金刺氏

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(出典の明記、2010年7月)

金刺氏(かなさしし)は、日本の古代氏族の一つ。科野国造の後裔である。出自は多氏。氏姓は金刺舎人。本貫は信濃国小県郡、水内郡、伊那郡、諏訪郡等。

科野国造(しなぬのくにのみやつこ、しなぬこくぞう、しなののくにのみやつこ、しなのこくぞう)は、のちに信濃国となる地域(科野国北部)を支配した国造である。

祖先[編集]

  • 『古事記』(中巻)によれば、神武天皇(初代天皇)の皇子の神八井耳命が科野国造などの祖であるという。
  • 『先代旧事本紀』の「国造本紀」によれば、崇神天皇(第10代天皇)の時代に神八井耳命の4世孫の建五百建命(たけいおたつ の みこと)が初代科野国造(または神野国造。)に任命されたという。
  • 建五百建命建御名方神の御子神出早雄命の娘会津比売命を娶ったとの伝承がある。

氏神[編集]

旧諏訪郡にあり信濃国一宮の諏訪大社(すわたいしゃ)か。下社の大祝は科野国造の後裔金刺氏がつとめたが、諏訪氏との抗争後に滅ぼされたため同族の武居氏が明治維新までつとめていた。ただし多氏は皇別氏族であるため、本来の国造の氏神は皇祖神である生島足島神社であるともされる[私注 1]

私的考察[編集]

複数の高名な先祖がいるため、何を持って「氏神」とするのかが疑問である。須須岐水神社の境内内にある祝神社の建五百建命、健御名方富命彦神別神社(長野市信州新町)の相殿の神八井耳命、健御名方富命彦神別神社(飯山市)の相殿の麻背命などは明確に公式な「氏神」といえると思う。

尾張神社(長野市)の祭神である彦八井耳命も可能性があると考える。尾張神社のある尾張部の地名は平安時代にこの地にあったという尾張部郷がもとになっており、郷名は大和国の高尾張氏が住んだことに由来するという[1]。管理人の考えでは、高尾張氏の入植は平安時代よりも古い時代に行われ、記紀神話とは異なり、「高尾張氏の祖神は彦八井耳命である。」という伝承があったのではないか、と思う。尾張氏の起源と共に興味深いことと思う。

また、神八井耳命、彦八井耳命は綏靖天皇の妻や母の家系から賀茂氏(三輪系など)の血を引いているとされており、賀茂系の神、特に玉依姫などは「氏神」とし得ると考える(→鴨建角身命、参照のこと)。


諏訪大社下社の八坂刀売との関連であるが、八坂刀売とは金刺氏が信濃国に移った後に作り出した、豊玉毘売伊邪那美命を元にした女神ではないか、と個人的に思う。諏訪湖周辺には微妙な「浦島伝説」のようなものがあり、民間伝承の乙姫に相当するものが八坂刀売ではないか、と思う。上社の方は、本来建御名方富命と下照媛(あるいは興萩命と下照媛)を祀っていたのではないか、と個人的には考えている。本来の諏訪大社は上社と下社で全く異なる系統であり、別々の神を祀っていたものではないのだろうか、と考える。

概要[編集]

金刺舎人氏(かなさしのとねりうじ、姓は無し)あるいは他田舎人氏(おさたのとねりうじ、姓は無し)。神武天皇の子・神八井耳命の子孫である多氏(おおうじ)と同系であり、(一応)皇別氏族としては最古級に属する氏族。その一部は朝鮮半島で倭人系百済官僚として活動する者もいた可能性がある[2]。金刺舎人氏はのちに宿禰の姓を賜っている。金刺舎人氏と他田舎人氏は信濃国全体に広がりを見せ、律令制移行後も小県郡伊那郡などの郡領を務めた。

『古事記』の国譲り神話の部分にのみ登場する建御名方神について、『諏訪市史』では、科野国造の後裔である金刺氏が、始祖(神八井耳命)を同じくする系譜を持つ太安万侶に働きかけ、建御名方神についての神話を挿入させたとする[3]

金刺氏(多氏)の由来は、河内長野の源流とされる藤井寺市の一角で、物部目大連の土地でかつ志紀県主がおさめていた場所、ひいては奈良の磯城郡と金刺氏との関連を指摘し、魏の司空王(永辺に日)を祖とする忠意の後裔とする渡来人集団で朝鮮半島を出自とし、河川工事の技術集団であって、物部氏の配下であって信濃国に進出したのではないか、という説があるようである[4][私注 2](ただし、管理人は金刺氏は水稲耕作における信濃国開拓の最古族でもあると考えるため、遅くとも弥生中期、早ければ弥生前期には長野県に到達していたと考える。彼らの固有の伝承は記紀神話よりも古いと考える。そのため、6世紀頃の渡来人であるとは考えていない。後述するが、金刺氏は朝鮮半島の文化と連続性のあるヒョウタン信仰・北斗信仰を有していた形跡があり、百済の朝廷に出仕していたようである。新羅には倭人の瓠公の伝承がある。管理人の想像では金刺氏の先祖は朝鮮半島南部で、安定した政府のない地域、日本の歴史的には任那と呼ばれる地域におり、そこから紀元前2世紀頃より日本列島に侵入し、侵略、定住、開拓を繰り返しながら次第に日本に拠点を置くようになったものなのではないだろうか。そのため、朝鮮半島とのつながりが深く、半島の国家にも出仕者がいたものと想像する。)

『新撰姓氏録』では、河内国皇別尾張部は彦八井耳命の後、とあるとのことなので、長野市尾張部の尾張氏は河内国出身であることが示唆される[5]。ただし、河内国の尾張氏のみを特別に日子八井命の後裔とする理由はないので、これは尾張氏、ひいては物部氏、海部氏等、邇芸速日あるいは天火明命の子孫とされる氏族にまで拡大するとすると、これらの氏族は全て同族である、といえることになると考える。

金刺氏は磯城島金刺宮朝に遷都した欽明天皇に、御名代・舎人として出仕し、宮名の一部である「金刺」を自分達の氏の名前に負ったと考えられている[6]

「創作された神」であると考えられる建御名方神が、本来の諏訪における神(『日本書紀』持統天皇紀に見える水神としての「須波神」)に代わって信仰を集めるようになった理由を、6世紀に欽明天皇に仕え氏族として成立した金刺舎人氏が、6世紀後半に諏訪を支配するようになって以降、守矢氏と共同で祭祀を行ない、その地位を高め、それを示すのが建御名方神の神階昇叙であると仮定した[6][私注 3]。加えて、金刺舎人氏は多氏と同族であり、太安万侶を通じて『古事記』に建御名方神の神話を書かせ、壬申の乱で騎兵を率いた多品治も、信濃国で馬を飼育していた金刺舎人氏と接近し、朝廷と金刺舎人氏を結びつける役割を担ったという[6]

奈良時代から平安時代初期の信濃の地方政治は、金刺部舎人氏や他田部舎人氏の活動を中心に繰り広げられたと見られ、伊那・諏訪・筑摩・水内・埴科・小県の各郡の郡司を占める。信濃の郡司を代表する人物に伊那郡大領金刺舎人八麻呂がいる。郡司の子弟として平城京に出仕していた際に藤原仲麻呂の乱(764年)が起こり、孝謙上皇の側で乱の鎮圧に功績が認められたと見られ翌年に外従五位下・勲六等の位が与えられた。また伊那郡の郡司は信濃国内に置かれた内厩寮直轄の御牧全体を統括する責任者(牧主当)でもあった。伊那郡や諏訪郡には、信濃国の御牧16牧のうち5牧があり、御牧が南信地域に多く置かれていたことがわかる。文献の面では、少なくとも奈良時代末期から金刺舎人氏が、馬によって中央との関係を持っていたことが知られている。金刺氏と馬は切り離し難い関係にあり、彼らが中央他のつながりを持つ際の手段の一つであったと考えられている[6]

また、金刺氏のうち、水内郡の郡司となった一族は、善光寺の創建に関わっており、水内郡南半の、裾花川沿いの芋井郷(現在の長野市南俣や上高田周辺)を拠点にしたとする説がある[7]

