井氷鹿

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井氷鹿(いひか)は、日本神話に登場する神。『古事記』では井氷鹿、『日本書紀』では井光と表記されており、『新撰姓氏録』では、加弥比加尼(かみひかね)や水光姫(みひかひめ)と呼ばれ、女神とされているが、女神と加弥比加尼は兄妹で別人とする系図もある[1]

別名は井光(いひか)、水光姫(みひかひめ)、加弥比加尼(かみひかね)、豊御富(とよみほ)、豊御富媛命(別人か[1]

はじめに[編集]

この女神はあまり有名な女神ではありませんが、良く調べていくと各地にその痕跡がみられるように思います。たくさんの推測を込めて、この女神を探ってみたいと思います。ただし「豊御富(とよみほ)」という名前は、良くも悪くも三穂津姫系の女神と習合させる目的の名と考えます。管理人が、亡き母から聞いた話からこの項を始めます。


母が子供の頃、お祭りは春と秋の2回やった。春のお祭りを「あひかさん」、秋のお祭りを「庚申さん」と言った。豊作の年は神様への感謝の気持ちとして秋祭りを行ったが、不作の年はお祭りをやらなかった(長野県飯綱町)。

井氷鹿・概要[編集]

『記』の記述には、神武天皇が東征のおり、熊野から吉野(大和)へ入り、贄持之子の次に出会った神とされ、光る井から出て来た上に、尾ある人(有尾人)であったとしている(『紀』では、「光りて尾あり」と記述されるのみ)。天皇がお前は誰かと問うと、「私は国津神で、名を井氷鹿」と答え、吉野首等(よしののおびとら)の祖なりと記される。

ここでいう井とは後世でいうような地中を掘った井戸ではなく、川岸に桁(木を井の字形に組んだもの)を出したものとみられ、「井氷鹿が井から出て来た」とは、「川から上がって来た」といった意味と考えられる[2](『記』の場合、「光る川」という意味になる)。

尾については臀部に何かをぶら下げていたとも解釈されている[3]。また神武天皇が吉野に入って3番目に出会う国津神である石押分之子(国巣の祖、『紀』では「磐排別が子」と表記)についても「尾のある人」と記述されている(つまり大和の国津神は有尾人として表現されている)。

『記紀』共に性別に関しての記述はないが、『新撰姓氏録』の「大和国神別地祇の吉野連」の祖に加弥比加尼(かみひかね)とあり、「諡神武天皇行幸吉野。到神瀬。遣人汲水。使者還曰。有光井女。天皇召問之。汝誰人。答曰。妾是自天降来白雲別神之女也。名曰豊御富。天皇即名水光姫。今吉野連所祭水光神是也」との記事が見え、女神とされている。

「海部氏系図」によると伊加里姫の夫は天村雲命。子は倭宿禰と角屋姫(葛木出石姫命)となっている。また「新撰姓氏録」とは異なり、倭宿禰が白雲別命の女(娘)である豊水富命(「新撰姓氏録」では豊御富)を娶り笠水彦命(ウケミヅヒコノミコト)を生んだとしている[4]

井光(いかり)神社[編集]

奈良県吉野郡川上村井光にある神社。吉野川の支流井光川の川沿いにある。井氷鹿は本来、井光川の川の女神だったのではないか。新撰姓氏録には「井戸に光る女がいた」とあり、平安時代初期には川の女神から井戸(水)の女神へと変遷していたことがうかがえる。

井氷鹿(いひか)は、神武天皇を案内して、土地神谷(とちかみだに)を過ぎて休石(やすみいし)に腰をかけた後、御船山(みふねやま)の尾根にある拝殿で波々迦(ははか)の木を燃やし鹿の骨をもって卦(け)を立てて占い、御船の滝巖上に宮柱を立て天乃羽羽矢( ははや-天から授かった矢)を納め、進軍の勝利を祈願したといわれています。(奈良県川上村HP、「井光神社」より)

秋鹿日女命[編集]

秋鹿日女命は島根県松江市秋鹿にある秋鹿神社の祭神である。「大己貴命の火傷を治療した」との伝承があり、伊加里姫のように医薬神の性質を持つ水神女神と考える。おそらく、井氷鹿に類する女神としては、最古の女神なのではないだろうか。 物部氏系の氏族が祀った女神ではないか、と考える。

伊毘比都幣命・伊古比都幣尊[編集]

伊古比都幣尊(いこしつべのみこと)あるいは伊毘比都幣命(いひしつべのみこと)は、本来は女神で、葛木剣根命の母か妻だったのではないか、と考える。葛木氏とは、渡来人を束ねるような役割の氏族だったと思われる。

