大塔物語01  

原文  

去応永七年庚申九月廿四日、於信州更科郡布施郷、合戦次第事矣。
夫政者、天下泰平計略、国土安穏根源也。而近代御政務賞罰共直而、都鄙悉令静謐、上下誇無事、万民歌歓楽、然間、孰不憲法之裁断、孰不廉直之御成敗乎。
抑信濃国者、小笠原信濃守長秀、親父長基、祖父政長、代々為任守護職処也。長秀募由緒訴訟処、上裁即無相違、則賜安堵之御下文、軈応永七年七月三日、賜御暇京都、同廿一日、令信州佐久郡下著。大井治部少輔光矩者、依為一門、先馳越于光矩之館、披御教書、令合一国成敗之趣

書き下し文  

去る応永七年庚申九月廿四日、信州更科の郡、布施の郷に於いて、合戦の次第の事や。
夫れ政者、天下泰平の計略、国土安穏の根源なり。而るに近代御政務賞罰共直(ただ)しく、都鄙悉(ことごと)く静謐せしむ、上下無事に誇り、万民歓楽を歌ふ、然る間、孰(たれ)か憲法の裁断を貴はざん、孰(たれ)か廉直の御成敗を仰がざんや。
そもそも信濃国、小笠原信濃守長秀、親父長基、祖父政長、代々守護職に補任(ぶにん)する処なり。*1長秀由緒に募り訴訟を経るの処に、上裁既に相違無く、則ち安堵の御下し文を賜り、軈(やがて)応永七年七月三日、御暇を賜り京都を立ち、同廿一日に、信州佐久郡に下著(げちゃく)せしむ。大井治部少輔光矩(みつかね)は一門為るに依りて、先づ光矩の館に馳せ越へ、御教書(みぎょうしょ)を披(ひら)き、一国の成敗の趣を談合せしむ。*2

意訳  

去る応永七年庚申九月廿四日、信州更科の郡、布施の郷に於いて、合戦の成り行きの事である。
そもそも政治を行う者が、世の中をよく治めて穏やかにするよう考えることは、国土が穏やかになる根源である。そうであるから、近頃(江戸時代)は政治、賞罰共に直(ただ)しく、都会も田舎も悉く穏やかに治められている。身分が高い者も低い者も、日々の変わりない生活を誇り、万民は喜び楽しむことを歌う。このような時に、孰(だれ)が国のおきてによる裁断を貴ばず、孰(だれ)が公正な裁きを敬わないだろうか。
そもそも信濃国は、小笠原長秀、その父長基、祖父政長と、代々守護職に補任されていた。長秀は来歴を広く求め、訴訟を経たところ、裁可はどう見ても間違いはなく、ただちに下し文の形式による安堵状を賜り、やがて応永七年(1400年)七月三日、御暇を賜り、京都を出発し、同月廿一日、信州佐久郡に到着した。(佐久の)大井治部少輔光矩(みつかね)は一門だったので、先ず光矩の館に馬で馳せ入り、御教書を示して、信濃国の政治の事情を相談した。

大塔記01  

原文  

応永七年庚辰九月廿四日、於信州更科布施郷、合戦有之次第之事。
夫政者、天下泰平計略、国土安穏根本也。而近代御政務賞罰倶直而、都鄙悉令二静謐一、上下誇二無事一、万民歌二歓楽一、然間、孰不レ貴二憲法之裁断一、誰不レ仰二廉直之御成敗一乎。

書き下し文  

応永七年庚申九月廿四日、信州更科布施の郷に於いて、合戦の次第の事有り。
夫れ政者、天下泰平の計略は、国土安穏の根本なり。而るに近代御政務賞罰倶(とも)直(ただ)しく、都鄙悉(ことごと)く静謐せしむ、上下無事に誇り、万民歓楽を歌ふ、然る間、孰(たれ)か憲法の裁断を貴はざん、誰(たれ)か廉直の御成敗を仰がざんや。

意訳  

応永七年庚申九月廿四日、信州更科布施の郷に於いてあった、合戦の成り行きがあった。
そもそも政治を行う者が、世の中をよく治めて穏やかにするよう考えることは、国土が穏やかになる根本である。そうであるから、近頃(江戸時代)は政治、賞罰倶(とも)に直(ただ)しく、都会も田舎も悉く穏やかに治められている。身分が高い者も低い者も、日々の変わりない生活を誇り、万民は喜び楽しむことを歌う。このような時に、孰(だれ)が国のおきてによる裁断を貴ばず、誰(だれ)が公正な裁きを敬わないだろうか。


*1 「代々為補任守護職処也」と読んでいる。
*2 「令談合一国成敗之趣」と読んでいる。

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Last-modified: 2021-05-29 (土) 23:58:45