差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
914 バイト追加 、 2022年10月21日 (金) 09:02
管理人は、図1,2は図4の図から発展した図であると考える。頂点に「太陽」があり、その下に巨人が描かれているのが図4なのだが、この巨人は図1,2では「山」に相当するものと考える。図4の巨人を[[盤古]]型の巨人とすれば、[[盤古]]が亡くなった後に、その体から山に化生した部分もある、とされている。よって、図1,2の「山」は[[盤古]]の体の一部が変化したものなのである。そして、図1,2と図4を見比べた場合、図4の方が増えている紋様があることが分かる。いわゆる「雲」と呼ばれている部分である。
管理人は、これを「雲」でもあるし、「鳥」でもあるし、「角」でもあると考える。大汶口文化が管理人は、これを「'''雲'''」でもあるし、「'''鳥'''」でもあるし、「'''角'''」でもあると考える。また「'''月'''」とも見なせる。大汶口文化が[[河姆渡文化]]の「太陽を運ぶ[[三足烏]](金烏)」の思想を受け継いでいれば、大汶口文化の住人は、これを引き続き「[[三足烏]]」と考えていたことと思う。[[盤古]]型巨人の一部は、死して樹木に化生した、とも言われており、それを[[扶桑]]のような「巨大樹」とすれば、[[三足烏]]はその頂点に留まっている鳥であるし、また太陽を背に乗せて飛ぶ鳥として現されることもあるので、巨人と太陽の間に存在する神霊としては「[[三足烏]]」が一番適すように思うのである。
しかし、これはまた「雲」でも良いのではないか、と思う。古来より三足烏が仕えている西王母は織物に関連づけられていることが多い。おそらく、古代のいずれかの時期、いずれかの地域で、「'''雲は西王母の織物である'''」という考えがあったのではないか、と思う。雲は太陽の下に拡がり、雨や雷をもたらすが、太陽はまたその合間から顔を出す。西王母の原型が太陽女神であったならば、天候を支配する西王母は、その織物を雲となして、天候を操っていたかもしれないと思う。そして、その場合雲は、[[三足烏]]を兼ねていたとしても不思議ではないと考える。三足烏は人々と太陽である原西王母との間にあって、人々に神の使いとして雨水をもたらしてくれる存在でもあったのではないだろうか。天から鳥神が舞い降りてきて、人々に様々なものを授けてくれる、という伝承は各地にある。
そして、死した[[盤古]]が[[蚩尤]]と「同じもの」であるすれば、その首は「[[饕餮]]」といえる。[[良渚分化]]の玉鉞の神人面は頭に羽毛状の冠のようなものを被ってるが、これは大汶口文化では角状のものに描かれ、より後の「[[饕餮]]紋」に近いもののようになっているように思う。しかし、玉鉞に掘られ、「男系の王権の象徴」とされている点は[[良渚分化]]と共通しているように思う。そして、これが「角」であって、頭上に太陽が存在しなくても神人面に属するものとして存在するのであれば、日雲山像の山の上にあるものは、「山の角」でも良いように思う。「山」を「世界樹」とすれば、「世界樹の一部」でも構わないと考える。イラン神話では、世界樹のことを「雄牛の角」と呼ぶ。
これを「月」と考えた場合には、[[盤古]]が樹木神であることを併せて考えると「月の桂の木」である、ともいえる。また[[伏羲]]に近い性質の[[盤古]]型巨人に「太母女神の夫」の役割が割り振られていた場合、'''月が太陽の配偶者である'''という思想は各地にみられる。日本神話にもそのような思想は窺える。また、月を鳥に見たてる神話は、中国では乏しいが、世界各地で見られるのではないだろうか。西欧では有角動物の角を月や豊穣の象徴とする神話的思想もあるように思う。
 よって、管理人は、この「雲状」の図像は、大汶口文化の人々は、特に母系の文化であった初期には[[三足烏]]であり、雲でもあった可能性が高いと考えるけれども、時代が下って地域や、伝播した先の別の文化では角とみなされたこともあるものと思う。であり、雲でもあった可能性が高いと考えるけれども、時代が下って地域や、伝播した先の別の文化では角とみなされたこともあるものと思う。そして、神話的には、特定のものに性質が固定されてしまう、というよりも、'''雲・鳥・月・角'''が'''複合的に合成された性質を持つ'''ものであり、[[三足烏]]の起源としても重要な図像と考える。

案内メニュー