昨夜は特に夢も見ず。本日も土台の下を掘ったわけですが、西側に埋まっている大きな石の上とその周辺には大量の石が詰め込まれているため、ともかく崩して出すしかない状況だ。たぶん、砕石まで崩さないとどうしようもない、と思うのだけれども、今日は砕石の多くはまだ残ったままである。だいぶ崩れそうになっているので、そのうちに自然に崩落したものを片付けることになると思う。
そして、結局思うけれども、誰でも自分の手にあまることを計画したり、やろうとしてはいけないのだと思う。総本家は、結局、いろいろと画策したけれども、太陽女神に関しては、失敗続きであって、いろいろな人に迷惑をかけている。そして、忠蔵さんの家系をよくよく考えてみると、いつも「敵の先鋒」となるべき人間が送り込まれていて、それは時には一人ではなくて複数いて、一族に取り憑いては、人間関係を引っかき回しているように思う。自力でその正体を見抜いて、追い払える者は良いけれども、それができずに敵に取り込まれてしまう人達を、総本家は助けようともしてないし、放置したまま、というのがそもそもよろしくない。そういうことをしているから、その家系の人々の大部分は、敵に食い物にされているだけ、となっているように思う。私は悪徳業者の従兄の正体を見抜くことができたから、いずれは付き合う気もないけれども、この人の方は、忠蔵さんの血を引く人達の間にとりついて、いつの間にか一族を仕切るような真似をしている。総本家は結局それを放置したままである。そして、今のところ、私自身も自分と家族の身の安全を図るのが第一なのだから、どうしようもない。
昔、堀河天皇という人がいた。父親は白河天皇、母親は摂関家の養女である。母中宮の実の親は村上源氏であったから、母親は平安時代の貴族社会において、摂関家と格式の高い源氏(皇室の子孫)という二大勢力の後見を受ける立場の人であった。堀河天皇は8歳の時に即位し、摂関家の関白である外祖父が政治を取り仕切った。天皇が成長すると、白河天皇の同母妹の篤子内親王が中宮として立つ。篤子内親王は、幼くして生母を亡くしたため、祖母の陽明門院(後朱雀天皇)の養女として育ち、陽明門院は摂関家出身の母を持つ内親王であったので、篤子内親王も摂関家に近い人物であって、関白の養女として入内している。要するに堀河天皇中宮である篤子内親王は、実家とも言える摂関家と、実兄である白河上皇との間を取り持つことが可能な女性であった(祖母陽明門院と白河上皇との関係も、必ずしも円満とは言いがたかったので、その間を取り持つ役目も併せ持っていた)。ただし、甥の堀河天皇との年の差が19歳もあったため、当時の女性としてはかなり高齢になってからの結婚で、夫婦仲は円満であったが、結局子供には恵まれなかった。そのため、関白の代が変わると、白河上皇のお声掛かりで、上皇の生母の実家である閑院家から皇子誕生を期待して新たに女御が迎えられた。女御は期待に応えて皇子を出産したが、産後の肥立ちが悪くて早世した。こうして誕生したのが後の鳥羽天皇である。
堀河天皇は新関白と共に親政を行い、白河上皇が政治に口出しする機会は減らされることとなった。そのため、白河上皇と関白との仲は悪く、上皇が側近である閑院家からの女御を積極的に薦めた背景には、そこから生まれた皇子を通して、再び政治への影響力を強める目的があったと思われる。上皇と水面下で対立していた関白が早世すると、白河上皇の政治への介入は再び活発になる。更に、幼い皇子が5歳の時に父・堀河天皇が亡くなる。政治は事実上、白河上皇が取り仕切ることになり、鳥羽天皇の後宮には閑院家出身で、白河天皇の養女であった待賢門院が入ることになる。この待賢門院が生んだ第一皇子(後の崇徳天皇)の実の父親は白河上皇である、として鳥羽天皇が崇徳天皇を嫌い、保元・平治の乱の遠因となったことは有名である。
