西欧の多神教には、小人とか、トロルとか、神とはいえないけれども、人でもないような風変わりな存在が公然と出てくるけれども、そういうものは、黄帝が出現する以前の、漁撈民の信仰、あるいは、北方の狩猟民の信仰での神々が、良渚と黄河文明の思想が拡がるにつれて、その地位が低下して変化したものなのだと思う。彼らの一部は「王権」を伴う神々と習合して、上流階級にも取り入れられたけれども、多くは被支配者である庶民の側にとどまり、超自然的な精霊的存在に変化して、庶民の生活を助けてくれたり、意地悪したりするようになったのだと思う。でも、基本的には「良渚文明」で出現した神々と「同じもの」であるので、なにがしかの犠牲を捧げられて、機嫌が良ければ、恩恵を授けてくれる性質は変わらない。
でも、まだ「二人兄弟」の謎が残っているのです。ロームルスとレムスではないけれども、双子の片方が「死ぬ」というのは、一方を犠牲に捧げることで、他方の豊穣を図るものだと思う。だいたい、ポリネシアの民話の中に、すでにその気配は萌芽してる。彼らは、「生と死」の境界が曖昧であって、そもそも「存在」として「生きている人」だけでは「完全」ではない、と思ってるのだと思う。人は「生と死」が対になって存在して、それで「完全」なのだと考えている。だから、「生きている人」というのは「生」の状態が強いから生きているのであって、「死」が強くなる死ぬ。だから、「生きている人」というのは、常に「自分の死霊」と共にいるのであって、生きていても「自分の幽霊」というものは常に存在しているわけです。そして、生きるために、自らの悪霊と常に戦ってるのかもしれないと思う。だから、「二人兄弟」というのは、「自分の生き霊を克服した人」が、生きた王となるべき英雄である、という考え方かもしれない、と思う。あるいは、自分に近い大切なものを神に捧げると、より大きな見返りが得られる、という考えもそこには含まれるのかもしれない(困窮した際に、我が子を生け贄にしたりするのは、こういうことだと思う)。あるいは、両方が混在した考えといえるかな、と思うのだけれど、しっくりとした答えが、自分の中で、まだ見つからない気がするのです。長男だけを大切にしたり、あるいは末子だけを大切にしたり、というのも、他の兄弟を「犠牲」にしているわけだし。古代の人々の「家」とか「相続」という概念も関係してるのかもしれないし。
ともかく、今日はNHKで潤ちゃんのドラマがあったから見たわけです。ええと、北海道150年記念とかで。ちょっとメロドラマ風味であったかな、と思う。まあ、でもNHKですし。潤ちゃんは、お芝居も上手ですし。真面目なお話だったんじゃないでしょうか。
本日は、一日外仕事ができて。昼間は割と夏のように暑かったです。でも、今(夜)は、少し雨が降っています。
で、私の方は今日も書証の整理をして。だいたい、明日か明後日くらいには終わるだろう、と思うわけです。で、印刷の合間に、せっせと読んで。7番目の兄さんには、「ヨーロッパの西の端のアイルランドのケルトの古層には、漁撈民の神話の古層が残っているので、良く勉強するように、と言われる気がするわけで。で、「ジェイコブズから始めよう」と言われるので、「ケルト魔法民話集」を読み出して。
で、ケルトには、「長腕のルー」という太陽神がいるわけで。その父親はキアンといって、「豚」に変身することができるわけです。というか、豚の姿で敵に捕まって殺されてしまう、というか、そんな感じであって。で、息子のルーは、海神の養子でもあって、養父から特別な剣とか馬とかを貰ったり、借りたりしていて。要するに、「ルー」とは、「豚の太陽神(男性)」ですよねえ? と思う。そういう神はどこから来たのだろうか、と思う。
