キジも鳴かずば
『キジも鳴かずば』(きじもなかずば)は長野県長野市信州新町に伝わる民話。
「まんが日本昔ばなし」でアニメ化された事がある[1]。
あらすじ
- 犀川という川のほとりに小さな村があった。そこには弥平という父親と千代という幼い娘が2人で暮らしていた。千代の母親は数年前に発生した村の洪水の犠牲になった。ある日、千代が重い病にかかって寝込んでしまった。弥平は必死で千代の看病をするが、千代は食欲が進まず「小豆粥が食べたい」[2]と弥平に話す。小豆粥は千代の母が存命だった頃に1度だけ家族で食べた思い出の料理だった。しかし貧しい弥平の家には小豆や米が無かった。千代の病を治したい弥平は彼女に小豆粥を食べさせるために村の地主の倉庫から米と小豆を盗み、小豆粥を千代に食べさせた。
- 小豆粥を食べたおかげか千代の体調は回復し、外で遊べるようになった。弥平が畑仕事に出かけて留守番をしていた千代は、小豆粥を食べた嬉しい出来事を「あずきまんま食べた」と歌いながら鞠つきをした。この千代の手鞠唄を近所の村人が聞いていた。
- その夜から激しい雨が降り出し、洪水が起きそうになっていた。村人達は川の氾濫を鎮めるために咎人を「人柱(ひとばしら)」にしようと相談していた。「人柱」とは生きた人間を埋めるという恐ろしい風習である。そこで村人の一人が千代の手鞠唄の事を皆に話して弥平を人柱にする事を思いつく。その後弥平の家に役人が押し寄せる。怯える千代に対して弥平は「心配するな。じきに帰ってくる」と話すが、弥平は「人柱」として川のほとりに埋められてしまった。弥平が捕らえられ人柱にされた原因が自身の手鞠唄であった事を知り、悲しみにくれる千代は毎日泣き続け、誰とも口を利かなくなり村から姿を消した。
- それから数年後、ある猟師がキジの鳴き声を聞いて鉄砲を撃った。猟師がキジが落ちた所に向かうと、そこに撃たれたキジを抱きかかえた若い娘が現れる。その娘は「キジよ。お前も鳴かなければ撃たれずに済んだのに」とキジに語り掛ける。猟師はその若い娘が千代である事に気づくが、千代は撃たれたキジを抱きかかえてどこかへ消えて行ってしまった。その後千代の姿を見た者は誰もいない。
登場人物
- 弥平
- 千代の父親。妻(千代の母親)を数年前の洪水で亡くしてからは娘の千代と2人暮らし。貧しい暮らしだが、娘思いの優しい父親。病気になった千代を助けるために盗みをしてしまう。
- 千代
- 弥平の娘。 元は鞠遊びが好きな明るい子供であったが、弥平が人柱にされてからは誰とも口を利かなくなってしまう。弥平が人柱にされた頃は幼児であったが、後半に登場した際には成長しており、かなりの年月が経っている様子。
- 地主
- 弥平達が暮らす村の地主。
- 千代の母
- 数年前に発生した洪水の犠牲となった。かつて小豆粥を作った事があり、これが千代の思い出の味となる。
- 村人
- 千代の家の近くで畑仕事をしていた村の住人。偶然千代の手鞠唄を聞いた事で弥平が地主の家で盗みをした事に気づく。
- 猟師
- 物語の終盤で登場。空で鳴いていたキジを撃った。成長後の千代が撃たれたキジに語り掛けている場面に遭遇した際に、「千代、お前口が利けたのか」と言っている事から、千代の事を知っている様子。
出典
- まんが日本昔ばなし〜データベース〜 - キジも鳴かずば, http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?, id=55, nihon.syoukoukai.com, 2021-12-02
私的解説
これは本来、長野県長野県長野市信州新町水内にある久米路橋をかけた際の伝承である。久米路橋は伝承では、創建は、推古天皇時代(7世紀)、百済の渡来人 「路子工(みちのこたくみ ) 」が架けた橋で、山梨の猿橋などとともに架けた橋のーつとされている[3]。
物語の最後に登場する雉は女主人公のトーテムといえる。雉が死ぬと同時に女主人公も姿を消す。
女主人公はかつて女神であったもので、その神話が崩れて民間伝承化したものと考える。人柱にされた「父親」とは本来女神に対する人身御供であったものと思われる。女神は「川の神」かあるいは「建築工事」に関する職能神であった可能性がある。記紀神話では雉は天照大御神か、あるいは下光比売命に関連づけられる鳥なので、女主人公はかつての「太陽女神」だったと考える。この場合は、「建築工事」に関する職能神としての性質も有していたとすることの方が妥当かもしれない。