伊古比都幣尊[編集]

為志神社(いしじんじゃ)の祭神。奈良県葛城市林堂の神社。創建年代は不詳。延喜式神名帳には大和国忍海郡の項に当神社の存在が記載されている[5]。「神名帳考証」には和泉国の火雷神社(現在の愛宕神社)と石津太神社の祭神でもあると伝わる[6]

忍海郡は、葛上郡(葛城南部)と葛下郡(葛城北部)に挟まれた地で、狭い郡だが、鉄生産を行った重要な地域である。忍海の名は大和時代に朝鮮半島から渡ってきた渡来人集団漢人の一つで、鍛冶技術に秀でた忍海漢人に由来する。 日本書紀によると、葛城襲津彦は、新羅の草羅城(さわら)を攻略した際に捕虜を連れ帰った。この捕虜が、桑原・佐糜・高宮・忍海の四箇所に住み漢人の祖となる。忍海漢人は、大和朝廷ではなく葛城氏に私的に職務奉仕していた。しかし葛城氏が五世紀半ばに滅亡した後、中央集権化を進める雄略天皇により阿知使主(あちのおみ)を祖とする東漢氏へと組み入れられる[7]

神伊可古夜日女[編集]

神伊可古夜日女(かむいかこやひめ)は丹波国の神野の神と言われる。賀茂建角身命と結婚し、兄の玉依日子と妹の玉依日売を生んだ[8]

播磨国賀茂郡(小野市、加西市、加東市、西脇市、多可郡多可町)は丹波国氷上郡(丹波市)の西南に隣接しているので、氷上郡と同じように賀茂氏の支配・影響を受けて賀茂国となり、後に播磨国賀茂郡になったのではないか。氷上郡は加古川上流にあり、氷上郡の地名由来は、加古川は古代には「氷川、日川」と呼ばれていたので、氷川の上流域にある地を「氷上」と呼んだと考えている。加古川(氷川、日川)下流域の岡を「日岡、氷丘」と呼び、日岡神社、氷丘小学校、氷丘中学校もある[9]

神野神社[編集]

神野神社(かんのじんじゃ)は兵庫県丹波市氷上町御油(丹波国氷上郡)にある神社。主祭神:別雷命、配祀:嵯峨天皇。『特選神名帳』・『神紙志料』では、神野伊加許也姫神を祭神とする。神野伊加許也姫神山城国風土記逸文に登場する女神で、賀茂建角身命の妻とされる。        

「賀茂の建角身命は、丹波の国の神野の神伊可古夜日女を娶ってお生みになった子を、玉依日子と名づけ、次を玉依日女といった。玉依日女が石川の瀬見の小川で川遊びをしていた時、丹塗り矢が川上から流れ下ってきた。そこでそれを持ち帰って家の寝床の近くに挿して置くと、とうとう身ごもって男の子を生んだ。成人式の時になると、外祖父建角身命は、八尋の家を造り、八戸を堅く固めて、八腹に酒を醸造して、神をつどい集めて、七日七夜宴遊なさって、そうしてその子と語らっていうには『お前の父と思われる人にこの酒を飲ませなさい』と。するとただちに酒杯をささげて天に向かって礼拝し、屋根の瓦を突き破って天に昇ってしまった。そこで祖父の名によって可茂の別雷命と名づけた。いわゆる丹塗り矢は乙訓の郡の社においでになる火雷命である。可茂の建角身命と丹波の神伊可古夜日女と玉依姫と三柱の神は、蓼倉の里の三井の社においでになる」

伊加里姫[編集]

別名、豊水富神。伊加里姫神社(舞鶴市京田)の祭神。伊加里姫神社は「丹後國風土記」殘缺に

笠水(宇介美都(うけみづ))一名真名井。白雲山の近郊に在る。潔清いこと麗しい鏡の如し。けだし是は豊宇気大神の降臨に当たり●●涌き出た霊泉なり。その深さは三尺ばかりその廻りは百十二歩。炎旱に乾かず長雨にも溢れない増減を見ない。その味は甘露の如しで万病を癒す霊機がある。傍らに二つの祠有り。東は伊加里姫命或いは豊水富神と称す。西は笠水神即ち笠水彦神・笠水日女の二神。是即ち海部直等の斎祭る祖神である。