そして、ルーは普段は特別な槍を武器に使っていて。で、たまたまカイトリーも読んでいたわけですが、北欧神話のロキは、自分のした悪さの償いに、小人に特別な槍とか、船を作って貰うわけです。「ロキの宝」って、ケルトの「ルーの宝」と同じものなんじゃないの? ロキも太陽神なの? 子音からいって、ロキとはルーのことなんじゃないの? と思う。でも、ケルトのルーが普通の太陽神であるのに対して、北欧神話のロキは、トリックスターというか神々の中ではちょっと変わっていて、嫌われ者の存在であって。「何故なんだろう?」と思う。
そうすると、豚は長江文明で一番古く飼いだした動物であって。長江文明は、チベット系の虎の太陽女神を母神とする母系の人々と、やや父系の漁撈民の混血の文化であるので。母系の人々は「太陽=虎女神(水稲耕作としては蛙)、月=虎の獲物の男神(古い順に鹿、牛、豚など)」としてる。一方、月神を食べる「やや父系」の人々は「太陽=豚男神、月=植物(穀物)」としてる。だから、豚は、状況に応じて、月にも太陽にもなり得る。ルーやロキは「ルドラ神群のシヴァ」のことなので。インドには、「太陽=ドゥルガー、月=シヴァ」と、「太陽=シヴァ、月=サティー」という長江文明の形式が残されてる、と言われる気がするわけで@@。シヴァの持つ武器も槍である。要するに「豚の太陽神」の武器である「槍」とは、猪とか豚の牙のことなんだ? と思う。
でも、ルーはケルトでは、普通の神様で、悪神ではないです。ということは、古い時代のアイルランドは、漁撈民の文化が強くて、長江文明の「人食いの神」が「良い神様」になってるんだ? と思う。そうすると、「ルーは、祖父である邪眼のバラーを殺すでしょ。バラーとは、メソポタミアのバアルのことで、アイルランド以外では良き天候神とされてる。バラーは、ケルトでは北方からやってきた、悪神の一族の一人です。でも、バラーの娘は、アイルランドの神であるキアンの子供を産んで、それがルーです。バラーは「B」の子音で始まるから「狼」のことです。北方からやってきたバラーは、近親であるルーが敵の側についていて、そのルーに殺される。要するにバラーは黄帝のことで、ルーはその後継者のことです。ケルトの人々は本来的には印欧語族ではないので、印欧語族に文化は似ているけれども、漁撈民に近い伝承を持っている。北欧神話のロキが、特殊な悪い存在なのは、他の神々が黄河文明由来の神であるのに対して、ロキだけが長江文明由来の神だから、ロキだけ毛色が違う。」と言われる気がするわけで@@。ルーとバラーの伝承は、長江文明の側から見た黄帝の伝承なんだ? と思う。
でも、そういう「豚の太陽神」が強く信仰されているところほど、「人の犠牲」が盛んであったところですよ。ケルトの人々も良く生け贄を捧げた。北欧もそうだし、インドのサティー(寡婦殉死)もつい最近まで行われていた、と言われる気がするわけで@@。
で、中国の神話の方では、河の神を鎮めるために、毎年若い娘を「妻」として生け贄に捧げる祭祀のことが書いてあって。で、しかも祭祀を行う費用を、庶民から巻き上げて集める、ということをしていたから、この祭祀は評判が悪かったわけです。それって、あれだ、お祭りにかこつけて、庶民から金品を集めたら、それは「お布施」の始め、ということだよねえ、と思う。お祭りが主催者のお金儲けの道具に使われるようになっていて。そのあたりから、神々に対する畏敬の念も消えていったのではないか、と思う。
で、今日は午後から「音楽の日」を見ていて。大勢の兄さん達に結縁できて良かった、と思うのです。
本日は、夕方に晴れているのに、夕立があって。お外組の仕事はそこで終わり、ということで。
私の方は、せっせと印刷をして。ともかく、書証の整理と言うことは、印刷して整理、の繰り返しなので、印刷の待ち時間が速度に大きく影響して。頭脳の方は、あまり使わないのですが。