貞観4年(862年)には信濃国埴科郡大領金刺舎人正長が小県郡権少領他田舎人藤雄と共に外従五位下に叙された。翌年には右近衛将監金刺舎人貞長が太朝臣への改姓が許され、その弟貞継は八色の姓で宿禰を賜与された。さらに貞長は、翌年には長田(他田)直利世と共に外従五位下に序され、3年後には三河の介に任ぜられている。しかし、彼らの名はその後諏訪大社特に下社神官として残り政治の舞台からは遠のく。屋代木簡の中には5月20日の日付で稲取人である金刺舎人若麿らに対して埴科郡家の正倉]から20束の稲を貸し与えた記述の物がある。

元慶3年(879年)に太皇太后の近侍として従五位下に叙された太朝臣平子は、「多朝臣」ではなく「太朝臣」であることから、太(金刺)貞長の一族であったと考えられる[8]

人物[編集]

信濃国の金刺氏・金刺部[9]
  • 伊那郡
    • 金刺舎人八麻呂
      大領、信濃国牧主当、外従五位下勲六等、奈良時代の豪族。藤原仲麻呂の乱で活躍した。外従五位下。
  • 諏訪郡
    • 金刺舎人貞長
      右近衛将監、正六位上、 平安時の豪族。参河介。大朝臣姓を賜った。外従五位下。
  • 水内郡
    • 金刺舎人連若嶋
      女嬬、正七位下、外従五位下、従五位下、奈良時代の女性。女嬬。外従五位下に叙せられ、姓を賜った。
  • 埴科郡
    • 金刺舎人正長:平安時代の豪族。埴科郡大領。外従五位下。
      大領、外従七位上、借外従七位上
    • 金刺舎人真清
    • 金刺舎人小尼
    • 金刺舎人(欠名)
    • 金刺部若侶
    • 金刺部富止
    • 金刺部(欠名)

倭系百済官僚[編集]

科野の氏を持つ倭系百済官僚。科野国造軍として朝鮮に出兵した国造の子弟が、現地人の妻との間に残した子孫であるとされる[10]。ただし、「物部莫奇武連」「紀臣奈率彌麻沙」のような他の倭系百済官人とは異なり、姓を有している様子が見られないので、ここでの「シナノ氏」は「科野国造の一族」という意味ではなく、氏姓制度が成立する以前に朝鮮に渡った信濃の人間が「シナノの人の〇〇」といったニュアンスで呼ばれていた(=シナノは氏ではない)とする説も存在する[6]。信濃の人間が外交に従事したのは、ヤマト王権内で信濃の人間が一定の役割を担っており、そのようになったのは、渡来人によって信濃に軍事行動の要である馬の文化が伝えられたからであると考えられる[11]

  • 斯那奴阿比多(しなぬ(の)あひた)
    継体天皇紀、欽明天皇紀に登場する百済の使者。小林敏男は、「科野」の地名が「シナ(段差)」に由来する説を取った上で、シナノという地名の発生地を埴科・更科エリアであるとし、斯那奴阿比多は更埴エリア出身の人物であるとした[12]
  • 斯那奴次酒(しなぬ(の)しす、科野次酒)
    欽明天皇紀に登場する百済の上部德率、施德、内臣德率。
  • 科野新羅(しなぬ(の)しらき)
    欽明天皇紀に登場する百済の上部奈率。

科野氏[13][6][編集]

  • 科野友麻呂
    奈良時代の豪族。百済系の帰化人で、天平宝字五年に清田造姓を賜る。
  • 科野石弓
    奈良時代の豪族。百済系の帰化人で、天平神護二年に従七位上で石橋連姓を賜る。
  • 科野虫麻呂
    天平宝字2年(758年)9月に東寺写経所から布施布を受け(このとき白丁であった)、同3年には前春宮舎人・少初位下となり、同6年2月には石山院大般若経所に召され、翌月には大舎人・少初位下となった。後に左大舎人ともなっており、天平神護元年(765年)には45歳であったという[2]
  • 信濃浜足
    奈良時代の豪族。天平15年(743年)5〜9月に写疏所書生として写経に従事した[2]

他田氏[編集]

  • 他田国麻呂
    奈良時代の豪族。筑摩郡大領。他田大島の子。
  • 他田藤雄
    奈良時代の豪族。小県郡権少領。外従五位下。
  • 他田大島
    奈良時代の豪族。防人を統べる国造丁。万葉集所収の防人歌を詠んだ。
  • 他田千世売
    奈良時代の女性。爵2級を賜った。
  • 他田真樹
    平安時代の豪族。小県郡郡司。平貞盛と平将門が信濃国分寺付近で戦った際に戦死。

若麻績部君氏[編集]

本田善光は推古天皇8年-10年(600年-602年)に信濃国司の供として大和国の京に上る。その際、難波の堀江(現在の大阪市西区北堀江にある和光寺の阿弥陀池)にて、厄落としとして打ち捨てられた尊仏を発見し、安置したい旨を朝廷に願い出て勅許を蒙り、尊仏を信濃国伊那郡若麻績里の自宅の臼の上に安置したところ、臼が燦然と光を放ったことからここを坐光寺としたとされる。皇極天皇3年(644年)、善光寺の所在地となる信濃(科野国)水内郡芋井郷に尊仏を奉り、寺院建立の勅を蒙りて伽藍を建立。本田善光の子孫が若麻績氏である、と言われている。

善光寺は飯田、諏訪、長野と転々とした、と言われている。善光寺が移された土地はいずれも金刺氏の拠点である。若麻績氏は金刺氏の一派と管理人は考える。若麻績氏が金刺氏とは別の氏族であれば、善光寺には金刺氏の祖神の一つと思われる彦神別神の他に若麻績氏の祖神が祀られていて当然ではないだろうか。

以下のような説もある。

善光寺に関与した若麻績部君氏は毛野氏族に出て、諏訪氏族や科野国造族とは別系である。善光寺別当初代の若麻績部君東人(いわゆる誉田善光)は水内郡誉田里の住人と伝えるが、東人からの略系は伝わっている(『善光寺史研究』に所載の「善光寺本願系図」)。この別当家は九世紀頃に毛野同族の丈部氏に男系が変わり、十二世紀中葉には清和源氏の崇徳院判官代村上為国の子息を婿に迎えて栗田氏を称し、善光寺と戸隠の両別当を世襲した。  若麻績部君氏の先祖がどのように上毛野君から分れたのかは不明であり(毛野氏族の系譜の中でどのように位置づけるのかは不明)、諏訪氏や科野国造一族との関係も不明である。ただ、上毛野君氏の実系は、崇神天皇の後裔という皇別ではなく、海神族系の三輪氏族からの分岐であるから、諏訪氏族に通じるものがあり、『善光寺縁起』によると、大和三輪出身の三輪時丸が善光寺に参詣して、そのままこの地に止まったということで、当地を三輪と称したとも伝える事情にもある[14]

若麻績氏が三輪氏系の氏族であれば、三輪山の大物主は神武天皇の舅(外戚)とされており、綏靖天皇の子供達からは曾祖父にあたる。ここから三輪氏系の氏族と皇姓とされる金刺氏が発生したとされており、彼らの実在性はともかくとして、金刺氏と若麻績氏が血族であることが示唆されるといえる。若麻績東人の出身である伊那郡若麻績里、善光寺がある水内群芋井はいずれも金刺氏の拠点があった地域である。若麻績氏は金刺氏の近縁あるいは側近といえるような氏族だったのではないだろうか。そしてどちらも大物主の配偶神から賀茂系の氏族へと繋がるの可能性がある。

若麻績氏はその名の遠り、麻に関する氏族と考える。筑摩郡には伊勢神宮の麻績御厨が置かれ、伊勢神宮に麻を供給していた。飯田市座光寺は古代における伊那郡麻続郷(麻績)で、麻の生産地だったと考えられている。座光寺には、高岡第1号古墳(6世紀前半築造)があり、古墳時代から馬の管理によって古代国家を支えていた有力な豪族がいた地域である[15]

現在、善光寺には宿坊を含めた40近い支院が存在し、その内の約15ほどの寺院の住職が若麻績姓である[16]