堀河天皇の最後を看取ったのは、讃岐典侍(ないしのすけ)という女官であって、摂関家に近しい人物であった。彼女の姉が堀河天皇の乳母であったので、天皇に親しく仕えていて、おそらく現代的な感覚でいえば「天皇の愛人」という立場であったのだと思う。(ただし、当時の慣例では女房は主人の夜の相手をすることも仕事の内であったので、これは特に倫理的に問題のあることではなかった。)慣例では、天皇が代替わりすると、後宮の人員も総入れ替えということになる。ただし、典侍は正式には妻という立場ではないので、女官として残ろうと思えば残れる。讃岐典侍はいったん職を辞するけれども、鳥羽天皇の養育を行うように白河上皇から命じられて、再び幼帝に出仕する。そして、崇徳天皇が誕生して、その地位が安定する時期まで出仕を続けて、表舞台から消える。典侍が待賢門院の安産を願って心を砕いた様が記録に残っている。けれども、他の文献に残るように、崇徳天皇は鳥羽天皇から見れば不満な出自の子供であった。すなわち、讃岐典侍は摂関家に近い出自であるけれども、立場としては白河上皇に近い人物で、上皇のために堀河天皇や鳥羽天皇の近くで働いた人といえる。だから、白河上皇が誕生を持ち望んでいた崇徳天皇の登場を、彼女も待ち望んでいた。
一方、当時の慣例では、「乳母」というものは、養い子が男子である場合には、成長した際に「夜の生活の手ほどき」までをするのが普通であった。そのため、養い子が成人すると、そのまま愛人の座に横滑りする乳母も多かった。とすると、讃岐典侍は、堀河天皇の愛人であり、その息子の鳥羽天皇の愛人でもあったのではないか、と思う。だからこそ、彼女であれば、鳥羽天皇の寝室ではなく、白河上皇の寝室に通う待賢門院の存在を、不満を持たせすに鳥羽天皇に認めさせることができたのではないかと思う。若き鳥羽天皇には、夜、中宮に相手をして貰わなくても、より強い満足を与えてくれる女性が身近にいたのである。しかし、崇徳天皇が誕生すると、彼女は鳥羽天皇の近くから遠ざけられる。それは何故なのか。それは、讃岐典侍が天皇に与える影響力を白河上皇に警戒されて、排除されたのではないか、と想像している。そして、若い天皇の上皇に対する不満は、もしかしたら、妻を寝取られたことではなく、愛人を遠ざけられた点にあるのではないかとすら思う。しかし、讃岐典侍は上皇の意思に従う。その理由は何だったのか? 私が思うに、讃岐典侍もまた上皇の愛人ではなかったのかと思う。上皇は、自分の愛人を息子や孫息子の側近に送り込んで、彼らを操り、権力を掌握し続けようとしていたのではないだろうか。
一つだけ、この時代に確かなことはある。鳥羽天皇は若すぎて、白河上皇に逆らうことは、上皇の生存中にできなかった。でも、その父親とされる堀河天皇とその側近であった関白は違う。しかし、彼らは早世してしまった。白河上皇の後、平安末期の世は戦乱に乱れる。そして、鎌倉初期に至るまで、当時の朝廷側の権力者と対立した人達の中には「早世した」人がときどき出てくるし、中にははっきり「毒殺された」とされている人も居る。権力者と対立した人ばかり何故早世するのだろう? と思う。そして、政治的な邪魔者を「毒殺」して手っ取り早く片付ける様な悪しき習慣を、いったい誰が始めたのだろうか、と思う。だから、讃岐典侍自身が、上皇の愛人であったのではないか、と想像するわけです。彼女なら、側近という地位を利用して、堀河天皇に毒を盛れるし、よほどのヘマをしない限り、上皇にその身を守って貰えたであろう、と思うからです。