とある。

「海部氏系図」によると伊加里姫の夫は天村雲命。子は倭宿禰と角屋姫(葛木出石姫命)となっている。また「新撰姓氏録」とは異なり、倭宿禰が白雲別命の女(娘)である豊水富命(「新撰姓氏録」では豊御富)を娶り笠水彦命(ウケミヅヒコノミコト)を生んだとしている[10]

笠水彦命は「海部氏系図」に、天火明命四世孫(天火明命―天香語山命―天村雲命―倭宿禰命―笠水彦命 *天香語山命と天村雲命は漏れているため追加)とのこと[11][12]

天村雲命-天忍人命
   |    |-------天忍男命
   |    |         |----世襲足姫
   |--角屋姫(葛木出石姫)  |----澳津世襲命(尾張連祖)
   |--倭宿禰命(天御蔭命)  |
 伊加里姫             |
 土神剣根命----------賀奈良知姫

笠水神社[編集]

笠水神社(うけみづじんじゃ)。舞鶴市字公文名にある神社。祭神は笠水彦神、笠水姫神。

坐摩神社[編集]

坐摩神社(いかすりじんじゃ、ざまじんじゃ)は、大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺にある神社。式内社(大社)で、摂津国一宮。神紋は「白鷺」。正式な読み方は「いかすりじんじゃ」だが、一般には「ざまじんじゃ」と読まれることが多く、地元では「ざまさん」の通称で呼ばれる。同社の神紋は白鷺である。神功皇后が坐摩の神の教えにより白鷺の多く集まる場所に坐摩神を奉遷なされたことに由来する[13]

大阪市中心部の船場にある古い神社で、同地の守護神的存在である。南御堂の西隣に位置し、境内は東向きで、入口では大小3つの鳥居が横に組み合わさった珍しい「三ツ鳥居」が迎える[14]

祭神は以下の5柱で[15]、「坐摩神」と総称している。

  • 生井神(いくゐのかみ) - 井水の神(生命力のある井戸水の神)
  • 福井神(さくゐのかみ) - 井水の神(幸福と繁栄の井戸水の神)
  • 綱長井神(つながゐのかみ) - 井水の神(「釣瓶を吊す綱の長く」ともいわれ、深く清らかな井戸水の神)
  • 比祇神(はひきのかみ) - 竃神(屋敷神。庭の神)
  • 阿須波神(はすはのかみ) - 竃神(足場・足下の神。足の神であり旅の神)

『古語拾遺』等によると神武天皇が高皇産霊神・天照大神の神勅を受けて宮中に祀ったのが起源とされ[16]、神祇官西院で坐摩巫(いかすりのみかんなぎ)によって祀られていた。

『延喜式』によれば、坐摩巫には都下国造(つげのくにのみやつこ)の7歳以上の童女を充てるとされ、西から来る穢れを祓う儀式を行うといわれる。なお、都下とはこの神社が最初にあった淀川河口の地で、摂津国の菟餓野(とがの、都下野とも書く。現在の上町台地一帯)を指すと見られる。

「いかすり(ゐかすり)」の語源には諸説あるが、坐摩神社では、「居住地を守ること」という意味の「居所知」(ゐかしり)の転と説明している。また、『延喜式』には「さかすり」の訓も記されている[17]

都下国造は闘鶏国造とも書き、闘鶏国(大和国北東部)を支配した国造とされる[18]。都祁水分神社(奈良県奈良市都祁友田町。祭神:速秋津彦神、天水分神、国水分神[19])、都祁山口神社(奈良県奈良市都祁小山戸町。祭神:大山祇神[20])が関連する神社のようである。

都祁山口神社によれば、神武天皇の皇子神八井耳命の御孫である都祁直が闘鶏国造となり、小山戸に居住し氏神を祀ったのを起源とする、とのこと。都祁山口神社は、元々は都祁水分神社と隣接して建っていたとされ、神社の背後の山上字御社尾に巨石があり、元慶3年(879年)に水分神が白龍となって降臨した場所と伝える。

私的考察[編集]

闘鶏国造とは、神八井耳命の子孫とのことなので、多氏系の氏族と思われる。拠点に水分(みまくり)の神社を持つこと、斎宮という名の人身御供的な若い女性を祭祀に使用する点は、多氏系氏族の祭祀の特徴と考える。多氏系の金刺氏が有力豪族であった長野県にも、武水別神社(千曲市八幡)という水分(みまくり)の神社があり、長野市信州新町の健御名方富命彦神別神社(水内大社論社)には斎宮という地名が残る。人身御供の伝承もある。闘鶏国造家の地位は時代と共に低下したが、彼らの神々は宮中で祀られる神となったようである。祭神は井戸の神と竈神だが、特に井戸の神は井氷鹿女神に相当するものと言えるのではないだろうか。