で、中古の安い本を大量に買ったので、次々と届く。で、南洋の「ウナギの悪霊」に関する本もいくつか届く。印刷の待ち時間のお供に、「中国の神話」とかカイトリーとかちょこちょこと読んで。で、「中国の神話」には、ゲイ神話が詳しく書かれていて興味深く思う。ゲイとは、弓の名手で、太陽が10個登った時に、9つを射落とした、という「射日神話」の主人公である。ゲイは太陽を射た後も、中国各地の化け物退治に転戦する。そして、妻に逃げられて(というか死別か?)、後継者とみなされていた者に殺される。で、カイトリーも、丁度、古代ペルシャの英雄ロスタムの項を読んでいて。ロスタムとは、人の脳を喰う蛇王ザッハークを倒した、古代ペルシャの英雄である。でも、その最後は実の息子と戦って、殺してしまい、ロスタムは悲劇の内に死ぬ。そして、ロスタムもゲイも晩年は「不老不死」の薬を求めてさまよう。一方、ブリテンのアーサー王は、その最後は、息子(あるいは甥)と争って、「妖精の国」に治療のために連れ去られる。しかし、人々はイングランドに危機が起これば、アーサー王は戻ってくると考えていた。
だいたい、ロスタムっていうのは、アケメネス朝の「英雄先祖」のことですよねえ? ヒッタイト神話の、イルヤンカ退治のテシュブのことなんじゃん? と思う。でもって、ロスタムとは、ゲイのことですよねえ? どちらも、武術の名手で、たぶん弓の名手で、最後は悲劇である。要するに、こう考えるしかない。
蚩尤を倒した「黄帝」とは、中国の王朝の「英雄先祖」といえるけれども、元々の中原の人間というよりは、北方の遊牧騎馬民族出身の若者であって、武勇と知略に優れて、中原の名家に「婿入り」して、長江文明を滅ぼして、王となったけれども、おそらく、妻とはあまりうまくいってなくて、後継者とみられる男子と争って、殺されている。この「後継者」というのは、はっきりしないけれども、直系の息子、とうよりは、父親とは疎遠に育った庶子の息子、あるいは甥、あるいは弟、であると思う。黄帝は、良き王であったけれども、その近親の後継者は、長江付近の「人食い」の悪癖に染まって、かつ、暴君だった。「庶子の息子」というのは、そっちに生まれ育って子供、ということで。
要するに、「黄帝」というのは、印欧語族にとっては、精神的な「英雄先祖」であって、「黄帝」は中国本土では、神である「黄帝」、悲劇の英雄である「ゲイ」、お犬様の英雄「盤瓠」に別れたのだと思う。(なぜなら、狼トーテムの人間だから)その英雄先祖が、印欧語族と共に各地にばらまかれたから、黄帝も、ロスタムも、テシュブも、アーサー王も、「みんな同じ人」なんじゃないの? と思う。
だから、黄帝が、南方の思想に染まった「息子」と対立した時に、印欧語族全体も二つに分裂した。「父」の側につく人と、「息子」の側につく人と。要するに、「富の王家」は「父」の側についているし、「ローマ人」は「息子」の側についているのだと思う。でも、「黄帝」とは、魂の力が強くて、何度でも生まれ変わる人なので、昔の人風にいえば、「殺されても死なない不老不死の人」である。だから、「父と息子」は今でも戦い続けている。
要するに、私に対して、いろんな民話や神話を読んで、お勉強しろ、ということは、まずは東洋と西洋における「KB」の女神、「蛙の女神」の役割を知ること。それと同時に、もう一つ、「黄帝」を知って、何度生まれ変わっても結局「悲劇的な死」を迎えてしまうその青年の運命を変えて欲しい、それが亡くなった人の遺言です、と言われる気がするわけで。それは富の王家の悲願でもあるし、「世界の半分」の悲願でもあるのだと思う。えー、でも、持って生まれた性格は死ななきゃ治らないから、死ねなかったら治らないんじゃないの? とか、ごく冷たいことを言う私がいるわけだがー;。その兄さんは、あれこれ考え過ぎちゃわないで、もっと自分の気持ちに普通に素直になった方がいいですよ、あんまり6番目の子に焼き餅焼かないで、と思うわけでー;。
