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1,019 バイト追加 、 2022年3月6日 (日) 09:35
=== 馬の項・まとめ ===
「馬の皮」が蚕の豊穣に関する「魔法のアイテム」である点、「馬の皮」が女性、特に織女を殺すものである点が重要と考える。「馬の皮」は当然生きているものではないので「死んだ馬神」=「冥界神」とはいえないだろうか。少なくとも、確固とした「冥界神」の地位を与えられる前に、'''「『死んだ神』は結婚もするし、それに伴って女性(妻)を殺し、その結果、豊穣(蚕など)が女性から生まれる」'''という思想があったことが分かる。
髭は男性らしさの象徴でもあるので、髭を切ることは須佐之男の男性としての機能の喪失(去勢)、地上追放は神としての処刑を暗喩しているように思える。日本神話の特徴は、殺された女神が「織女」と「大宜津比売」の二つに分けられており、織女が殺されても何も発生しないが、大宜津比売の方に、穀物と蚕への化生が纏められている。そして、須佐之男は、織女を殺した場合には罰を受けたが、大宜津比売殺害では罰を受けていないので、須佐之男のエピソードの中には、人身御供は許されざるもの(織女の場合)、人身御供は肯定されるもの(大宜津比売)の2つの思想が含まれていることになる。これが岩見の民間伝承になると大宜津比売は「面白半分で殺された」となり、「死の必要性」が否定されて、再び「人身御供は許されざるもの」とされることは興味深く感じる。髭は男性らしさの象徴でもあるので、髭を切ることは須佐之男の男性としての機能の喪失(去勢)、地上追放は神としての処刑を暗喩しているように思える。日本神話の特徴は、殺された女神が「織女」と「大宜津比売」の二つに分けられており、織女が殺されても何も発生しないが、大宜津比売の方に、穀物と蚕への化生が纏められている。おそらく、元は「馬の皮が織女を殺して蚕が発生した話」と「須佐之男(冥界神)が大宜津比売を殺して穀物を得た話」の別々の2つの話があったのだろう、と思われるが、それが一つに纏められて、須佐之男と馬の皮が同一視されているのが日本神話といえる。須佐之男が「殺された河伯」の思想を日本に取り込んで生まれた神であるなら、須佐之男は河伯でもあるし、馬でもあるし、扶桑樹でもある、と暗に示されている、ともいえる。中国の神話でも、死んだ馬と扶桑樹は一体化し、乙女を人身御供に得て、蚕を生ましめている。 1.河伯が織女を人身御供に求める話2.死んだ河伯(扶桑樹、死んだ馬)が乙女を人身御供に求め、蚕を生ましめる話 と、「河伯の死」によって、2つの系統に「河伯の物語」が枝分かれしていくことが分かる。  そして、須佐之男は、織女を殺した場合には罰を受けたが、大宜津比売殺害では罰を受けていないので、須佐之男のエピソードの中には、人身御供は許されざるもの(織女の場合)、人身御供は肯定されるもの(大宜津比売)の2つの思想が含まれていることになる。これが岩見の民間伝承になると大宜津比売は「面白半分で殺された」となり、「死の必要性」が否定されて、再び「人身御供は許されざるもの」とされることは興味深く感じる。
ハイヌウェレ神話と比較すると、ハイヌウェレは祭りに参加した者たちに殺されるのだから、祭りの参加者は『死んだ神』に扮した'''「現人神」'''であることが分かるし、大地に埋められて殺されるのだから、'''「大地」もまた死んだ神の一部とみなされていた'''ことが分かる。また、「下位の女神の死」が上位の女神の機能にも何らかの打撃を与えるものであることも示されている。

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