神々の中に「波比祇神」という神の名が見え、日置氏との関連性があるのではないだろうか、と個人的に推察する。

伊香保女神[編集]

伊香保神社(いかほじんじゃ)。群馬県渋川市にある神社。伊香保温泉を守護する神社。式内社(名神大社)で、旧社格は県社兼郷社。上野国三宮とされる。伊加保神社とも書かれる[21]。現在の主祭神は大己貴命と少彦名命。

ただし当社が現在の温泉地に移転する以前は、「いかほ」(榛名山も含むこの地域の旧称)の山々を山岳信仰の場とした「いかつほの神」一座が祭神であったとされる。

「伊香保」の地名は古く、『万葉集』の東歌にも詠まれている。「厳つ峰」(いかつほ)とか「雷の峰」(いかつちのほ)に由来し、榛名山、とくに水沢山を指す古名だったと言われている。伊香保神社ももとは、水沢山を信仰の対象としたもので、別の場所にあったようだ[22]

神道集の赤城神社縁起では女神とされる(意岐萩神を参照のこと)。物部氏系の女神と考える。

備考[編集]

  • 『古事記伝』では、井光のあった地を飯貝(現吉野町飯貝)とし、「伊比加比」が訛って「イヒカ」になったとする考察をしている[23]
  • 『古事記』では、のちに大和国の忍坂(現桜井市)においても尾の生えた土雲が大室(『記伝』では土中の室で山腹に横穴を掘ったものと解釈)にいた記述があるが、八十猛が久米の歌を歌ったのちに刀を抜き、斬殺している[24](従った吉野の国津神とは対照的な記述となっている)。

私的考察[編集]

まず、別名に「豊御富」・「豊水富」(とよみほ)とあることから、三穂津姫に関連の深い女神と考える。水光姫(みひかひめ)という名からは天甕津日女命との関連が示唆されるように思う。本来は出雲系・神戸郡系から派生した女神で星神や水神を兼ねた女神なのではないか、と思う。そして、疫神としての性質もあるように思う。吉野川の周辺には多古という地名も見えるので、賀茂系氏族の影響も示唆される。

加弥比加尼(かみひかね)という名のうち、「加弥」は「かや」とも読めるので、阿陀加夜努志多伎吉比売とも関連すると考える。阿陀加夜努志というのは管理人の考えでは、大国主命の別名であり、天津甕星の別名でもある。この名が「夜に輝き光る姫」とすれば、出雲の疫神的蛇女神である、肥長比売も近い女神と考える。丹生川上神社では、鯖を「人身御供」として捧げる祭祀がある、とのことなので、本来は人身御供を捧げる「白羽の矢」の女神、あるいは人身御供の象徴とされる女神そのものだったかもしれない、と思う。

そう考えれば、丹後半島では竹野神社の伝承の、「斎宮の処遇を定める天照大御神」のような機能を持つ女神、あるいはその下位の人身御供も同然の「斎宮」そのものといえる。人身御供そのものということになれば、神に捧げるそのものが井氷鹿女神といえる。

どちらかというと賀茂系の女神かと思うので、丹後半島で名のみしか残されていないのは、海部氏の勢力が強くなって廃れてしまったからかもしれない、と考える。伊加里姫は笠水彦神、笠水姫神が祀られる前の、笠水神社の祭神だったのではないだろうか。吉野では賀茂系の氏族が優位だったので、その名が残されたのであろう。

古事記の大和国の「尾の生えた土雲」とは、単純に男性形の天津甕星のことで、疫神的な大国主命の形態の神のことと考える。いわゆる八俣遠呂智的な神のことである。

上野(群馬県)の榛名山の女神について。神道集の「赤城大明神縁起」には伊香保の神は女神のように書かれているので、女神とする。群馬には多胡という地名があるので、多胡郡に入植した賀茂系の氏族か、同じくこの地名に縁のある多氏系の氏族が持ち込んだ女神と考える。でも、群馬は一之宮貫前神社に経津主命が祀られており、丹生神社も多く、物部氏系の勢力も強いので、物部氏が賀茂系の女神を取り込んで、

「都から来た貴人の末娘の伊香保姫を守り支える忠臣の伊香保大夫」

という中世の神話を作り上げたのだと考える。この場合の伊香保姫は、「父親の権力と財産を受け継ぐ正統な女神」という意味で使われており、記紀神話の伊邪那岐命と天照大御神の関係になぞらえているのだと思う。それに対する「忠臣の伊香保大夫」こそが上野の物部氏の矜持ということであろうか。