だいたい、私如きに何ができるでしょうか? ということもあるし、私の方が10も年上だから、どちらにしても私の方が先に死ぬし? と思う。でも、「父」と「不肖な息子」のどちらにつくのか? と聞かれたら、7番目の兄さんの方につきます。というか、もう一方についたら、殺されちゃうんじゃん?? ということで-;。できることがあれば、できれば良いなあ、と思うわけです。今日はなんだか、水曜日にお風呂に入っているときに、ふっと7番目の兄さんに「喪服は好きじゃないけど、こういうときはやむを得ない」と言われた気がして。それを思い出したのでした。
本日は、夕方から雨が降って。午前中は主に、お外組が買い物とごみ捨てに出かけていたので、外の仕事は少ししかできなかったのでした。昨日は、家人が歯医者に行ったので、同じ感じでした。
私の方は、月のモノが3日めになったので、やっと意識がはっきりしてきて。(1日目と2日目はぼーっとしてるので-;)で、裁判用の「お仕事」の方は、追加の書証の整理をしたわけですが、有象無象な資料が多すぎて、出したいモノがとっちらかってしまっているので、探すのに大変で-;。あとどのくらいで仕上がるかなあ? と確認中です。まあ、次は金勘定のことしか出す気がないから、あんまり書くことはないわけですが。書証が大量にあるのです。
で、どうも家人がイライラしている感じなので、裁判が近いということと、再び民話・神話学に片足を突っ込みつつあるから、いろいろと調べられることが嫌な人達がいるのだと思う。裁判の方は、例によって、「締め切りまでになんとかなるかなあ?」というところである。
民話・神話の方は、「女性差別と、その最たるものである寡婦殉死についての歴史を調べるように。」と言われるのであって。女性差別や階級差別の原因を探って、将来的にはその解決方法を探れるように、ということなのではないかと思うわけですが。そもそも、オーストロネシア語族の植物の豊穣の神話は、男女の性差があまりなくて、地上から上のものは男性、根菜は女性、(丈の低い植物も女性?)という感じであって。それを取り上げるのに、ハイヌウェレだけを取り上げて、「須佐之男とオオゲツヒメ」とか、そういう「女の人が殺される」ことばかりを取り上げて強調するのが、現代の「女性差別」なのだと思う。でも、西欧の方では、ドゥムジ、アドニス、オシリスと、男性が殺される神話もたくさんあるわけで、元は「女神だけが死なねばならない神話」ではないことは、各地の神話を見ればすぐに分かることなのです。
台湾あたりが発祥であり、漁撈民であるオーストロネシア語族の文化が、世界に伝播するには2つの系統があって、一つはインドネシア方面に拡がって、沿岸沿いにインド、中東、地中海と拡がったもの。もう一つは、中国沿岸を北上して、中国東北部辺りで、農耕や栽培が行われなくなった辺りの住人に、「豊穣の祭祀」のみが取り入れられて、遊牧民である彼らが馬に乗ることを覚えて、そこから中央アジアの草原地帯を馬と犬と共に西走してヨーロッパ方面に拡がったものである。シルクロードとしては「天山北路」とかに相当する道だと思うのだけれど、ここを通って印欧語族がクルガン文化を伴って、西欧に拡がっていくのに、2000~3000年くらいかかるわけで。おそらく、その「馬の道」の発祥は、遼河文明あたりだと思う。「竜」の発祥の地である、中国東北部に栄えた遼河文明は、ヒスイで作った「猪竜」が特徴で、これは猪の頭、蛇の尻尾を持っており、かつ馬のたてがみを持っていたりする。豚と蛇信仰は、遙か遠く長江流域に起源があるものですが、馬はそうではないと思う。農耕を行わない彼らは、牧畜が主な生活源であり、男性は、自らの富貴と豊穣のために、馬と女性を殺す祭祀を行っていたと思われます。特に、馬と女性が強く結びつけられていて、その辺りの民話や神話には、「女性が何の豊穣ももたらさず、(でも男には得になるような)男の都合で死ぬ」という傾向があるように思う。なんというか、個人的には「みんなのために死ぬハイヌウェレ」の方がまだマシ、というか、なんで個人的に男の都合に振り回されて、女の人が死なねばならんの? と思う。