善光寺の御越年式は「堂童子行事」と呼ばれ、古来より善光寺三寺の中衆(浄土宗十五坊)が行ってきた。『堂童子絵巻』には

開基善光卿以来若麻績氏が専任する香華、燈明、仏餉、茶湯等、檀越として如来に奉仕し来る所の常随給仕の当番役を云ふ。御越年の式は十二月二の申日の夜丑の刻に執り行ハるる祭事にして、祭式ハ若麻績家に相伝せらるる秘事にして、家督相続者のみに直伝相承せらるるもの。[17]

とあるとのことである。白麻で仕立てられた狩衣型の衣に、白麻の括り長頭巾を着用するとのこと(長野県民族資料調査報告書7『善光寺正月行事』)。祭祀の相続者は古くから、他から養子を迎え入れず、中衆間の往来に限られる血統相続が厳しく守られている、とのことで、堂童子行事は善光寺草創の時代までさかのぼって伝承されている、創建者一族にとって重要な行事といえる。

伝承によれば「諏訪大社の縁起には「諏訪神が丑三時に善光寺に舞い降りて、本堂裏の扉を開けて入り、仏に仕えて後、明け方帰っていく」と御越年式と関連する話が伝わってるとのこと。若麻績氏の祭祀に諏訪大社が関わっている、とみなされていることが分かる。また、『信濃奇勝録』には、本堂の後に立つ年越宮は八幡宮を祀ると云うとし、「毎年十二月申日夜半に遷宮あり、俗説に八幡宮は本地阿弥陀如来にて此夜は如来八幡宮となりて年をとらせ給ふと云伝ふ、中衆十五坊の内、二坊は臈僧とて除き、十三坊にて輪番に此事を勤む、是をドウドウシと云」とあるとのこと。駒形嶽駒弓神社には、如来八幡は「聖徳太子の馬」に乗って市中を巡った、とあるので、古い順に彦神別神、聖徳太子(黒馬)、八幡神を複合的に阿弥陀如来と習合させて善光寺の本尊、いわゆる「御年神」とみなしていたことが分かる[18]。馬や牛を主体とした伝承がある点は、善光寺が渡来系の氏族によって建立されたことを窺わせる。

越年式で堂童子(祭祀者)は『諸仏諸神の降臨を願い、天下泰平、諸人安全長久、五穀豊年、火難九難除滅などを古例にのっとり祈願する。』とのことで、来るべき新年の幸いを祈願することが越年式の目的といえる。

私的考察・堂童子について[編集]

中国の星神信仰に「北斗星君」と「南斗星君」というものがある。道教では、この2神は一対とされ、「北斗星君」は死を、「南斗星君」は生を司るとされた。また、生と死を司る二人が許可すれば、人の寿命を延ばせるとも云われた。要は「不老不死」に通じる思想である。

また、北斗七星は柄杓の形をしていることから、瓢箪(の柄杓)の神である伏羲と関連づけられ、農業の豊穣をもたらす、とも考えられていた。更埴条里遺跡・屋代遺跡群からはヒョウタンで作った杓が発見された、とのことで、金刺氏は農業の豊穣を願うために北斗七星(伏羲)に対する祭祀を行っていた可能性があるように思う。また北斗七星は道教で天皇大帝とも呼ばれ、中国の皇帝や日本の天皇は北斗七星の化身として、国家に豊穣をもたらす王権者を称していたようである。

堂童子の祭祀は白い麻の衣をまとって行われ、麻の神の化身(植物神の化身)であると共に、白で現される星神の化身を思わせる。秘儀であって人目に触れることのない点は「隠れた星(黒星)」を思わせる[私注 4]。善光寺の延べる「御年神」とは「彦神別神」のことであり、北斗七星のことではないだろうか[私注 5]。北斗七星こそが翌年の天下泰平や五穀豊穣をもたらしてくれるし、年に1度、そのために地上に降り立ってくれる、と考えられていたのかもしれない。文明が発達してきたので、更埴条里遺跡・屋代遺跡群の時代に比べて、織物の材料となる麻も重要な植物と考えられるようになったのではないだろうか。そして、地上に降り立った「彦神別神」が「白星」であるとするならば、彼の乗る「黒馬」は「黒星」の化身といえるのではないか。

一方、「彦神別神」と共に祀られている大宜都比売は、金星(太白)のことを指すのではないか、と思う。中国では金星に相当するのは九天玄女という女神なのだが、「黒」に象徴される女神で、黄帝の守護神であり軍神でもある。特に天下太平を彼女に求めても不思議ではない。また、大宜都比売は「蚕の女神」としても盛んに信仰されていたとのことなので、馬頭娘の故事の通り、「蚕(馬頭の虫)の母」である馬の女神としての意もあったかもしれない、と思う。九天玄女も絹の豊穣に関する織女西王母信仰に関連し、西王母の化身といえるので、大宜都比売西王母九天玄女の化身であって、かつ「豊穣のための人身御供として殺される女神(織女あるいは馬頭娘」として祀られていたと考える。善光寺の御年神の中には聖徳太子も含まれ、上宮王家の非業の最期を考えれば、善光寺には「非業の死を迎えた人」を祀る側面があるように思う。日本的な仏教には「死者を供養する」という性質が強いのでこれは特に異なこととはいえない。そして、神式でいえば御霊信仰といえると思うので、善光寺の古い性質としては、御霊信仰と死者の供養が組み合わされ、その象徴ともいえる彦神別神と大宜都比売を「御年神」として、天下太平・五穀豊穣を願う場だった、といえるのではないだろうか。特に麻(彦神別神)、絹(大宜都比売)、馬(黒駒)の豊穣が強調されて、「奥の院」と越年祭の神話は作られているのではないか、と思われる。その3つが善光寺が成立した時代、古墳時代から奈良時代にかけて善光寺平や信濃国で重要な産業であったからだと考える。

また、記紀神話的側面から見れば、大宜都比売を殺す植物神とは杉の木の神である須佐之男命である。とすれば、彦神別神は須佐之男命(杉)を彦神別神(麻)とトーテムの植物を変えただけの神であって、事実上須佐之男命と同じ神であるといえる。そこで、彦神別神(麻)と須佐之男命の子神である年神と「同じもの」として祀り、祭祀を行っているのが善光寺なのではないだろうか。そしてこのように「北斗七星」と「金星(喰われ殺される金星)」を組み合わせて祀るのが、中部日本で特にみられる「天白信仰」であると考える。これは中国的な天狗(中国)と喰われ殺される嫦娥に対する信仰ともいえる。嫦娥は月の女神として有名であるが、彼女もまた西王母の化身といえるので金星(太白)も彼女のトーテムであっても矛盾はしない。天狗(中国)は中国の伝承では嫦娥の飼い犬で、かつ月食を起こす犬のように現されるが、世界各地の神話と比較すると、月食を起こすイヌ科の神獣はで表されることが多く、殺された蚩尤の化身のように表される話も多い。また、天狗(中国)の母も犬(あるいは狼)神として表されることも多い。善光寺の御年神は彦神別神や八幡神といった「子神」で表される傾向が強いので、嫦娥的女神の子神として考えられていると推察する。すなわち、大宜都比売とその子神の彦神別神を祀るのが善光寺信仰であり、堂童子であると考える。


つまり、堂童子の祭祀は、更埴条里遺跡・屋代遺跡群の北斗七星信仰を受け継ぐものであると同時に大宜都比売とその子神の彦神別神、要は塗山氏女嫦娥)とその子のに対する祭祀であって、祭祀者である若麻績氏は金刺氏の同族と思われ、金刺氏は自分達のことを更埴条里遺跡・屋代遺跡群の時代から、高陽氏・高辛氏の子孫と考えていた渡来系の人々であるし、朝鮮半島の国家に出仕者を出せる、という点は、それなりの家柄の氏族であると、当時の朝鮮の人々にも考えられていたからではないのか、というのが管理人の考えである。大宜都比売は諏訪信仰的にいえば八坂刀売と同一の女神であるといえるかもしれない。八坂刀売は「殺される女神」ではないが、「蚕の母」としている神社もごく一部にはある。ただ、善光寺では記紀神話にも採用された公式な「蚕の母」である大宜都比売の方を蚕神として採用したのであろう。

そして、ということは、須佐之男命、彦神別神などは一群の「北斗七星」と考えられる神々である、と管理人は考える。

平安時代以降[編集]