その一方、堀河天皇の中宮であった篤子内親王は摂関家に身を寄せて、摂関家の嫡男を養子にして養育していた。彼女の養子は、白河上皇に娘を鳥羽天皇に入内させるように命じられても、上皇の生前は従わず、政治的に干されても、保身のみに務めて生きていて、上皇は敬して遠ざける生活を送っていた。それも何故だろう? と思う。おそらく、この摂関家の嫡男は、養母の篤子内親王から、白河上皇の手口を良く教えられて育ったのではないか、と思う。自分の娘を色と欲と毒殺が支配するような世界に巻き込ませたくなくて、彼は政界から敢えて遠ざかっていたのではなかったのだろうか。
それはともかく、母方の祖父の手口を考えたときに、この「白河天皇」を思い出したわけで、権力欲が強くて倫理観の乏しい男性というのは、「色を好む」かもしれないけれども、それはけっして無秩序なものではなくて、ご当人には「欲する権力の維持」という目的も伴っているのだと思う。そういうタイプの男性にとって、女性は欲望を解消する対象であるだけでなく、自らの権力を維持するために利用する道具でもある。私の母方の曾祖父は、どうやら頭も良かったけれども、そういうしたたかさを持った男でもあった。母親自身は、「私は頭の良さは似たけれども、そういうしたたかさは似なかった。」と言う。
で、自分でも思うけれども、そういう目的のために図々しいくらいの策略を巡らすしたたかさは、エリザベスのおばあちゃんに対するシャーロットちゃんのように、ひ孫に強く受け継がれたのではないかと思う。自分を足蹴にしてくれた病院に、なんとしても復讐してやりたくて、裁判を起こしたし、勝つための文章をせっせと書いた。だいたい、喧嘩に勝つ、というのは、何が真実であったのか、ということではなくて、自分が勝ちたいと思う方向に、真実に見えることを積み上げていけば良い、というのが私の持論なので、だから皆さまに「喧嘩に強そう」と言われる-;。でも、斉の文王だって、そういう図々しい策略家であったからこそ、戦場を駆け回って殷を倒すことができたんじゃないのか、と思う。そういう逞しさはくだらない方向に発揮されるとどうしようもないのだけれども、そういうものを失ってしまったら勝てない、と思う。
ディアーヌ女神には、「もしも、太陽女神の祖父が亡くなった時に、総本家の当主が一族郎党を引き連れて、直接乗り込んできて、『我が家から出た者は、我が家のお墓に入るべき者だから、なんとしても家の墓に入れて欲しい。』と向こうから頭を下げていたら、総本家は今でも太陽女神を失わずに済んだのではないのか。例え、自ら人肉の天秤にかかるような取引をしなければならなかったとしても。だから、そこまでの決断ができる逞しさを失ってしまっていたことが、神を失う原因にもなっているのだから、今になって文句を言う筋合いはないはず。」と言われた。ここまで言われると、それも「是」と言える味方は少ないわけで、いざとなれば富の王家のおっちゃんにしても、蛇の兄さんにしても、「人肉の天秤」には耐えられないであろう、と思う。だいたい、そういうものに強い人は最近なんとなく分かるようになってきたわけで、なんというか、彼らの目はとても「暗く」感じるわけです。そういう人達に比べて蛇の兄さんの目は「目の力」は強くても「明るすぎる」気がするし、それだけ人肉の毒に弱いのだと思う。そして、文献によると、斉の武王は赤ん坊を唐揚げにして食べていたような人であったとのことなので、遠い先祖にはそういう毒に強い人がいたことも事実であって。だから、結局身近な人達の多くは、「とてもそんなことは無理」と言うかもしれないけれども、「人肉の毒」に比較的強い、と言われる西の方の人達の多くは、ディアーヌ女神のような意見なのだと思う。というわけで、図々しい策略家のじいさんの遺伝子を取り入れてみたら、総本家の手に余るような策略家が生まれてきちゃった気がするわけですがー;。で、私は「後攻」に強いタイプであって、そして6番目の子は「先攻」に強いタイプなので、ちょうどいいんじゃないの? と7番目の兄さんに言われるわけで。総本家とはいつ和解できるのやら? というか、そんな気になれないわけですがー;。