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== 概要 ==
金刺氏は'''磯城島金刺宮朝'''に遷都した[[欽明天皇]]に、御名代・舎人として出仕し、宮名の一部である「金刺」を自分達の氏の名前に負ったと考えられているに遷都した欽明天皇に、御名代・舎人として出仕し、宮名の一部である「金刺」を自分達の氏の名前に負ったと考えられている<ref name="#1">佐藤雄一「古代信濃の氏族と信仰」(吉川弘文館、2021年)</ref>。
『古事記』の国譲り神話の部分にのみ登場する[[建御名方神]]について、『諏訪市史』では、[[科野国造]]の後裔である[[金刺氏]]が、始祖([[神八井耳命]])を同じくする系譜を持つ[[太安万侶]]に働きかけ、建御名方神についての神話を挿入させたとする<ref> 諏訪市史編纂委員会『諏訪市史. 上巻(原始・古代・中世)』(諏訪市、1995年)</ref>。
奈良時代から平安時代初期の信濃の地方政治は、金刺部舎人氏や他田部舎人氏の活動を中心に繰り広げられたと見られ、'''伊那・諏訪・筑摩・水内・埴科・小県'''の各郡の郡司を占める。信濃の郡司を代表する人物に伊那郡大領[[金刺八麻呂|金刺舎人八麻呂]]がいる。郡司の子弟として平城京に出仕していた際に藤原仲麻呂の乱(764年)が起こり、孝謙上皇の側で乱の鎮圧に功績が認められたと見られ翌年に外従五位下・勲六等の位が与えられた。また伊那郡の郡司は信濃国内に置かれた内厩寮直轄の御牧全体を統括する責任者(牧主当)でもあった。伊那郡や諏訪郡には、信濃国の御牧16牧のうち5牧があり、御牧が南信地域に多く置かれていたことがわかる。文献の面では、少なくとも'''奈良時代末期から金刺舎人氏が、馬によって中央との関係を持っていた'''ことが知られている。金刺氏と馬は切り離し難い関係にあり、彼らが中央他のつながりを持つ際の手段の一つであったと考えられている<ref name="#1"/>。
また、金刺氏のうち、[[水内郡]]の[[郡司]]となった一族は、[[また、金刺氏のうち、水内郡の郡司となった一族は、'''善光寺]]の創建に関わっており、水内郡南半の、[[裾花川]]沿いの[[芋井郷]](現在の[[長野市]]南俣や上高田周辺)を拠点にしたとする説がある'''の創建に関わっており、水内郡南半の、裾花川沿いの芋井郷(現在の長野市南俣や'''上高田周辺''')を拠点にしたとする説がある<ref>桐原健『私の古代学ノート』(信毎書籍出版センター、1983年)</ref>。
[[貞観 (日本)|貞観]]4年([[862年]])には信濃国[[埴科郡]][[大領]]金刺舎人正長が小県郡[[郡司|権少領]]他田舎人藤雄と共に[[外従五位下]]に叙された。翌年には[[右近衛将監]][[大貞長|金刺舎人貞長]]が[[多氏|太]][[朝臣]]への改姓が許され、その弟貞継は[[八色の姓]]で[[宿禰]]を賜与された。さらに貞長は、翌年には長田(他田)直利世と共に外従五位下に序され、3年後には[[三河国|貞観4年(862年)には信濃国埴科郡大領金刺舎人正長が小県郡権少領他田舎人藤雄と共に外従五位下に叙された。翌年には右近衛将監金刺舎人貞長が太朝臣への改姓が許され、その弟貞継は八色の姓で宿禰を賜与された。さらに貞長は、翌年には長田(他田)直利世と共に外従五位下に序され、3年後には'''三河]]の[[介]]に任ぜられている。しかし、彼らの名はその後'''の介に任ぜられている。しかし、彼らの名はその後[[諏訪大社]]特に下社[[神官]]として残り政治の舞台からは遠のく。[[屋代町|屋代]][[木簡]]の中には5月20日の日付で[[稲取人]]である金刺舎人若麿らに対して埴科[[郡家]]の[[正倉]特に下社神官として残り政治の舞台からは遠のく。屋代木簡の中には5月20日の日付で稲取人である金刺舎人若麿らに対して埴科郡家の正倉]から20束の稲を貸し与えた記述の物がある。
[[元慶]]3年([[879年]])に太皇太后の近侍として従五位下に叙された太朝臣平子は、「多朝臣」ではなく「太朝臣」であることから、太(金刺)貞長の一族であったと考えられる<ref>國學院大学氏族データーベース「意富臣[http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/ujizoku/oonoomi/]」</ref>。

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