手塚氏[編集]

手塚光盛(てづか みつもり、? - 寿永3年(1184年))は、平安時代末期の武将。諏訪神社下社の祝部である金刺氏の一族。手塚別当の子(甥とも)。兄に金刺盛澄がいる。通称は太郎。兄の金刺盛澄は諏訪大社下宮の神官だった。金刺盛澄は義仲の討伐後、源頼朝によって捕縛され、梶原景時に預けられ、その後赦免された。諏訪大社に伝わる伝承では義仲は一時期、下社の宮司である金刺盛澄に預けられて修行したといわれている。また、『諏訪大明神画詞』によれば、金刺盛澄は義仲を婿にしたという[19]

『源平盛衰記』では信濃国諏訪郡の住人と記されている。近年の研究では、居館跡や流鏑馬の遺構・光盛の菩提を弔った五輪塔や寺跡など手塚氏関連のものが多数残されている点、山梨県の大善寺に所蔵される三枝氏系図などにより、光盛をはじめとする手塚氏は上田市の手塚地区を本拠としていたと推定される[20]。しかしながら、現代において、上田市手塚地区に手塚姓の家系は存在しない。 石川県加賀市手塚町は手塚太郎光盛に因んで手塚町と付けられている。

手塚地区に手塚姓の家系はなくても上田市には手塚姓がある。木曽義仲の残党が隠れ住んだ、と言われている長野市信州新町にも手塚姓がある(ただし、光盛との関連性は不明)。大阪府の手塚姓には「手塚光盛の子孫である」という伝承があるようである。漫画家の手塚治虫が有名である。

木曽中原氏[編集]

木曽中原氏(なかはらうじ)は、平安時代末期、信濃国木曽(長野県木曽郡)の豪族だった氏(うじ)[21]。この中原兼遠は旭将軍源義仲(木曽義仲)の養父となった。義仲が数え3歳の時に義仲を庇護して信濃国(長野県)に遁走したという記録がある[22]。木曽中原氏は鎌倉時代の軍記物語に多く現れ、『平家物語』を初め、『保元物語』『平治物語』『源平盛衰記』などで言及される[23]。軍記物語では、兼遠の娘とされる巴御前という登場人物が、義仲寵姫の女武者として巷間に名高い。中原兼遠の兄とされることもある木曾中太も、登場人物として著名である。出自については、金刺氏後裔説や、諏訪神党説などがある[24]。中原兼遠の次男・樋口兼光、四男・今井兼平も有名である。

管理人は個人的に木曽義仲との距離の近さ、下諏訪に近い岡谷に今井姓が存在すること、諏訪に近い木曽に拠点を持つ豪族であることから、中原氏は金刺氏後裔と考えている。

信濃今井氏[編集]

金刺部姓諏訪氏一門。信濃国諏訪郡今井郷[25]、あるいは佐久郡今井郷[26]を拠点とした[27]。今井兼平の子孫を称する今井氏は長野市鬼無里、長野市篠ノ井、上田市、岡谷市、岐阜県高山市、新潟県長岡市、群馬県渋川市など広範囲に存在する。

上野今井氏[編集]

  • 伝承:第3代安寧天皇(先祖)- 磯城津彦命(皇子)- 中原朝臣(始祖)- 十市有象=中原有象(後裔)- 十市以忠=中原以忠(有象の弟)- 中原兼経(以忠の子)- 中原兼遠(兼経の子)- 今井兼平(兼遠の子)

信濃国木曽(長野県木曽)の中原氏一族と伝えられる。文献によると、元暦元年(1184年)の粟津の戦いで源義仲(木曾義仲)が戦死すると家臣であった今井兼平の次男今井兼之・ 高梨氏・楯氏・根井氏・町田・小野沢・萩原・串渕・諸田等が義仲と巴御前の子である三男木曾義基を匿い、群馬県渋川市北橘村箱田に落ち延びたとされる。義仲の崇敬社である岡田神社、沙田神社、阿禮神社の分霊を勧請し木曾三社神社・木曾三柱神社を創建。箱田に住居を構えたことが始まりとされる[28][29]。のちに箱田城を自ら築城し箱田地衆(国衆)として活動するが、戦国時代に入り有[大名である白井長尾家、上杉氏、武田氏、北条氏、酒井氏、松平氏に仕えた[30][31]

武居氏・武井氏[編集]

手塚光盛の子の光家は武居大祝になったと伝え、その子の重晴は木曽御獄山禰宜となったといわれる[32]

代々諏訪大社下社大祝職を継いできた金刺氏であったが、戦国時代末期に至って上社との抗争の末に断絶となった。その後、支族の今井氏が入って武居祝と称し祭祀を継承したが、大祝を名乗ることはなかった[33]。長野市には武井神社があり、善光寺四社の内の一つである。主祭神は建御名方命、相殿に前八坂刀売命・彦神別神を祀り、下社系の神社と思われる。

御嶽神社里社本社(黒沢口)は『古くは諏訪大社の神職が年番で奉仕していたが、徳治二年(1307)、木曽義信が諏訪大社下社の武居祝の次男、宮内少輔重晴を招き、以来、その子孫により奉祀されているようだ』とのことである[34]。義仲の子孫と言われる木曽氏と下社との深いつながりが窺える。

齋藤氏[編集]

弥栄神社(長野市上西之門町)の宮司さんの家系は、長野に住む最古の一族「金刺氏」の末裔といわれている[35]

金刺部[編集]

起源は、部民制における名代の一つである金刺部にあるとされる。金刺部は欽明天皇の皇居であった磯城嶋金刺宮に由来し、その資用に充てられた料地等の管理に従事した人々である。

金刺舎人・金刺部の分布とその理由[編集]

金刺舎人や金刺部は、伊豆国の一例を除いて信濃国と駿河国に集中している。信濃と駿河は、古墳などからの馬具の出土例が集中する地域であり、馬の繁殖や育成を行うということは、ただ馬を朝廷に供給するというだけではなく、武装騎乗する騎馬兵力を供給するということでもある。舎人という職業やその性格を踏まえれば、6世紀中頃のヤマト王権は、政治機構を整えていく中で、信濃や駿河の馬の生産を掌握し、騎馬兵力を構成しうる地域の首長を舎人として体制内に編成したと考えられる[36]

これに対して、他田舎人や他田部は金刺よりも広範囲に分布しているが、これは、6世紀後半にはヤマト王権による編成の対象となる首長がより多くの地域に広がったことを表している。ただし、「他田舎人」という氏姓を有する人物は、若狭国の一例を除いて金刺舎人のように信濃と駿河に分布しており、他田舎人として編成された信濃や駿河の首長も、金刺舎人として編成された首長等と基本的に同様の目的で編成されていたと考えられる[36]

信濃に当時存在したのは中小首長達であったが、彼らがヤマト王権に編成されたのは、磐井の乱というヤマト王権の体制に関わる事件が発生したことによって、より強固な政治機構の整備が必要とされたことと、6世紀後半には、鉄製農具や新しい農業技術の流入や普及による農業生産力の発展によって、世帯共同体の成立が相次いでいたことが、大室古墳群のような群集墳が増えていることからわかり、従来からの中小首長(後の金刺舎人や他田舎人)に動揺を与え、そのために中小首長はヤマト王権の職制に組み込まれ、支配の正統性を主張し、その強化を図ったと考えられる。そして、同じ職制に組み込まれたことによって、それぞれの中小首長が同じ「金刺舎人」や「他田舎人」という擬似的な同族関係が生じるようになった[36][私注 6]

本拠[編集]

