:『淮南子』「天文訓」や『楚辞』「天問」では、[[顓頊]]([[黄帝]]の子孫)と帝の地位を争い敗れたとあり、その際、怒りにまかせて暴れ周り、天を支える柱がある不周山を破壊。そのため天柱が折れ、天が西北に傾いてしまった。中国の河川がすべて東南方向に流れるのはこのためとされている。『淮南子』や『論衡』「談天篇」では女媧による修復もこの時であるとされる<ref>出石誠彦 『支那神話伝説の研究』 中央公論社 1943年 37-39頁</ref>。康回という名で歌われている。
;堯・舜の時代
:『史記』「五帝本紀」や『[[尚書]]』「堯典」では[[堯]](ぎょう)の時代には[[驩兜]](かんとう。堯の息子である丹朱)の紹介で共工が登場しているが、両者ともに堯からしりぞけられた。[[幽州]]の地において処刑されている。『[[韓非子]]』(外儲説)では堯が舜へ天下を譲ることを決めた際にそれに反対したために幽州で誅されたと語られている『史記』「五帝本紀」や『尚書』「堯典」では堯(ぎょう)の時代には驩兜(かんとう。堯の息子である丹朱)の紹介で共工が登場しているが、両者ともに堯からしりぞけられた。幽州<ref>古代において中国の東北にあった燕のこと。</ref>の地において処刑されている。『韓非子』(外儲説)では堯が舜へ天下を譲ることを決めた際にそれに反対したために幽州で誅されたと語られている<ref>金谷治 訳注 『[[韓非子]]』 『韓非子』 第3巻 <[[岩波文庫]]> [[<岩波文庫> 岩波書店]] 1994年 178-179頁</ref>。『[[淮南子]]』では[[舜]](しゅん)の時代に洪水を起こして暴れ、幽州へ追放されたとある。『[[史記]]』[[舜]]本紀には、共工の子孫たちが北の方角にすむ北狄たちになったと記されている。『淮南子』では舜(しゅん)の時代に洪水を起こして暴れ、幽州へ追放されたとある。『史記』舜本紀には、共工の子孫たちが北の方角にすむ北狄たちになったと記されている<ref>『史記』舜本紀「流共工於幽陵 以変北狄」</ref>。
;禹の時代
:『[[山海経]]』の「大荒西経」には共行国という地域が登場しており、[[禹]](う)の時代に共工国を攻めたとする記述がある<ref>袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 233頁</ref>。