そして、その矜持は丹生都比売神高野御子神を守り抜いた人々の矜持にも通じるように思う。丹生都比売(ニフツヒメ)とは、「ニ」+「フツヒメ」で物部氏系の女神であり、天道日女命のことでもあると考える。彼女の父神が大国主命であれば、その死後、その権力と財産を受け継ぐのは天道日女命である、それを守り支えるのが物部氏である、という強い信念と矜持が、記紀神話の原型として存在したのではないだろうか。

「赤城大明神縁起」には、それを邪魔して伊香保姫を害そうとするのは、信濃国更科郡の更科五郎(更科の怨霊)とある。更科郡の犬石には、女神を害するのは「黒犬」だとの伝承がある。「早」という字のつく出早雄命が女神を助けようとする白犬ならば、黒犬というのは意岐萩神のことと言うしかなく、これは水内郡の荻野に移行すれば「彦神別神」という神の名になるように思う。

紀州では、おそらく丹生都比売神井氷鹿という下位の疫神に変更しよう、という動きが賀茂系氏族等の間であったと思われるが、高野山に寺院を招致することで、女神の変節を防ぎ、一方で上野では井氷鹿を利用して、丹生都比売神を変節させようとした勢力を非難する説話を作ったのではなかろうか。おかげで、伊香保の女神丹生都比売神とは違う女神であることを強調するが故に、「太陽女神以外のあらゆる女神の性質を意図的に詰め込んだ女神」になってしまっている感がある。丹生川上系の神社で丹生都比売神が祀られていないのは、丹生川上系の神社は丹生都比売神を排除するための神社だからと考える。

その他・関連がありそうな名前[編集]

関連項目[編集]

参考文献[編集]

参照[編集]

  1. 以下の位置に戻る: 1.0 1.1 鈴木真年「紀伊国牟婁郡海神社祝笠嶋家系図」『諸氏家牒』、東京大学史料編纂所データベース。
  2. 川口謙二 『東京美術選書23 続神々の系図』 東京美術 初版第8刷1996年 ISBN 4-8087-0062-X p.27.
  3. 同『続神々の系図』 p.27.
  4. *神名* 井氷鹿 (井光・伊加里姫)(改定)、かむながらの道 ~天地悠久~(最終閲覧日:25-01-15)
  5. Wikipedia:為志神社(最終閲覧日:25-01-16)
  6. 爲志神社 (改定)、かむながらの道 ~天地悠久~(最終閲覧日:25-01-16)
  7. 笛吹神社の参道⑥為志神社(葛城市・林堂)、エナガ先生の講義メモ(最終閲覧日:25-01-17)
  8. 上賀茂神社(かみがもじんじゃ)その1、京都の時空に舞った風(最終閲覧日:25-01-16)
  9. 神野神社(かんのじんじゃ、丹波市) 、古代史探訪、印南神吉 (いんなみかんき)(最終閲覧日:25-01-16)
  10. *神名* 井氷鹿 (井光・伊加里姫)(改定)、かむながらのみち、~天地悠久~(最終閲覧日:25-01-02)
  11. 笠水神社 (改定2)、かむながらのみち、~天地悠久~(最終閲覧日:25-01-02)
  12. 伊加里姫神社(いかりひめじんじゃ)舞鶴市京田、丹後の地名・地理・歴史資料集(最終閲覧日:25-01-02)
  13. 新発見「豊臣期大坂図屛風」の魅力関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター、2009年3月31日
  14. Wikipedia:坐摩神社(最終閲覧日:25-01-03)
  15. 潮, 1936a, 『官報』, p635
  16. 児玉, 1935, p4-7
  17. Wikipedia:坐摩神社(最終閲覧日:25-01-04)
  18. Wikipedia:闘鶏国造(最終閲覧日:25-01-04)
  19. Wikipedia:都祁水分神社(最終閲覧日:25-01-04)
  20. Wikipedia:都祁山口神社 (奈良市)(最終閲覧日:25-01-04)
  21. Wikipedia:伊香保神社(最終閲覧日:25-01-02)
  22. 伊香保神社、渋川市観光情報(最終閲覧日:25-01-02)
  23. 『日本書紀 上 日本古典文学大系』 岩波書店 第5刷1971年 p.198.脚注7。
  24. 『古事記 祝詞 日本古典文学大系』 岩波書店 第21刷1977年 pp.157 - 159.
  25. 葛城襲津彦(国史)