国造の本拠は諸説あるが、小林敏男は、「科野」の地名が「シナ(段差)」に由来する説を取った上で、シナノという地名の発生地を埴科・更科エリアであるとし、「斯那奴阿比多」という科野国造と思しき人物が『日本書紀』継体天皇条に見えることから、本拠地は埴科・更科エリアを中心とした水内郡・小県郡を含んだ善光寺平と上田盆地であるとした[12]。あるいは信濃国小県郡[37] で、現在の長野県小県郡[37]のみであるとする説もある。『和名類聚抄』によれば小県郡には安宗郷(あそ-)という郷があったといい、現在も上田市古安曽(こあそ)に安曽神社が存在する。これらは、初代科野国造建五百建命のもとの居住地である九州の阿蘇(あそ)と同音である。ただし「蘇」は「ソ」(甲類)であることに対し、「曽」は「ソ」(乙類)であるため、上代特殊仮名遣においては別音である。また、阿蘇氏が小県郡に至る過程が全く他の地域の地名や歴史に表れておらず、小県郡以外にも、備中国、出羽国、播磨国にアソ郷が存在しており、神功皇后の弟の息長日子王が播磨国の阿宗君の祖となっていることから、無関係であると考えられる[12]。旧安宗郷内には、科野国造が勧請したものと推察される[38]生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ、上田市下之郷)があり、その付近が科野国造の治所に比定されている[38]。また埴科古墳群の所在から更埴地域を国造の本拠とする見方もある[39]

また、のちの信濃国埴科郡更級郡の「しな」は、科野の「しな」と同じである。

私的考察[編集]

管理人のフィールドワークの結果、信濃国府が置かれていた、と言われる上田市近傍に古くからの金刺氏の痕跡があるように思う。上田市近辺からは千曲側沿いを川下に下って長野市に至る道、生島足島神社の側らを通って松本に至る道、長和町を通って諏訪に至る道など、長野県の各地域に向かう道があり、古来より現在の幹線となる道が整備されていたように感じる。おそらく金刺氏を中心とした一団は碓氷峠を越えて長野県に侵入し、最初に開拓した地域を「佐久(開く、の意)」と名づけ、上田付近に拠点を置いたものと考える。

善光寺の創建に関わった一派は、上田から川下に向かい、まずは現在の更埴市にある森将軍塚古墳付近に拠点を置き、そこから更に川下の善光寺平らに入ったものではないかと思う。長野市篠ノ井には会津比売命にちなんだと思われる「海津」という地名がある。

私的考察・金刺氏の拡がり[編集]

「科野」という言葉にあるように、金刺氏が関わった土地には「科」という地名がついていることが多いように思う。

群馬県には辛科神社という神社があり、須佐之男命と五十猛神を祀る。

岐阜県には阿夫志奈神社(あぶしなじんじゃ)という神社があり、現在は伊邪那岐大神、伊邪那美大神、素盞嗚尊が主祭神である。4月13~14日にかけて行われる例祭には蠅追男(猿田彦命を表しているという)が榊を手に持って子どもたちを追い回し、背中をたたくとその1年は無病息災といわれている。境内末社には乙姫神社があり、中部地方に盛んであった「常世信仰」が波及していたことが示唆される。

山梨県山梨市には倉科という地名がある。

これらのことから、古代における金刺氏の広がりは信濃国の国境が制定された範囲よりも広範囲であったことが窺われる。また、これらの地名は賀茂氏の活動範囲とも重なっており、金刺氏が賀茂氏の一派である根拠ともなる、と管理人は考える。

支配領域[編集]

科野国造の支配領域は当時科野国と呼ばれていた地域、後の令制国の信濃国全域である。

元は「しなぬ」であったが、のちに訓が「しなの」に変わり、さらに「科野」の字が当てられた。『古事記』には、大国主神の子建御名方神が諏訪に入国する際に、「科野国の洲羽海」に至ると記される。『日本書紀』には、欽明天皇14年(553年)に百済が朝廷に遣じた使者として上部徳率科野次酒[40]、上部奈率科野新羅[41] の名があり、正史における「科野」の初見は6世紀の半ばである。

神代、出雲の国譲りに反対していた大国主神の長男建御名方神が大和方の建御雷神と相撲をとって敗れ、助命されて科野国諏訪郡に住まわされたと伝わる。その地には諏訪神社が建立され、信濃国一の宮の格式を誇り武芸と開拓の神として尊崇を集めた。

古墳時代の前方後方墳は、弘法山古墳(松本市)や姫塚古墳(長野市)、瀧の峯古墳群(佐久市)など長野県内各所で発見されており、時期については概ね古墳時代前期(4世紀始めから中葉)のほぼ同時期とされている。その後前方後円墳が県内各所に築造され、特に長野市南部から千曲市北部にかけての一帯には、森将軍塚古墳や川柳将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳など県内最大級の前方後円墳が集中している。古墳時代後期には高井郡を中心に高句麗式の積石墳が多数分布する。

弥生時代から古墳時代にかけての科野は、更級・埴科を中心とした千曲川流域であり、県内最大の前方後円墳で科野の大王の墳墓と目されている森将軍塚古墳を筆頭とした埴科古墳群が残されている現在の千曲市(旧更埴市)から川柳将軍塚古墳のある長野市南部(旧更級郡)にかけての一帯が中心(科野国造)であったとされる[42]。系図には六世紀に麻背が科野国造に復したと見え、この任命記事は国造本拠地の移動と考えられ、前方後円墳の中心地が長野盆地(善光寺平)から飯田盆地へ移ったことと軌を一にしている[43][私注 7]

科野国は7世紀に令制国の信濃国となった。令制国造としては延喜14年(914年)の時点で国造田[44]を六町支給されている(『別聚符宣抄』所収 太政官符)。

関連遺跡[編集]

管理人が関連があると推察している遺跡[編集]

  • 更埴条里遺跡・屋代遺跡群(長野県千曲市):弥生時代の水田や水路が確認されている[45]ヒョウタンで作った杓が発見され、祭祀で使用されていた形跡があるのではないか。ヒョウタンで作られた杓は北斗七星とも関連づけられ、大地を潤す農耕の神のシンボルでもあった。また、この思想は西王母信仰あるいは伏羲信仰と関連しており、渡来系氏族と思われる金刺氏の文化としても矛盾しないように感じる。千曲市には須須岐水神社や森将軍塚古墳があり、古来より金刺氏の重要な拠点の一つである。
  • 浅川端遺跡(長野県長野市):弥生中期~後期にかけても含まれる。遺跡内の竪穴住居跡からは、馬形帯鉤(うまがたたいこう)が出土した。高さ6・7センチ、幅9・2センチ、重さ40グラム。帯鉤は、中国や朝鮮半島で使われたベルトを留めるための金具(バックル)で、日本では古墳から見つかった例はあるが、住居跡ではないという[46]

関連神社[編集]

