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== 概要 ==
平安時代中期、坂上田村麻呂と[[藤原利仁]]は史実をかけ離れて[[説話]]や[[軍記物語]]、寺社の縁起などに頻繁に登場すると同時に、その人物像も次第に史実から解離して伝説化が進んだことで[[田村語り]]が萌芽して成長し始めた{{Sfn|平安時代中期、坂上田村麻呂と藤原利仁は史実をかけ離れて説話や軍記物語、寺社の縁起などに頻繁に登場すると同時に、その人物像も次第に史実から解離して伝説化が進んだことで田村語りが萌芽して成長し始めた<ref>阿部|, 2004|page=65}}, page65</ref>
京都での最も早い伝説化は、[[元亨]]2年([[1322年]])に[[臨済宗]]の[[僧]]・[[虎関師錬]]がまとめた『[[元亨釈書]]』巻9「清水寺延鎮伝」に「奥州の逆賊[[高丸 (鬼)|高丸]]が[[駿河国]]の[[清見関]]を目指して攻め上がり、[[坂上田村丸|坂将軍田村]]の出陣を聞いた高丸は奥州へと退いた」と、[[清水寺]]の創建縁起から続けた物語が加えられ、『[[群書類従]]』所収の[[藤原明衡]]撰の『清水寺縁起』では登場していなかった高丸が登場したことで脚色が加えられ、史実から遊離して説話化が進んだ{{Sfn|京都での最も早い伝説化は、元亨2年(1322年)に臨済宗の僧・虎関師錬がまとめた『元亨釈書』巻9「清水寺延鎮伝」に「奥州の逆賊高丸が駿河国の清見関を目指して攻め上がり、坂将軍田村の出陣を聞いた高丸は奥州へと退いた」と、清水寺の創建縁起から続けた物語が加えられ、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』では登場していなかった高丸が登場したことで脚色が加えられ、史実から遊離して説話化が進んだ<ref>高橋|, 1986|pages=207, pages207-211}}{{Sfn|</ref><ref>阿部|, 2004|pages=66, pages66-68}}</ref>
東北地方における田村麻呂の事蹟や田村語りは、[[鎌倉時代]]末期の[[正安]]2年(1300年)頃成立、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている『[[吾妻鏡]]』に武具の奉納の言い伝えや達谷窟における賊の討伐と寺院の建立が残されている。[[文治]]5年([[1189年]])9月21日の条では、[[源頼朝]]が[[胆沢郡]][[鎮守府 (古代)|鎮守府]]に鎮座する[[鎮守府八幡宮]]に参詣した事が記されている。田村麻呂が東夷の為に下向した時に勧進され、田村麻呂の弓箭や鞭などが宝蔵に納められていると創建の由来を記している。これは[[平安京]]に[[岩清水八幡宮]]が勧進される以前に、田村麻呂により鎌倉方が崇敬する八幡神が胆沢郡の鎮守府に勧進されていた事に驚いて記述した。同年9月28日の条では、頼朝が鎌倉へと帰還する途中、[[平泉]]達谷窟を通ったときの記述に「[[坂上田村丸|田村麻呂利仁等の将軍]]、綸命を奏じて夷を征するの時、賊主[[悪路王]]並びに[[赤頭]]等、塞を構ふるの岩屋なり」とあり、岩屋から[[外ヶ浜]]まで10日あまりで至り、坂上将軍は[[鞍馬寺]]を模して多聞天を安置、[[西光寺]]と号して水田を寄付したと続けている。『吾妻鏡』で田村麻呂利仁と続けて書かれていることが、のちの田村麻呂と利仁の融合へと影響した{{Sfn|阿倍|2004|pages=73-74}}{{Sfn|阿倍|2004|pages=78-79}}{{Sfn|内藤|2007|pages=226-227}}。

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