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貞観4年(862年)には信濃国埴科郡大領金刺舎人正長が小県郡権少領他田舎人藤雄と共に外従五位下に叙された。翌年には右近衛将監金刺舎人貞長が太朝臣への改姓が許され、その弟貞継は八色の姓で宿禰を賜与された。さらに貞長は、翌年には長田(他田)直利世と共に外従五位下に序され、3年後には'''三河'''の介に任ぜられている。しかし、彼らの名はその後[[諏訪大社]]特に下社神官として残り政治の舞台からは遠のく。屋代木簡の中には5月20日の日付で稲取人である金刺舎人若麿らに対して埴科郡家の正倉]から20束の稲を貸し与えた記述の物がある。
[[元慶]]3年([[879年]])に太皇太后の近侍として従五位下に叙された太朝臣平子は、「多朝臣」ではなく「太朝臣」であることから、太(金刺)貞長の一族であったと考えられる元慶3年(879年)に太皇太后の近侍として従五位下に叙された太朝臣平子は、「多朝臣」ではなく「太朝臣」であることから、太(金刺)貞長の一族であったと考えられる<ref>國學院大学氏族データーベース「意富臣[http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/ujizoku/oonoomi/]」</ref>。
; 信濃国の金刺氏・金刺部<ref>傳田伊史「古代信濃の地域社会構造」(同成社、2017年)</ref>
*[['''伊那郡]]'''
**[[金刺舎人八麻呂]]
**:[[郡司|大領]]、[[信濃国]]牧主当、外従五位下勲六等大領、信濃国牧主当、外従五位下勲六等*[[諏訪郡]]**[[大貞長|金刺舎人貞長]]
**:右近衛将監、正六位上
*[['''水内郡]]'''**[[金刺舎人若島|金刺舎人連若嶋]]
**:女嬬、正七位下、外従五位下、従五位下
*[[埴科郡]]**[[金刺舎人正長]]
**:大領、外従七位上、借外従七位上
**金刺舎人真清
== 金刺部 ==
[[file:Shikishima-Kanasashi Palace.JPG|thumb|right|奈良県桜井市にある磯城島金刺宮の碑]]起源は、[[部民制]]における[[名代]]の一つである起源は、部民制における名代の一つである'''金刺部'''にあるとされる。金刺部は[[欽明天皇]]の[[皇居]]であった[[磯城嶋金刺宮]]に由来し、その資用に充てられた料地等の管理に従事した人々である。にあるとされる。金刺部は欽明天皇の皇居であった磯城嶋金刺宮に由来し、その資用に充てられた料地等の管理に従事した人々である。
== 金刺舎人・金刺部の分布とその理由 ==
== 関連項目 ==
*[[諏訪氏]]* [[若麻績氏]]
== 参照 ==

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