  • 善光寺七社(妻科神社、武井神社、湯福神社、柳原神社、木留神社、加茂神社、美和神社。内、最初の三社(妻科、武井、湯福)は善光寺三鎮守と呼ばれている。)
  • 諏訪大社下社
    金刺氏が社家を務めた神社。(金刺氏の系図では上社諏訪氏も金刺氏から出たことになっている[私注 8]。)
  • 科野大宮社(しなのおおみやしゃ)
    長野県上田市(旧小県郡)にある神社。信濃国総社(異説あり)。初代科野国造の武五百建命によって創建されたと伝わる。
  • 生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)
    生島神と足島神は皇室にも所縁の深い神であり、神八井耳命の後裔たる科野国造家が北信に定着したことを示しているとも考えられる[47]。また本来の国造奉斎社か。
  • 祝神社(はふりじんじゃ)
    長野県長野市に鎮座する神社。生島神と同神と考えられる生魂命を祀る。
  • 玉依比賣命神社(たまよりひめのみことじんじゃ)
    長野県長野市に鎮座する神社。神武天皇の母親である玉依比賣命を祀る。
  • 須須岐水神社
    長野県千曲市に鎮座する神社。境内社の祝神社に武五百建命を祀る。
  • 雨宮坐日吉神社(あめのみやいますひよしじんじゃ)
    長野県千曲市に鎮座する神社。『長野県町村誌』によると「金刺大領」の館跡という伝承が地元にあったようである。現在の祭神は大己貴命、大山咋命である。かつては地名も含めて「天ノ宮」と呼ばれていたが後に「雨宮」に改められた、とのことである[48][49]。雨宮の神事芸能は同社の祈年祭として行われるもので「雨宮の御神事」「獅子踊り」とも呼ばれる。起源ははっきりしないが500年を超える伝統があるといわれている。神事本来の意味は、疫病や田畑の荒廃といった祟りの元凶となる怨霊を、華やかな踊りやお囃子で盛大に送り出すというもの。出し物の一つに生仁川(なまにがわ)の斎場橋から獅子頭を逆さにつるし、獅子が水面を叩く「橋懸り」と呼ぶ神事が行われる[50][私注 9]
  • 山家神社(やまがじんじゃ)
    長野県上田市に鎮座する神社。国造の祖である神八井耳命を祀る。真田氏に縁の神社である。
  • 尾張神社
    長野県長野市北尾張部に鎮座する神社。神八井耳命に関連する彦八井耳命を祀る。
  • 健御名方富命彦神別神社(たけみなかたとみのみことひこかみわけじんじゃ)
    長野県長野市信州新町に鎮座する神社。国造の祖である神八井耳命を祀る。別当寺が金刺氏開基と伝わり、神社も金刺氏創建の可能性があると管理人は考える。
  • 健御名方富命彦神別神社(たけみなかたとみのみことひこかみわけじんじゃ)
    長野県長野市箱清水に鎮座する神社。現在の祭神は健御名方富命(建御名方神)だが、当地は科野国造・金刺氏の居住地で水内郡の中心地と考えられている[51]
  • 健御名方富命彦神別神社(たけみなかたとみのみことひこかみわけじんじゃ)
    長野県飯山市に鎮座する神社。国造の祖である麻背命を祀る。
  • 会津比売神社(かいづひめじんじゃ)
    長野県長野市に鎮座する神社。祭神の会津比売神伊豆早雄命の娘(会知早雄命の娘の転化か)で、初代科野国造の武五百建命の妻とされる。
  • 会地早雄神社(おうじはやおじんじゃ)
    埴科郡坂城町に鎮座する神社。現在は熊野神と大穴持命を祀るが、名称から本来は会知早雄命を祀ったものか。
  • 墨坂神社(すみさかじんじゃ)
    長野県須坂市に鎮座する神社。生島足島神社と共に畿内と信濃国にのみ見える。論社が二社存在する。
  • 当信神社(たぎしなじんじゃ)
    長野県長野市信州新町に鎮座する神社。式内社。主祭神は大年神・健御名方命。社殿によると『嵯峨天皇の弘仁元年、地頭の仁科氏が社殿を再興。当時は、北へ200mほどの塚田の塚の上の小祠で大年神・健御名方命を祀っていたため大年塚と呼ばれていた。』とのこと[52]。「たぎしな」の言葉は手研耳命[53]に由来するのではないか、という説がある。

関連寺院[編集]

  • 善光寺
    長野県長野市箱清水の寺。通説(公式HP)では、善光寺の由来は本田善光であり、本田善光が善光寺如来を信濃国に持ってきたとされているが、『扶桑略記』では或記(引用した)として「秦巨勢大夫」とあり、『伊呂波字類抄』では「信濃国人若麻續東人」と相違がある[54]。また、『四天王寺秘訣』には光坐寺や本善寺、『古今目録抄(太子伝)』には阿弥陀院、百済寺と多くある[55]。また、天武天皇時に日本全国で造られた郡寺(郡衙隣接寺院、信濃国水内郡は金刺舎人)の1つという指摘がある[56]
    信濃国という辺境の地なのにも関わらず、仏教が受け入れられたのは、善光寺平に渡来人が多く住んでいたために仏教に対する知識を有する人間がいたり、実際に仏教を信仰する人がいたりしたからであると考えられる。
    8世紀に記されたとされる『伊呂波字類抄』引用の善光寺古縁起に、「皇極元年(642年)若麻績東人、水内郡の宅を改めて草堂となす」とあるように、善光寺は元々「草堂」であったとされる。しかし、出土した瓦の様子から、平安時代になる頃には既にある程度の規模の瓦を用いた寺院が形成されていたと考えられる。善光寺が草堂から瓦葺の寺院となったのは、壬申の乱の影響であり、多品治が同族である金刺氏や他田氏を率いて功績を残したことがきっかけであるとされる[57]
    また、善光寺に用いられていたのは「川原寺式瓦」というものであるが、この瓦は地方豪族のいた地域(品部や名代などの王権や中央豪族の部民が存在しない地域)のみに存在していることから、善光寺は地元の豪族(金刺氏)の影響を強く受けていると考えられる[57]
  • 真志野善光寺
    長野県諏訪市の寺。飯田市にある元善光寺から善光寺如来が水内郡(現長野市)に移る際、如来が7年ほど滞在した、との伝承がある。諏訪の伝承によると、善光寺如来は水内郡に鎮座していた彦神別神が善光の夢枕に現れて如来を自らの住まいに招致したとのことである[58]
  • 延命寺(えんめいじ)
    長野県長野市信州新町の寺。口碑によれば金刺氏の開基であり、古刹であった。健御名方富命彦神別神社の別当寺であった、とのことである。近傍に塔平、仁王屋敷などの地名が残る。火災にあい、什物、記録は全て消失した。現在本堂は仮堂であり、無住である[59]

[編集]

  • 川柳将軍塚古墳
    長野県長野市にある前方後円墳で、長野盆地(通称:善光寺平)の中でも最古級にあたる4世紀前期の築造とされる。発見当時は多数の銅鏡や玉類、埴輪が発見されている。
  • 南向塚古墳
    長野県長野市にある前方後円墳で、長野盆地(通称:善光寺平)の中でも最古級にあたる4世紀前期の築造とされる。発見当時は多数の銅鏡や玉類、埴輪が発見されている。長野盆地において、平野部に築かれた本古墳は貴重かつ特異な存在である。6世紀前半の築造と思われ、現在明確な出土品は瑠璃製勾玉1点のみである。2017年現在、付近の芋井神社が所有しているとのこと。上杉謙信にまつわる伝承もあるようだが、地元には由来として『孝元天皇の皇子、少名日子建猪心が水内に勅命で下向し開墾を進めたがこの地に斃れ、住民によって葬り、三面観音像を祀ったものである。故に王塚という。』という伝承があるとのこと。「少名日子建猪心」とは「少名日子建猪命」と書けると思うので、記紀神話の少名毘古那武五百建命を合成したような神名であると思う。もしかしたら「少名日子」には「若い」とか「小さい」という意味があり、葬られているのは「若い武五百建命武五百建命の子神)」ということなのかもしれないと思う。古墳のある高田は尾張神社のある尾張部にも近く、いずれも水害の多かった長野盆地では古来より微高地で水害の起きない貴重な一等地であった。
    芋井神社はかつて元諏訪社と呼ばれており、祭神は南方止売命、配祀に南方刀美命とある。これは八坂刀売と建御名方富命のことであろう。南方止売命(女神)の方が主祭神である点は、「母神」としての女神が被葬者(少名日子建猪命(子神))を守護する、という思想が強く出ていると管理人は感じる。記紀神話では武五百建命神八井耳命の末裔とされているが、水内郡には特に諏訪大社との権威と結び付ける形で武五百建命は建御名方富命の子神である、という伝承がかつてあったのかもしれないと思う。その場合、武五百建命は彦神別神と「同一のもの」となり、善光寺の「奥の院」あるいはかつての年神堂に祀られていた彦神別神とは武五百建命のことである、といえる。記紀神話が編纂され、神話・伝承が整理されるにつれて、全国区的な祖神として武五百建命神八井耳命、地方的な諏訪信仰と連動した祖神として彦神別神と建御名方富命の2大伝承が残されていったものと考える。
  • 森将軍塚古墳
    長野県千曲市(旧埴科郡)にある前方後円墳で、埴科古墳群(はにしなこふんぐん)に属する。築造は長野県内の前方後円墳の中でも最古級にあたる4世紀中期とされており、初代科野国造の建五百建命の墓とする説がある[60]
  • 王子塚古墳
    長野県上田市にある帆立貝式古墳で、上田市唯一の帆立貝式古墳。築造時期は5世紀中期から6世紀前半と見られる。
  • 二子塚古墳
    長野県上田市にある前方後円墳で、上田市唯一かつ東信最東端の前方後円墳。初代国造の武五百建命の墓と伝わり、墳丘上に武五百建命を祀る二子神社があるが、築造は森将軍塚古墳よりも遅い6世紀前半とされており、崇神天皇の御代に国造に任命されたとする記録と矛盾する。