オーストロネシア語族の文化の、ごく局地的な伝播経路として、台湾→沖縄→日本列島とあるわけで。でも、私が思うに、このミニ伝播経路で伝わった文化は、あんまり残虐ではないわけです。沖縄には、ウナギが悪霊とされるけれども、ウナギの機嫌を取るために誰かが死ぬ、という話は、おそらくあまりないのではないかと思う。日本で、このミニ伝播経路で伝わった伝承で、一番色濃く残っているのは、「ウナギを食べたら祟られて目が見えなくなった」という話があるので、これは「悪霊のウナギに頭を食べられた」とか、そういう神話の名残なのかなあ、と思う。でも、本土は、後に中国から入ってきている思想が混在しているので、「ぶつ切りにされて赤飯に変化するハイヌウェレ(ウナギ)」とか、いいんだけれども、そんな感じになっているわけで。どちらかといえば、ウナギとは、神というよりも「地震を起こして祟る神」というのが、本来の思想であって、「生け贄」は、その機嫌を取るためのもの、として後から付け加えられたものな気がします。
「馬と遊牧民の道」の方ですが、遼河文明には「緑色の目をした女神」の頭が祭られていた廟がありました。これは、その「頭」が守護の役割も果たしたのだと思います。しかも「緑色の目」をしてるのだから、モンゴロイドじゃなくて、白人の女神なわけです。そして、古代のギリシャ人は、神殿の守護として、「メドゥーサの首」を神殿に飾りました。目の色は分からないけれども、白人の神様ではある。そして、メドゥーサの切り落とされた首からは、ペガソス(天馬)が生まれた、とされており、その父親は海神ポセイドーンでした。要するに、メドゥーサとは、海神に馬の豊穣を願って殺された「女性」ということになります。ギリシャ人は馬の神話が好きで、ポセイドーンは、他にもデーメーテール女神に馬の姿で交尾を迫り、無理矢理馬の子を産ませて、それを怒った女神が隠れてしまった、という神話があるわけで。その一方で、北欧のワルキューレは空飛ぶ白馬に乗って戦場を駆け巡り、戦死者の魂を天上世界へ連れて行く役目を負っていましたし、ケルトの馬の女神エポナは、死者の黄泉路の案内人でもあったので。また、トラキアでは妻は夫の死後殉死して、夫と共に天上世界へ行くとされていて。要するに、印欧語族では、男性(特に戦士)が、死後天国に行くためには、女性と馬が必要であった、という思想があったと示唆される。だから、「馬に関する犠牲」と「寡婦殉死」は、密接に結びついているわけです。でも、ヨーロッパには、「馬のために女神が殺された」という話はあまりありません。そういう話は、痕跡を残して神話や伝承の上からも消えてしまっているといえます。その代わりに、ギリシャには、父親であるアガメムンーンの都合で、生け贄にされてしまう王女イーピゲネイアの物語があります。イーピゲネイアって誰のことですか? 「エポナのことでしょう。」と7番目の兄さんに言われる気がするわけで@@。そりゃそうだ、同じ子音だ@@。と思うわけです。エポナとは「馬の泉」という意味もあるそうで、エポナは水に関する女神でもあります。
しかも、もっと大きな問題がある。印欧語族の神話の中で「神性」があるとして好まれるのは「白馬」だけれども、それは地中海周辺地域に到達して、そこで「より重要」と考えられている「牛」に変更されてしまった。「テュロスの王女として生まれたエウローペーは美しく成長した。あるとき、彼女を見たゼウスは一目で恋に落ち、彼女を誘惑するために自身を白い牡牛に変え、エウローペーが侍女と花を摘んでいるときに近づいた。そして白い牡牛を見つけたエウローペーがその背にまたがると、白い牡牛は海を渡ってエウローペーをクレータ島へと連れ去った。エウローペーが海を渡った西方の地域は彼女の名前から「ヨーロッパ」 (Europa) と呼ばれるようになった。」という神話があるでしょう。「白い牡牛」とは、本来「白馬」であったものです。エウローペーとは、エポナのことだ。「ヨーロッパ」全体が「馬頭娘」だぜ? と言われる気がするわけで@@。