女主人公の父親は小豆を盗んで罰を受ける。この点はガリア(現在のフランス付近)の伝承といえる「美女と野獣」の冒頭に似る。「美女と野獣」の冒頭では、旅の商人であった女主人公の父親が、たまたま迷い込んだいわば「魔法の庭園」で、無断で薔薇の花を追折り取って罰を受ける。ガリアでは「木を切り倒す」ということを象徴とする神がいて、エススという名である。この神は「木を切り倒す木こり」の図で表されるが、軍神でもあるので、彼の切っている「木」とは戦いの「相手方」を象徴しており、「木を切り倒す」とは「敵を倒す」ということを意味している、と管理人は考える。「キジも鳴かずば」の父親も、「美女と野獣」の父親も娘のために植物を本来の持ち主から切り離して盗みとろうとする。これはエススのような神が「略奪して他人の財産を奪う」という神話を象徴している行為と考える。これが「神話」として語られていた時代には、略奪を生業とするような戦闘的な民族にとっては「正当な行為」の神話とされていたものが、時代が下って略奪行為が非難されるような時代になると、逆に非難されて「罰を受けなければならない行為」へと変換され、神話として相応しくない物語になったので、神話を外れて民間伝承化したものと考える。
「美女と野獣」では、父親が薔薇の花を折るが、娘が父親の身代わりとなって罰を受けることになる。「キジも鳴かずば」では、父親による窃盗行為後の展開が「美女と野獣」とは異なり、父親自身が罰を受ける。おそらく、これは「キジも鳴かずば」の方が古い形式の物語のモチーフを残している、と管理人は考える。
ガリアのエスス的な神は、日本では須佐之男命とその子神の五十猛神に相当するように思う。特に切った木を利用して木工芸に使用する神は五十猛神なので、「木を倒して利用する神」としてのエススは、特に五十猛神に類似している。須佐之男命は体毛を抜いて木に変える神とされていて、植物神としての性質がある。そして、その利用用途も定めたとされる。須佐之男命の分身といえる五十猛神は、須佐之男命の仕事の延長として木を切り倒し、加工して利用する神でもあるので、本来は須佐之男命と一体であった神として「植物神」としての性質も有していたと考えられるのだが、須佐之男命から分離して「木を切り倒し、加工して利用する神」のみの性質となってしまったら、これを「植物神」とみなすのは妥当だろうか、と管理人は思う。「植物神」が自らを切り倒して加工したら、それは彼にとって「死」を意味する。そうしたら、誰が次に種を植え、苗を育てるのだろうか。神は死んでしまったのに、ということにならないだろうか。これは母系社会の時代には、「種を植え、木を育て、切り倒して加工して利用し、また苗木を育てて木を再生させる」までが「女神」の管轄であり、男神は「育て利用される植物神そのもの」であったものが、世界の父系化が進むにつれて「母親」ともいえる女神の技を男神の技に変更してしまったために生じた矛盾であると考える。女神の技と権利を男神に移したので、植物神である男神は自ら生えて、自ら自殺して、自らを加工するような奇妙な性質を獲得することになったと思われる。このため、神話が民間伝承化した場合に「美女と野獣」のヒロインは「野獣を再生させる」というかつての「女神の技」の片鱗を残した物語が発生しているように思われる。日本の天若日子神話でも天若日子の妻の下光比売命にも同様に「再生の女神」の片鱗が窺える。
自然の植物の大部分は雌雄同体であって1つの個体で生殖が可能であり、親が枯れてしまっても種が残ればそこからまた新たな芽を出すことは、現代的・科学的に事実であり、現代人であれば信仰とは関係なく自然現象として知っていることである。しかし、古代の人がこのような科学は、現象としては知っていても理論を知っていたとは思えないので、神話に置き換えるためには神話的理屈が必要であったと思われる。その解決法の一つが、「植物を自ら発生させることから、死後加工するまでを管轄していた神である須佐之男命」から、「木を切り倒し、加工して利用する神」という性質を分離して新たに五十猛神を須佐之男命の子神として独立させたことではないだろうか。こうすることで、須佐之男命はいつまでも体毛から木を生やすことを続ける神となり、五十猛神はそれを切り倒して利用し続ける神になることができるのである。切り倒された植物の1本1本は死ぬが、親である須佐之男命は死なないし、植物たちを切り倒す「兄弟」ともいえる五十猛神も死なないことになる。
関連項目
脚注
- ↑ まんが日本昔ばなし〜データベース〜 - キジも鳴かずば, http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?, id=55, nihon.syoukoukai.com, 2021-12-02
- ↑ 千代は「小豆まんま」と言っている(「まんま」はご飯や食事を意味する幼児語)
- ↑ 登録有形文化財となった久米路橋の特徴、土木・環境しなの技術支援センター(最終閲覧日:22-11-27)