健御名方富命彦神別神社[編集]

『延喜式』神名帳には信濃国水内郡に「健御名方富命彦神別神社 名神大」とある。長野市大字長野字本城東、長野市信州新町、飯山市にあるものはいずれも論者である。文献では、持統天皇5年(691年)に天皇の命で信濃国に「水内神」を祀らせたとする記述[61]があり、これが文献上初見とされる。『延喜式』神名帳に「水内神」の記載はないが、健御名方富命彦神別神社が水内郡唯一の大社であることから、この「水内神」は健御名方富命彦神別神社を指すと考えられている。神社名の通り、本来の祭神は「健御名方富命彦神別神(たけみなかたとみのみことひこかみわけのかみ)」と考えられる。

健御名方富命彦神別神は、諏訪大社では、下社摂社の若宮社に「建御名方彦神別命」として祀られる。建御名方命の御子神とされる。金刺氏が大祝を務めていた下社に縁の神といえる。


長野市箱清水(善光寺の近傍)にある健御名方富命彦神別神社は、明治11年(1878年)までは善光寺境内にあり「年神堂(歳神堂)八幡宮」と称していた。延文元年(1356年)成立の『諏方大明神画詞』では、「年神堂が諏訪大社の分座であり持統天皇5年に記載のある水内神である」としている[62]。また、江戸時代末期の『芋井三宝記』には「年神堂八幡宮は、風祭等の存在からして御年神でなく健御名方富命彦神別神社であり、当地に善光寺如来が来たため仏式になって神名を失い、八幡宮とも誤り称されるようになった」と記している[63]。当地は科野国造・金刺氏の居住地で水内郡の中心地と考えられ、善光寺の位置からは善光寺平が望めることから、古社の所在地としてふさわしいと考えられている[51]

明治12年(1879年)1月、明治天皇臨幸を契機として神仏分離により善光寺年神堂(歳神堂)を善光寺境内から現在地に遷座し、神名帳記載の「健御名方富命彦神別神社」に改称した。なお、当地に移ったのは祭神のみで、旧年神堂の本殿は守田迺神社に移築された。

駒形嶽駒弓神社[編集]

長野市箱清水に鎮座する神社。善光寺の「奥の院」と言われる。祭神は建御名方富命彦神別命、相殿に大宜都姫命。境内内由緒書きは以下の通り。長野市上松に駒形嶽駒弓神社の里宮(現在の名前は「若宮八幡社」、祭神は駒形嶽駒弓神社と同じ、創建は不明。)と称する神社がある。

創立年月は不明であるが、文政十一年(一八二八年)には現在の社号となっており、本殿は文久三年(一八六三年)に再建されたものである。

古くから式内明神大・水内神社の奥社と伝えられている。水内神社は神仏習合時代、善光寺「奥の院」と称され参拝者が多かった。
当神社は善光寺との関連が深く、社紋は卍であり、本殿は善光寺と同じ「撞木造り」である。二月一日には、境内にある善光寺堂童子斎場にて正月行事で用いられた注連等の祭具を焼却する「お駒送り」の行事が行われる。
本殿には木馬四頭が神馬として祀られている。中央祭壇の黒駒の鞍には卍の印があり、乗っている人物は聖徳太子と言われている。その昔、聖徳太子の馬は甲斐の黒駒で、その駒が当社の高嶺にとまり、善光寺如来の鎮座を待ちこがれ仏法を守護した。そして、善光寺如来が当社の馬に乗り年越しの夜、市中を巡行したと言う伝説がある。

昭和以前の例祭日には遠くからも飼養馬を曳き参詣する人が多く、全山馬で埋もれたという。また、養蚕の守護神として篤く崇敬された。

善光寺年神堂[編集]

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

善光寺年神堂(ぜんこうじ・としがみどう)は長野県長野市元善町(信濃国水内郡)の善光寺にあった年神信仰の神社。八幡神も祀っていた。年末に「御越年式」を行う堂だった。善光寺大本願の管轄。御年宮、御年越宮、歳宮、歳神堂。善光寺関連旧跡。

古くから本堂の北にあった。寛永の本堂移転でも本堂の北に位置した。 1879年(明治12年)12月、神仏分離で境内地を遷して長野・健御名方富命彦神別神社となった。御越年式は現在、御供所で行われている。跡地には大本願歴代上人廟と徳川家廟所がある[64]

私的解説・善光寺と聖徳太子[編集]

要は、健御名方富命彦神別神社の前身は、善光寺の年神堂であり、年神と八幡神を祀っていたが、神仏分離の際に善光寺境内から現在地に遷座し、神名帳記載の「健御名方富命彦神別神社」に改称した。祭神も水内大社の伝承などから年神と八幡神を廃し、健御名方富命彦神別神に改めた、ということであろう。

健御名方富命彦神別神社、善光寺年神堂、駒形嶽駒弓神社は一体の存在であって、善光寺が創建される前の金刺氏の神社の形態を残しながら変遷してきたものと考える。現在はいずれも健御名方富命彦神別神を祭神としているため、この神が本来の祭神であった可能性が高いと推察する。そこに八幡神信仰、年神信仰、聖徳太子信仰が加わって善光寺の「神仏習合」時代の信仰ができあがっていたのだろう。善光寺と聖徳太子との結びつきは深く、聖徳太子が善光寺如来に手紙を書いて返事を貰った、という伝承が有名である。その他、松本市にある牛伏寺には

聖徳太子が42歳の時に自ら刻んだ観音像を本尊として鉢伏山に安置したのが始まりという。寺名については、756年(天平勝宝7年)、唐からもたらされた大般若経600巻を善光寺へ奉納する途中、経典を運んでいた2頭の牛が倒れたことから「牛伏寺」の名が付いたという。

という創建伝承がある。

尾張神社[編集]

長野市北尾張部に鎮座する神社。祭神は彦八井耳命、建御名方命。明治時代に天照大御神、八坂斗売を合祀。境内内由緒書きによると

創設年月は不詳であるが、上古尾張神社は本村西南の方向屋敷田(現桜新町)にあった。古学研究によると天照国照彦火明命の子孫である尾張の連某氏本国を横行する山賊等を征伐するため、当国に下向し本村に駐在山賊征伐祈願のため屋敷田に宮殿を建て、祭神に尾張の連の遠祖である彦八井耳命を祀り、崇敬崇拝し、軍を出動させ祈願したところ日ならずして山賊等全く征伐し平定することができた。
その後社殿は久しく屋敷田に祀られてあったが、村の中心部へと、当村四百八番地(旧庚申堂)に移転鎮座した。しかし境内狭く、汚すをおそれ、延暦八年(七八九)に現在地に移転されたものである。

とある。彦八井耳命が尾張連の遠祖であれば、金刺氏と同族ということになる。

参考文献[編集]

私的注釈[編集]

  1. 生島神、足島神は皇祖神だろうか??
  2. 金刺氏(多氏)、物部氏、志紀氏の間に関連性がある、という考え方は管理人も同様である。しかし、祖神として物部氏の邇芸速日よりも格上といえる神武天皇を有していること、物部氏が滅亡した後も金刺氏は信濃国を中心として栄えていたこと、聖徳太子と善光寺との近さからいってむしろ物部氏を滅ぼす方に加担していたのではないか、と思われることから物部氏の配下であったとは考えにくいと管理人は個人的に思う。現実の社会構造(地名や文化の一致)からの考察は素晴らしいと思うが、では他の多氏系の氏族との関連性はどうなのか、何故金刺氏は神武天皇の子孫とされているのか、何故物部、志紀、金刺を含むと思われる賀茂氏そのものが渡来系の氏族であることを隠しているのか、その答えが必要である。治水工事に関して金刺氏がある程度の技術力を有していたこととは思うが、古代において技術者は常に朝鮮半島から招かれていたと思うので、金刺氏そのものが技術者集団であるという点は疑問に思う。金刺氏に関連する「渡来系技術者的集団」として秦氏が果たした役割は非常に大きいと感じる。6世紀頃の渡来としてしまうと、長野県北信にある前方後円墳が作られ始めた時期よりも遅くなってしまい矛盾が生じる。しかも、魏の王の子孫が何故、治水工事の技術集団へと変貌したのか、という点にも説明が必要と思われる。
  3. 創作されていない神など存在するのか? 意味が不明である。
  4. 星に白と黒の2種類がある、という思想は相撲における「白星」「黒星」という言葉に残っているように思う。
  5. 善光寺には「七」という数字にまつわる施設が複数存在する。
  6. どうも「中小首長」という意味が不明である。古代における国造系の氏族は、古い時代にその地方に入植した弥生系の人々で、元から日本に住んでいた人達から見れば、「侵略者」としての性質もあったように思う。倭建命を始めとして各地に征服神話や征服の伝承があることがその証拠である。征服者の子孫やその関係者が国土の開発を行って稲作をする世界を作り、それが可能となるような政治体制を作って行く過程で日本という国を作ったのである。その過程で新しい農業技術が導入されたのであれば、それは国造クラスの人々が招致したと考えるべきだと思う。
  7. しかし、結局飯田出身の本田善光が善光寺を長野に移し、善光寺平が金刺氏の中心になっていくように管理人は思う。
  8. 諏訪は金刺氏の拠点となっていないことから、おそらく上社系の諏訪氏が先に拠点を置いていたところに、後から下社系の金刺氏が入りこんだのではないか、と思われる。上社は地理的な距離の近さからも山梨県方面と縁が深いように個人的には感じる。
  9. 管理人は、個人的にこれは川の神に対する人身御供の名残の祭祀ではないか、と思う。