馬と、女性の死が豊穣をもたらし神話の最たるものは、蚕の起源に関する「馬頭娘」であって、中国では明確に、女性の死と馬の関連がはっきしているわけで、女性は「蚕の豊穣」のために殺される「ハイヌウェレ」といえる。中国には、他に神話上の皇帝舜が亡くなった際に、二人の妻が湖飛び込んで殉死した、という話がある。
でも、蚕の話は、日本に「霊異記」に蛇との関連が示唆される伝承があるので、本来は馬ではなく、蛇と関連する話であった可能性が高い。馬頭娘は馬を飼うようになって、馬が重要視されるようになってから後付けで馬が加えられたものです。また、日本武尊の東征の都合で、海に飛び込んで死ぬ弟橘媛の伝承がある。東洋に伝わる、4つの伝承を考察する限り、ハイヌウェレ型の神話が古代中国に伝播し拡がる過程で、「物産の豊穣に関して女神が死ぬ神話」「夫に殉死して女神が死ぬ神話」「単に夫の都合で女神が死ぬ神話」の3つのパターンが東洋で発生しており、それが遼河文明を経て、印欧語族の西進と共に、馬と共に西欧に伝播し、遊牧民にとって馬が重要な動物であったことから、馬と強く関連付けられることになったもの。そして、この女神の名が「エポナ」とされたので、その名が「ヨーロッパ」という地名になるほどに、強く深く拡散したもの、と言われる気がするわけで@@。あまりにも、古い時代に拡散したから、ヨーロッパにおける神話は散逸してしまったけれども、原型に近い話が東洋に残っている。だいたい近所に「望月の駒」っていう話があるでしょう。女性を食らう「月の馬」ですよ、オオゲツヒメを殺す須佐之男か月夜見でしょ? と言われる気がするわけで@@。
これが、世界にはびこる、差別社会と階級社会の根源にある「神話」らしいのですが@@。「望月の駒」?? とか思うわけで。でも、西欧における、馬の神話を探るには、辺境の地である、アイルランド、スコットランド、イングランド、北欧と特例的にギリシャの神話・伝説を洗って学ぶしかない。エポナこそが、ヨーロッパで最大の「月の女神」なのです。ヴァティカヌスですら、その名前を消し去ることができなかった権威ある太母です、と言われる気がするわけで@@。女性が馬の犠牲にされる祭祀は、印欧語族ではごく早い時期に廃れてしまって、むしろ「白馬」の方が犠牲とされることの方が多い。男尊女卑が著しいインドにおいてすら、馬の供犠は古代からの重要な儀式でした。特に王権を支えるための儀式として重要だった。しかし、この「白馬」とは女性なのか? それとも男性なのか? と問われる気がするわけで。女性であればエポナ、男性であればその夫である海神、ネプトゥーヌスかマナナン・マク・リールとかになるのですかねえ? と思う。
しかし、ともかく、ヨーロッパの馬の太母エポナは、ゾロアスターの世界では、アナーヒタ女神へとその性質が大きく取り込まれるわけで。「だいたい、アルテミス・ディアーヌの名を持つ者はエポナの名前を取れないんだよ。そもそも、エポナの男性形の名前が、何だか分かるでしょ?」と言われる気がするわけで。それは、「シヴァ」では? と思う。シヴァの乗り物も、「白い牡牛」だし@@、と思う。「エポナにシヴァっていったら、蛙黽の名前を持つ者にしか、取れない名前でしょ。だいたい、だからエポナは小さな泉の女神なんじゃないの。蛙黽の女神は、小さな泉の中でケロケロ鳴いているのがお似合い。」と言われる気がするわけで@@。
要するに、エポナ・アナーヒタとは馬乗りの印欧語族にとっては、根源的な太母であるけれども、東洋では単なる「生駒姫」に過ぎない。くだらない夫に殉じていないで、自分達の方に出てくるように。あなたの「夫」である海竜王が待っている、と。西欧の人達はそう言いそうである。そして、階級差別と女性差別がはびこる世界をどう変えていったら良いのか、考えて欲しい、と言われそうな気がする。でも、まずは自ら「馬頭娘」の呪いを解かないといけなわけだ。だから、「絹」がそもそも、我が家には危険な代物なんじゃないの? と始めて思うわけですが。