参照[編集]

  1. 「角川日本地名大辞典」
  2. 2.0 2.1 2.2 https://senshu-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=8264&item_no=1&attribute_id=32&file_no=1
  3. 諏訪市史編纂委員会『諏訪市史. 上巻(原始・古代・中世)』(諏訪市、1995年)
  4. 物部氏と長野氏と金刺氏と信濃、遺跡の見方と歩き方、06-07-24(最終閲覧日:22-11-11)
  5. Wikipedia:日子八井命(最終閲覧日:22-11-12)
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 佐藤雄一「古代信濃の氏族と信仰」(吉川弘文館、2021年)
  7. 桐原健『私の古代学ノート』(信毎書籍出版センター、1983年)
  8. 國學院大学氏族データーベース「意富臣[1]
  9. 傳田伊史「古代信濃の地域社会構造」(同成社、2017年)
  10. 「第三節 大和王権と科野のクニ」『長野県史 通史編 第一巻 原始・古代』1989年、312頁。
  11. 佐藤雄一「古代信濃の氏族と信仰」(2021年、吉川弘文館)
  12. 12.0 12.1 12.2 井上今朝男、牛山佳幸編『論集 東国信濃の古代中世史』(岩田書院、2008年)
  13. ただし、「物部莫奇武連」「紀臣奈率彌麻沙」のような他の倭系百済官人とは異なり、姓を有している様子が見られないので、ここでの「シナノ氏」は「科野国造の一族」という意味ではなく、氏姓制度が成立する以前に朝鮮に渡った信濃の人間が「シナノの人の〇〇」といったニュアンスで呼ばれていた(=シナノは氏ではない)とする説も存在する。
  14. 諏訪社の奉斎氏族古樹紀之房間、樹堂氏(最終閲覧日:22-11-08)
  15. 恒川官衙遺跡、飯田市HP、22-0-25(最終閲覧日:22-11-14)
  16. 【奇怪】長野善光寺の周辺には何故か「若麻績(ワカオミ)」の名前が多い!その理由を知って・・・・みたい?、♀善光寺・御朱印♀、22-06-22(最終閲覧日:22-11-14)
  17. 堂童子について、善光寺さん from 鏡善坊(最終閲覧日:22-11-14)
  18. 【御越年式について】、善光寺さん from 鏡善坊(最終閲覧日:22-11-14)
  19. 久保田昌希編『戦国・織豊期と地方史研究』(岩田書院、2020年)
  20. 上田市誌歴史編(4)「上田の荘園と武士」p.27-31(2001年)
  21. 鎌倉幕府の公式史料である『吾妻鑑』巻1の治承4年(1180年)9月7日条に「中三権守兼遠(中原氏の某の三男の(信濃国?)権守の官職にある兼遠)」とあり(太田, 1936, p4255)、「中三」のように略されていることから、名字ではなく古代氏族としての氏(うじ)と判断。
  22. 太田, 1936, p4255
  23. 太田, 1936, p4255
  24. 太田, 1936, p4255
  25. 現在の長野県岡谷市今井大字
  26. 現在の長野県佐久市今井大字
  27. 今井氏、日本通信百科事典(最終閲覧日:22-11-13)
  28. 今井善兵衛著『更生農村 : 北橘村の実情 』日本評論社(1935年(昭和10年))
  29. 木曾三社神社
  30. 木曾三柱神社②
  31. 今井善兵衛著『更生農村 : 北橘村の実情 』日本評論社、1935年(昭和10年)
  32. 諏訪社の奉斎氏族古樹紀之房間、樹堂氏(最終閲覧日:22-11-08)
  33. 金刺氏、風雲戦国史、HARIMAYA(最終閲覧日:22-11-14)
  34. 御嶽神社 里社本社、玄松子(最終閲覧日:22-11-14)
  35. 門前レア神社詣で、ながの門前まちあるき、20-06-19(最終閲覧日:22-11-14)
  36. 36.0 36.1 36.2 傳田史『古代信濃の地域社会構造』(同成社、2017年)
  37. 37.0 37.1 『日本歴史地図 原始・古代編 下』。
  38. 38.0 38.1 『日本歴史地名大系第二十巻 長野県の地名』。
  39. 藤森栄一『信濃考古学散歩』学生社、1968年
  40. 『日本書紀』巻19欽明天皇14年(553)正月乙亥12
  41. 『日本書紀』巻19欽明天皇14年(553)8月丁西7
  42. 福島正樹「信濃国のなり立ち」 (古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文『長野県の歴史』山川出版社、 2003年) 43ページ
  43. 「第三節 諏訪の金刺氏 第七章 諏訪神社の古態」『諏訪市史』上巻、1995年、704頁。
  44. 国造田精選版 日本国語大辞典
  45. 柳沢遺跡、長野県埋蔵文化センター
  46. 檀田の若月神社 ~境内に平安時代の庚申塔、週刊長野記事アーカイブ、最終閲覧日:22-11-10
  47. 「天皇氏族」(2018年)宝賀寿男
  48. 雨宮坐日吉神社、信州考古学探検隊、himegappa & kamosikamiti.氏(最終閲覧日:22-11-09)
  49. 雨宮坐日吉神社、玄松子の記憶、玄松子氏(最終閲覧日:22-11-10)
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  51. 51.0 51.1 『日本の神々』健御名方富命彦神別神社項。
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  53. 神八井耳命の兄。謀反を起こし神八井耳命、綏靖天皇らに倒された、と言われる。
  54. 長野県立歴史館(2009,p66)
  55. 長野県立歴史館(2009,p69 早稲田大学・新川教授による)
  56. 長野県立歴史館(2009,p73 信州大学・牛山教授による)
  57. 57.0 57.1 桐原健『私の古代学ノート』(信毎書籍出版センター、1983年)
  58. すわのものがたり~善光寺如来様とお諏訪様~、諏訪の魅力を探る。まほろば諏訪圏、谷澤晴一氏語り
  59. 信州新町史、下巻、信州新町史編さん委員、1979、p1445
  60. 科野国造 ( 信濃 ) - 日本辞典(2018年7月6日午前4時29分([JST)閲覧)
  61. 『日本書紀』持統天皇5年8月23日条。
  62. 『諏方大明神画詞』抜粋「本国水内ノ郡善光寺別社ノ事、日本紀第卅ニハ持統天皇五年遣勅使祭諏方・水内神等ト見タリ、又延喜神祇式ニハ諏方郡南方刀美神社二座、水内郡健御名方田富彦神別神社ト云ヘリ、当社ノ分座疑ナシ、是則当郡善光寺郭内ノ当社ナリ」(『長野県の地名』健御名方富命彦神別神社項より)。
  63. 『長野県の地名』健御名方富命彦神別神社項。
  64. 善光寺年神堂、神殿大観、ANDO Mareaki、22-04-17(最終閲覧日:22-11-10)